21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

田中煕巳さん(日本被団協代表委員)が1月19日に長野市で講演

日本被団協ノーベル平和賞受賞記念講演会を開きます

今年のノーベル平和賞は日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)に授与されました。被爆者が二度と核兵器を使ってはならない、世界に核兵器はいらないと訴えてきた活動が高く評価されたものです。

これまでに被爆者のみなさんが語ってきた凄惨な被爆の実相が、国際社会における核兵器の非人道性を明らかにし、またヒロシマ・ナガサキ以降今日まで、戦争による核兵器使用を阻む最も大きな力となってきました。ノーベル委員会が「核のタブーの確立に大きく貢献してきた」と述べているように、被爆者のみなさんが果たした役割を重く受け止める必要があります。

世界では、核兵器を所有することで互いの緊張状態を作り、戦争を回避しようとする「核抑止論」への傾斜が強まり、核保有国から核兵器使用の威嚇が公然と発せられている現状があります。日本国内においても「核共有」を検討すべきなどと声高に主張する政治家さえ見受けられます。

しかし核兵器が存在する限り、核兵器使用のリスクは永遠になくなりません。被爆者が「二度と自分たちと同じ思いを他の誰にもさせるわけにはいかない」と語ってきた原点は被爆の実相であり、今こそ世界はそこに向き合い、学び、核兵器使用が迫る危機的状況を乗り越えていかなくてはなりません。

2021年には国際条約として核兵器禁止条約(TPNW)が発効しました。核兵器のない世界は具体的に達成できる未来であるということが確立されたのです。世界で核兵器の非人道性の確立に尽力してきた被爆者の思いを真に受け止めるのであれば、ヒロシマ・ナガサキを経験した日本こそが、今すぐ核兵器禁止条約に署名・批准すべきです。2023年12月に、ニューヨークの国連本部で開かれた第2回締約国会議には、アメリカの「核の傘」のもとにあるドイツやベルギーなどもオブザーバーとして参加しましたが、残念ながら日本政府の姿はありませんでした。

ノーベル委員会の説明した授賞理由の中には「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなることでしょう。しかし、記憶を留めるという強い文化と継続的な取り組みにより、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています」とあります。今後も原水禁は、被爆二世三世や高校生・大学生等といった次の世代に、確実に被爆の実相が継承されるよう運動に取り組んでいきます。

さて、県原水禁や県原水協、県生協連、県教組、県原爆被害者の会(長友会)が事務局団体となり、関係者・関係団体でつくる「~ヒバクシャの願いをつなぐ~ 核兵器禁止条約をひろげる長野ネット」は、10人の呼びかけ人による実行委員会を立ち上げ、日本被団協のノーベル平和賞受賞を記念し、ノルウェーでの授賞式に参加、スピーチを行った日本被団協代表委員の田中煕巳さんを長野市に招き、講演会を計画しました。

マスコミ報道されたため、すでに会場定員を上回る申し込みがあり、本会場は満席となってしましました。多くの方々に田中さんの講演を聴いてもらうため、ホテル信濃路の本会場の隣にサテライト会場を設営しました。また、Zoomによるインターネットでの視聴も可能です。講演の視聴を希望される方は実行委員会事務局までお申し込みください。Zoomでの視聴は申し込みの必要はありません。

1.主  催  日本被団協ノーベル平和賞受賞を祝う実行委員会

[呼びかけ人]岡田和枝(弁護士)、窪島誠一郎(無言館館主)、清水まなぶ(シンガーソングライター)、菅谷昭(前松本大学学長)、田澤洋子(原発に頼らない未来をつくろうプロジェクト)、中條智子(県連合婦人会顧問)、堀井正子(文芸評論家)、山口利幸(元県教育長)、横山タカ子(料理研究家)、若麻績敏隆(善光寺白蓮坊住職)

[事務局]ヒバクシャの願いをつなぐ~ 核兵器禁止条約をひろげる長野ネット

3.日  時  2025年1月19日(日) 13:00 12:30 受付開始

4.場  所  ホテル信濃路 長野市中御所岡田町131-4 電話 026-226-5212

5.記念講演  「ノーベル平和賞授賞式に参加して」田中煕巳さん 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員

