21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

誰もが安心して働き、暮らせる社会の実現をめざして

今年の県労組会議定期総会は、60人を超える参加者とともに新たな運動方針を確認しました

長野県平和・人権・環境労働組合会議(県労組会議)は10月31日、代議員・傍聴者など約60人を集め、長野市内で第30回定期総会を開きました。高市早苗衆議院議員が10月21日、第104代内閣総理大臣に指名され、憲政史上初の女性首相として組閣されたばかりでした。 

主催者挨拶をする宇佐美正信議長

総会議長を務めた信毎印刷労組の丸山信子さん

主催者あいさつで宇佐美正信議長は、石破政権が退陣し、高市政権が発足した点について触れ「保守中道路線から保守右派へとなり、日本が再び安倍政権回帰へとなってしまい、自民党の解党的出直しとは言い難い危険な方向へ進むことは必至な情勢です。とりわけ参議院選挙では外国人を差別し、日本人ファーストといった自国さえよければという多文化共生社会の実現を否定する差別・排外主義政党が台頭するなど民主主義を脅かす危険な政治情勢にあります。平和も人権も環境も今すぐには結果が出ないことも多くありますが、学習と交流など通じ単産・地域の枠を超えて労働者の立場に立って引き続き労組会議運動を進めていきたい」と呼びかけました。

来賓として、連合長野の根橋美津人会長、立憲民主党県連の埋橋茂人政調会長(長野県議会議員)、社会民主党県連合の中川博司代表(長野県議会議員)、部落解放同盟県連の小山慎彦執行委員長、朝鮮総聯県本部の李 明宏委員長、県労働金庫の西澤忠司理事長、こくみん共済coop長野推進本部の吉岡光久事務局長にごあいさつをいただきました。

経過報告をする喜多事務局長

来賓、役員、代議員など約60人が参加

討論では、レゾナック労組大町支部の矢口泰宏書記長、長野地区労組会議の宇都宮庸雄議長、私鉄県連の荻原公和執行委員長ら3人の方から、それぞれ喜多事務局長への深い感謝の言葉とともに発言していただきました。「連合に加盟できない(産別に加盟していない)花工房福祉会労組が結成された経緯。国鉄闘争の学習会を開催」(長野地区労組会議)。「公共交通運営の大変な状況から県への働きかけの成果への御礼」(私鉄県連)

 

レゾナック労組、矢口泰宏書記長

長野地区労組会議、宇都宮庸雄議長

私鉄県連、荻原公和執行委員長

 

特別決議として「平和と民主主義、国民生活を守り抜くため、総選挙に勝利し政権交代を実現する決議」が採択されました。最後に「労働者の誇りと希望を胸に、どんな困難にも屈せず、社会の公正と平和を守るために、これからも堂々と運動を続けます。すべての働く仲間とともに、私たちは声を上げ、手を取り合い、連帯の力で新しい時代を切り拓くことを誓い合いましょう。」とする「総会宣言」を採択しました。

そして長きに渡り、県労組会議事務局長として、長野県の運動を牽引してきた喜多英之事務局長が退任されました。

喜多事務局長は今後も特別幹事として、信州市民連合を始めとして、日朝長野県民会議・長野県アスベスト対策センター・ミャンマーの民主化を支援する信州の会などのさまざまな運動を担っていただきます。

退任あいさつをする若林茂副議長

新たに特別幹事となるお二人と記念撮影

役員改選では一部役員が交代しましたが、県労組会議三役は若林茂副議長、喜多英之事務局長が退任され、新たに特別幹事として今後も関わっていただくことになりました。また、新たな副議長に髙橋洋さん、事務局長に草野麻理子さんが選任されました。役員体制(四役)は以下の通りです。

◆議長=宇佐美正信(国労長野)、◆副議長=伊藤浩二(自治労)、髙橋洋(私鉄県連)、大橋孝宏(森林労連)◆事務局長=草野麻理子(自治労)◆事務局次長=間宮正博(県労組会議・自治労)

新たに副議長に選出された私鉄県連・髙橋洋さん

事務局長に選任された草野麻理子さん

 

総会宣言全文

長野県内在住の困窮するミャンマー人留学生にお米を贈りました

日本で学びたいと信州へやってきたミャンマー人たち

ミャンマー民主化を支援する信州の会は、先月初旬に県内に留学しているミャンマー人学生30人それぞれにお米5キロを支援しました。

こちらの投稿では顔は隠してありますが、若麻績敏隆代表からお米を受け取ると、みなさんそれぞれとてもいい笑顔でした!