6.会  費  サテライト会場参加費 500円 Zoomは参加費無料

ZoomミーティングID 869 9244 6910 パスコード  250119

7.申込締切  1月6日(月)までに事務局に申し込みをお願いします。

信州市民連合が総選挙総括について3野党と意見交換

来年の参院選で市民と野党の共闘を再構築し政権交代へ

意見交換会には30人が参加

3野党県組織の代表が出席

信州市民連合は12月2日、選挙区市民連合や加盟団体の代表30人を集め(6人はZoom参加)、長野市内で全体会議を開きました。

全体会議では、まず共同代表の又坂常人氏が総選挙の結果の分析と総括、今後の展望について提案しました。又坂氏は、県内の選挙結果について「自民党は3議席にとどまった。全国的に数少ない実質的に野党共闘が成立した本県において、自民党に圧勝した結果は、来年参院選へ向け市民と野党の共闘を再建していく上で、全国的にも大きな意義をもつ」と指摘しました。ただし「長野県における立民候補の勝利は自民党の予想以上の苦戦によるものであり、必ずしも立憲・共産・社民3党の集票力の増加によるものではないことは、しっかりと認識しておく必要」があると強調しました。また又坂氏は、来年の参院選に向けてのポイントとして「選挙における政党選択においてもっとも重視されるのは生活問題。市民連合としてまずは若者と現役世代をターゲットにした生活保障政策を前面に打ち出すべき」と述べました。

全体会議では各選挙区市民連合から総選挙の取り組みと総括について以下のような報告がありました。

「勝利したが3野党と市民連合の共同の力で大きく盛り上げるまで至らなかった」(北信市民連合)、「5区を除いて市民と野党の共闘の信頼関係は残せたのではないか。2区は完勝だったが、日常から共闘を進めてきた成果だ」(中信市民連合)、「候補者と市民連合との協力・共同は、個人演説会の日程が知らされる程度だった。来年は羽田次郎議員が参議院選挙に臨むが3野党に働きかけを強めてほしい」(東信市民連合)、「前回よりわずかだが票を伸ばした点は評価したい。共産党が統一候補として出ている難しさもあった。本当の共闘とはどういうものなのか、課題が残った選挙だった」(4区市民連合連絡会)、「宮下氏が当選、福田氏は比例復活したが、一本化できれば勝てることができた選挙だった」(伊那谷市民連合)

「信州市民連合の候補一本化を求める努力に感謝」(杉尾秀哉氏)

全体会議の終了後に、3野党の県組織の代表が参加して意見交換会を行いました。政党からの参加者は、杉尾秀哉・立憲民主党県連代表(参議院議員)、鮎沢聡・日本共産党県委員会委員長、中川博司・社会民主党県連合代表(県議会議員)。

立憲民主党の杉尾秀哉・県連代表は「信州市民連合のギリギリの段階での調整努力に感謝申し上げる。4区で立憲内で立候補の動きがあり、信州市民連合との『共同のテーブル』での約束を守るため直前まで努力して、選挙区から比例へまわってもらった。参院選は過去4連勝しているが、来年は大変厳しい選挙となる。自民党は総力で長野をつぶしにかかってくるだろう。連携を図り候補の一本化を進めてほしい。衆議院とのダブル選も予想される。市民と野党の共闘をすすめる立場で対応したい」と述べました。日本共産党の鮎沢聡・県委員長は「衆院で与党が過半数割れした結果は市民と野党の勝利であり画期的。憲法改正勢力を3分の2以下に割り込ませ、希望や要求を実現できる状況になった。ただ、自民党政治に代わる新しい政治とは何か、まだ答えが出ていない。5区では野党統一に向けた努力を重ねてきたが、時間切れとなり反省の弁を述べたい。来年の参院選は衆院とのダブルの可能性もある。参院での自公の過半数割れを実現したい。決定的に重要なのは世論と運動。市民と野党の共闘で大いにアピールしていきたい」とあいさつ。社会民主党の中川博司・県連合代表は「県内で何とかみんなで戦おうとするみなさんの努力に敬意を表したい。7月末の要望に対し、3野党が集まって相談し、何とか一本化を図ろうとしてきたが、前回のようにはできなかった。社民党は1区から4区までは支援、5区は来年の参院選をにらみ自主投票とした。政策要望書の内容をどう実現していくのかが求められている。参院選でも候補一本化をめざし、政策合意を実現する運動の広がりをつくろう」と強調しました。

その後、参加者との意見交換も行いました。最後に、来年の参院選に向けて市民と野党の共闘を再構築し、与党の議席の過半数割れに追い込み、政権交代を実現しようと決意を固めました。

被爆79周年原水禁世界大会(広島)~長野県代表団報告~

長野県代表団が今年も広島へ

8月4日から6日にかけて広島市で開催された原水爆禁止世界大会・広島大会に、上伊那地区や長野地区、自治労・私鉄などを中心に、長野県原水禁代表団として24人が参加しました。長野県教組代表団21人は別行動で分科会や大久野島(旧陸軍が毒ガスを製造していた瀬戸内の島)のフィールドワークなどに参加しました。

毎日、原爆ドームを訪れました

長野県から10人の子どもたちが参加

昨年からコロナ禍で中断されていた子ども代表団が復活しました。今年も県内在住の小学4年生から中学3年生の参加者10人(保護者同伴)が、子ども慰霊祭や、平和公園の慰霊碑を巡るフィールドワーク、広島で学んだことを絵や新聞や朗読劇で表現するワークショップに参加しました。今年は昨年よりも親子参加者が増えて、より子ども主体の代表団になりました。広島市に滞在した3日間は連日天候に恵まれましたが、高い気温と湿度が続くため熱中症にならないように気をつけながらの滞在になりました。

元高校生平和大使の大学生たちと長野の子どもたち

8月4日(1日目)

初日は、長野県代表団のメンバーは原爆資料館(広島平和記念資料館)の南側に集合して、大人参加者(4人)は折鶴平和行進・開会総会に参加しました。炎天下の中での行進で心配されましたが、広島市街地は高いビルが多いので、午後の日差しを避けて歩けたそうです。親子参加者は原爆資料館を見学して、原爆被害の惨状を学びました。館内は平和式典にあわせて来日した外国人の方でいっぱいでした。犠牲になった人数ではなく、一人ひとりの方がどういう方だったのか、その日をどんな風に過ごしていたのか、それぞれの個人に焦点をあてた展示になっていました。

広島平和記念資料館

折鶴平和行進

平和公園から出発した折鶴平和行進

広島市街地を進むデモ隊

平和公園敷地内にあった中島地区

原爆が投下されて破壊された中島地区(現在の平和公園敷地内)

当時約1300世帯・約4400人が暮らしていた中島町

ほぼ全域が爆心半径500メートルの同心円内に入っており、街も住民も一瞬のうちに消滅した

米国での原爆開発に関わる資料も展示

ルーズベルト大統領に原爆開発を促したアインシュタインの手紙

マンハッタン計画で原爆開発にトリニティ核実験場で採取された石や砂   

月5日(2日目)

分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」

2日目(8月5日)は、大人参加者4人は、分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」に参加しました。分科会では、原水禁共同議長の金子哲夫さんから「核と人類は共存できない 核兵器禁止条約と原水禁運動の歴史」というテーマで、入門講座として原水禁運動のこれまでの歩みについて学びました。「被爆者の数字ではなく、被ばく者一人一人の命を考えてほしい、核兵器は悲惨な兵器であるという側面を持っていることを教えている」との問題提起を受けました。また広島県被団協の畑口實さん(原爆資料館元館長)からは、被爆者の声を学び、「核のない世界」に向けて考える時間になりました。

分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」で話す金子哲夫氏

原水禁の歴史

歴史・原則・宣言

母親の胎内で被爆した畑口實さんのお話

畑口實さんは、原爆投下後、広島駅近くに父親を探しに行った母親のおなかの中で被爆(胎内被爆者)。原爆で父親を亡くし辛い戦後を過ごし、若いころは原爆のことを考えるのも嫌だったそうですが、原爆資料館の館長になったことが転機になったと語られました。世界中から訪れた方に、父の遺品の懐中時計を手に原爆について話す中で、被爆者である自分が伝えることの意義を感じるようになったそうです。館長を退任した今も、子どもたちに被爆体験を伝えるなどの活動を畑口實さんは続けています。今は「憎しみをもちながらも、和解という気持ちを持ち続けたい、これをヒロシマのこころ」だと訴えました。

『記憶を受け継ぐ』畑口實さん―消えぬ憎しみ超え語る(中国新聞)

畑口さんが寄贈した広島平和記念資料館平和データベースに保管されている被爆資料(お父さんのベルトのバックル)

資料詳細

親子参加者は子ども慰霊祭に参加

親子参加者は、早朝から子ども慰霊祭に参列しました。会場となった広島平和記念公園内にある「原爆供養塔」は、爆心地に近く、氏名、年齢、性別などほとんどわからない身元不明の死体が焼かれた臨時火葬場があった場所に建てられました。復興が始まるなかで、引き取り手のない遺骨が発見されると、遺骨は供養塔に届けられたそうです。

原爆供養塔には引き取り手のない大勢の犠牲者の遺骨が眠っている

慰霊祭には北海道や東京や三重など全国各地から子どもたちが集まりました。黙祷を捧げ、各地の子ども代表団が順番にそれぞれ献花しました。

 

長野県の子どもたちも献花し、子ども代表団の小林さんが献詩を捧げました。

長野県子ども代表団・献詩

明日は8月6日、
わたしたちが今いる広島に一発の原子爆弾が落とされたのです。

たった一発の原子爆弾はいろいろな苦しみや悲しみのなかでも、
明るい未来を信じて生きていた14万人の
尊い命が一瞬にして終わってしまいました。

わたしは原子爆弾について、
広島と長崎に落とされた危ない爆弾程度のことしか知りませんでした。
しかし今回の派遣団への参加にあたり自分なりに調べたり、
きのう初めて訪れた平和記念資料館で目にした当時の様子から
わたしの原子爆弾へのイメージががらりと変わりました。