困窮するミャンマー人留学生たちへの支援が求められています

クーデター下で軍と民主派との内戦状態にあるミャンマーでは、教育環境が損なわれ安心して学ぶ環境が奪われています。またクーデターで実権を握った軍は民主派との対立のなかで兵士が不足したため徴兵制をはじめましたが、徴兵から逃れるためにミャンマーを出国する若者も後を絶ちません。歴史的な円安とインフレによる物価高は国民を苦しめていますが、信州で学ぶミャンマー出身の若者たちも経済的に困難な状態に置かれています。安心して留学生たちが学べるように受け入れ側の学校や行政の支援が求められています。

【東京新聞】「話が違う」…軍政から逃れ来日したミャンマー人留学生の苦悩 「受け入れ拡大」が国策なのに、支援態勢は
2025年6月29日 06時00分

【信濃毎日新聞】内戦を逃れ長野県に来たが、バイトは10回連続不合格… 困窮するミャンマー人留学生の不安
2025/07/30 11:30

被爆80周年原水禁世界大会(長崎)~長野県代表団報告~

今年も長野県原水禁は、8月7日(木)8日(金)9日(土)開催の「被爆80周年原水爆禁止世界大会・長崎大会」に参加した。

 

8月7日(1日目)

長野県からは、自治労、森林労連、国労長野、松本地区、上伊那地区、県原水禁と、それぞれの団体から総勢8人が参加。今年は3日間とも天候に恵まれず、まず行きのフライトが福岡空港に着陸か、羽田へ戻ってくるかの条件付きで出発した。なんとか長崎空港に着陸したものの雷と大雨で地上業務がストップしてしまい、機内で待機。1時間後、ようやく降りることができた。

ようやく降りられたと思ったら、空港から長崎市内へ向かう高速バスに並ぶ列がすさまじく、残念ながら結局一日目の開会式には間に合わなかった。ギリギリ受付だけ済ませて、全員で路面電車に乗りホテルへチェックイン後、懇親会の会場へ向かった。懇親会では、林野労組出身の大橋団長からあいさつをいただき、それぞれ自己紹介をした。また翌日の分科会をどこに参加するかなど相談し、長崎名物を囲んで交流を深めた。

 

 

8月8日(2日目)

 2日目も天候はあまりよくなく、午前中はおのおの選択した分科会へ参加した。

今年は午後から民間の軍艦島ツアーに参加予定の参加者もいたので、事務局は朝から、ツアー会社への問合せなどに追われた。11:30時点で上陸か周遊かなどが確定すると聞き、参加希望者に事情を説明する。キャンセル料は発生しないとのことなので、6人のうち2人はキャンセルを申し出た。

その後、島への上陸はしけが強いので難しく、周遊コースに変更になった。4人のツアー参加者は、それぞれの分科会を少し早めに退室して港へ向かった。思ったより混んでる様子もなく、すんなりと乗船できた。 

しばらく船に揺られていると、明らかに存在感のある島が見えてくる。遠くから見ても迫力ある島の様子に息をのんだ。廃墟となった炭鉱の島は、静かにそこに立っていた。上陸できない分、いろんな方向から見れるように島の周りを旋回する。当時は、かなり賑やかな最先端の場所だったのだろう。この島だけでひとつの社会が形成されていたそうだ。ツアーでは触れなかったが、ここでも朝鮮人労働者や中国人捕虜の強制労働が行われていたと知り、また一つ歴史を知る貴重な機会となった。

『端島 (長崎県)』ウィキペディア(Wikipedia)より

端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧:西彼杵郡高島町)にある島。通称は軍艦島(ぐんかんじま)。明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。1974年(昭和49年)の閉山にともない、島民が島を離れてからは無人島である。島は三菱の所有地であり、島民の多くは三菱の社員で、家賃の心配がなく、島の生活を管理する強固な社会システムが築かれており、当時の日本の平均賃金よりも高い給料が支払われていたため、島民は経済的に豊かだった。テレビや冷蔵庫、洗濯機などの「新・三種の神器」の普及率が、1950年代には全国平均をはるかに上回る100%近くに達していて、小中学校、共同販売所、映画館、病院など、当時の最先端の都市機能が備わっていた。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという。

戻ってからは、翌日予定していた松本水労さん寄贈の折り鶴を奉納するため、平和公園へ向かった。式典の準備も大詰めという感じで、なかなか見れない光景を見ることができた。報道でよく目にする平和祈念像を目の前で堪能することができた。

夜の夕食交流会では、地元民に人気の居酒屋へ。おいしい料理に団員の話にも花が咲いた。

 

 

8月9日(3日目)

3日目は、早めに集合して慰霊碑参拝へ。この日は朝から大雨で、とても歩いて行ける状況ではなかったため、タクシーで向かった。到着したのは、竹の久保、梁川(やながわ)公園。昨年同様、慰霊碑を参拝した。

普段なら、近くの小学校の児童が手作りした灯籠がズラーっと並んでいてとても華やかなのだが、今年は雨のため撤去されていて残念。お線香をあげてお参りするにとどまった。その後、長野県団として、団長があいさつをして地元の方達と歓談して解散した。

参拝を終えて、雨の中バスで閉会式会場へ向かう。例年は、閉会式終了後、参加者全員で爆心地公園まで行進する予定だが、これもギリギリまで中止にするか検討するとのことだった。長野県団は、初日の空港の高速バスの混み具合を経験していたため、とにかくフライト時間に余裕を持って行動することを念頭に置いて、団長はじめみんなの判断で早めに空港に向かうことにした。

閉会式の終了間際で早めに退席し、原爆資料館を見学後、爆心地公園に向かった。

前日の爆心地公園は中央に花が供えられていたり折り鶴が奉納してあったが、当日は雨で水が溜まっている状況で、献花などはだいぶ撤去されていた。そして、11:02、原爆が投下されたその時間、全員で黙とうをして当時のすさまじい状況に思いを馳せた。

帰りは、フライトも順調で遅れもなく、全員が無事に羽田空港に到着して安堵した。事務局としては、せっかく参加してくれた皆さんが天候不良で全行程を満喫できなかったことは残念でならなかったが、それでも戦後80年という節目の年に、ここ長崎でこの日を迎えたことの意味を噛みしめていただけたことと思う。これも団長はじめ参加者の皆さんのご協力のおかげと感謝申し上げます。ありがとうございました。

~参加者の感想~

・大会に参加してまず感じたことは、「核兵器をなくすことの難しさ」です。同時に、それでも小さな取り組みを地道に積み重ねていくことの大切さも感じました。世界では今も戦争が絶えず、核兵器の脅威は決して過去のものではありません。「長崎を最後の地とする」という被爆者の願いは、むしろ年月を重ねるごとに強まっていると感じました。私自身の力は小さいものかもしれませんが、平和を願う気持ちを持ち続け、それを行動につなげていきたいと思います。核廃絶に向けた運動はすぐに結果が出るものではありませんが、あきらめずに続けることが大切であり、この事実を次の世代にも伝えていくことが重要だと強く思います。

・改めて思うのは私たちが戦争しない、戦争に巻き込まれたくない想いを強く持ち、武力兵力を有する組織を政治が完全にコントロールすることだと思います。他の国の人を殺したくないし殺されたくもない。私の力はわずかですが戦争回避の道に奔走した先人にならいたいと感じました。

・8月9日の朝には、長崎市の竹二自治会の碑を参拝し、自治会の皆さんにもお会いしました。ナガサキの中には、そのようにして当たり前に平和を願う姿があって、この80年の日本の平和を繋いできているのだと思いました。そう考えると、まだたった80年前の出来事であって、一人ひとりの平和を願う気持ちを世界の平和に繋げていかなければならないと思います。

・今回80周年原水爆禁止世界大会に参加して、改めて原爆、原発はなくさなくてはいけない。共存は出来ない。以前よりまして強く思いました。戦争はしてはいけない。一度始まるとだれも止められない。一緒に行動した仲間が言っていたように、一人一人が平和を願う大切さを、そして未来を切り開く子供達に間違った教育をしないようにしなければいけないとも思いました。

・今年は終戦から80年という節目の年であり、特に記念式典等の関心が大きかったと思います。今もなお世界各地で戦争が起こっています。戦争や核の使用は、決して他人事ではなく自分事として考えていきたいと感じました。

・手記には、「学校のグランドで同級生や彼の母親が原爆の犠牲になり、その場で荼毘に付され、この記憶がグランドに出るたびに思い出され、なつかしく、悲しい。」と綴られていました。爆心地から700mの距離にあった彼の通っていた小学校では1581人のうち約1300人もの児童が原爆の犠牲となりました。
私自身、子を持つ親として彼がどんなにつらい思いであったかと考えると言葉もありません。このような悲劇を二度と繰り返さないためにも、核兵器の廃絶と一人一人が平和を守る努力をすることで、平和を次世代の子供たちに繋いでいかなければならないと強く感じました。

・原爆がもたらした破壊は、単に物理的なものだけでなく、人々の心や社会にも深い傷を残したことを学んだ。このような悲劇を二度と繰り返さないためには、核兵器の廃絶と平和を守る努力が必要だと強く感じた。大会を通じて、私たち一人ひとりが平和のためにできることを考え、行動することが大切だと気づかされた。未来の世代に平和な世界を残すために、核兵器のない社会を目指していきたいと思う。

 

信州護憲ネット第70号「戦後80年 戦争の爪痕を未来へつなぐ」発行しました

侵略戦争を否定する政党の躍進、外国人排除の風潮の広がり

戦後80年を迎えましたが、いまだにあの戦争はなんだったのかを日本人自身が直視できない状況がつづいています。自民党総裁選では高市氏が就任し、直近の国政選挙では、太平洋戦争は侵略戦争ではない、と述べるなど史実を無視する発言を繰り返す政党が躍進しました。社会に広がった格差と分断から、外国人排除の風潮も生じています。今号では、今年5月3日の憲法記念日に長野市内で開かれた「市民の憲法講座」での「戦後80年 戦争の爪痕を未来へつなぐ」をテーマにしたアイ女性会議の木下容子氏と松澤佳子氏による報告をお届けします。

飯田下伊那の戦争遺跡を学ぶ

中国侵略の現場、アウシュヴィッツを巡る平和の旅

木下氏からは飯田下伊那の戦争遺跡について、松澤氏からは中国侵略の現場、アウシュヴィッツを巡った平和の旅について報告して頂きました。1932年に日本の傀儡国家「満州国」が中国東北部に建国され、1945年の敗戦まで国策の満蒙開拓によって全国から約27万人が入植し、8万人が犠牲になりました。長野県内からは都道府県別で最多の3万人超が送り出され、うち飯田下伊那地域からは8389人と県内最多でした。

満蒙に送り出した責任、次世代に伝えていく義務

木下氏は「多くの開拓民を満蒙開拓に送り出した地域だからこそ、送り出した側としてもその歴史を次世代に伝えていく義務があるのではないか」と訴えました。松澤氏は「侵略の加害者である日本人自身が、加害の歴史を知らないという現状」を指摘します。戦後80年を迎え戦争体験者がいなくなる近未来が迫る今、私たちはどう生きていくのか、が問われています。

■以下のブログでも当日の講座の様子をお伝えしています

市民の憲法講座「戦後80年 戦争の爪痕を未来へつなぐ」

信州護憲ネット会報70号

「戦後80年 戦争の爪痕を未来へつなぐ」