教科書の写真を通して見るのではなく実際に広島を訪れ体験したことで、
自分には関係のないことだという考えがなくなり、
本来の原子爆弾の怖さについて気づくことができました。

また自分と同じくらいの年齢の子の想像を絶する被害状況を目の当たりにし、
二度と核は使用してはいけないと思いました。

たった一発の原子爆弾によって奪われた14万人の方々の尊い命、
そして大切な人々や大事なもの、
たくさんの犠牲を無駄にしないためにも、
戦争について聞き学び、戦争や核使用の悲惨さ、平和の尊さを受け継ぎ
次世代に引き継いでいくことが大切だと思います。

皆様の犠牲を無駄にはしません。
平和に向かって一歩一歩進んでいく私たちを天国から見守っていてください。

 

平和記念公園内の慰霊碑を巡るフィールドワーク

慰霊祭終了後、親子参加者は、平和公園内に建立されている慰霊碑を巡るプログラムに参加しました。原爆の被害や、それぞれの慰霊碑やモニュメントの背景や歴史についてガイドの方から説明を受けながら巡りました。

碑めぐりのガイドの方のお話を聞く子どもたち

原爆の子の像

 これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです

原爆の子の像の傍らには各地から寄せられた折鶴が飾られています。長野県代表団の子どもたちも長野から持参した折鶴を届けました。
1955年11月8日に、新聞で禎子の死を知った男の子から「禎子さんを始め、原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と、禎子の同級生に提案があり、その設置に関する活動が始まったそうです。

像の真下の石碑には

「これはぼくらの叫びです
これは私たちの祈りです
世界に平和を
きずくための」

と刻まれています。

被爆者講話と被爆電車

午前の部の最後には、被爆2世の方からお話を伺いました。参加者の感想から、「なぜ「ヒロシマ」という表記があるのかその理由がわかった」という声がありました。広島が原爆投下によって、人のいない荒野、無機質な「ヒロシマ」にされてしまったこと、それを繰り返さないという意味や平和を訴える国際都市としての願いが込められていることを知ることができました。

事前に参加希望のあった子どもたちは、原爆投下当時に走っていた市電「被爆電車」に乗って広島の街を走りながら被爆者の方のお話を伺う機会を得られました。

  

元高校生平和大使の企画ワークショップ

午後の部では、子どもたちは高校生平和大使を経験した大学生が中心になって企画されたワークショップに参加しました。それぞれが広島に来て、見たもの、感じたことを劇や新聞や絵で表現するというプログラムでした。長野県から参加した子どもたちはそれぞれ朗読劇、新聞作り、うちわに絵を描くワークショップを選びました。

朗読劇では、各県の子どもたちが一緒に読み合わせをしながら本番に備えました。新聞やうちわ作りにとりくんだ子どもたちは広島で学んだことや感じたこと、実際に目にした原爆ドームや慰霊碑などをそれぞれの形で表現しました。子どもたちは長崎県などから参加している高校生のスタッフさんのサポートを受けながら、原爆ドームや慰霊碑や折鶴などを描いていました。

佐々木禎子さんと同級生たちの物語を上演

本番を迎えた朗読劇は、一同緊張した面持ちでしたが佐々木禎子さんと「原爆の子の像」をつくった同級生たちの物語を演じ切ることができました。親御さんをはじめ参加者一同見入っていました。

私たちは最後の世代

普段、関わることの少ない大学生や高校生とのやりとり、県外の子どもたちとの交流も子どもたちには貴重な経験になりました。プログラムの最後には、企画運営してくれた大学生たちが、一人ひとり自身の高校生平和大使での経験や、自身の思いを子どもたちに語ってくれました。「私たちも今日参加してくれたみんなも被爆者のお話を直接聞くことができる最後の世代」だと、広島で見たこと聞いたこと知ったことを家族や友人に伝えることも核廃絶や平和をつくっていく活動なんだと伝えてくれました。

 

最後に大学生の方々と長野県代表団の子どもたちで記念写真を撮りました

8月6日(3日目)

朝から平和公園の原爆ドームへ

日程の最終日は、朝から原爆ドームに向かいました。今年は平和公園に入る際に、手荷物検査が実施されていたため、ものものしい雰囲気で例年以上に混雑が発生していました。前日までの穏やかな平和公園とは異なり、ものものしい雰囲気でした。

新聞記者さんから取材を受ける

原爆ドーム前でダイ・イン

子どもたちも緊張した面持ちでしたが、原爆ドーム横のスペースに、長野県代表団全員が集まることができました。今年は、原爆投下の時刻にあわせて親子参加者を中心にダイ・インを行いました。最後に、北原団長から、今回の広島での経験をぜひ伝えていってください、とあいさつがありました。その後、原爆ドーム前で集合写真を撮って解散しました。

原爆投下時刻の8時15分にダイ・イン

北原団長から代表団解散のあいさつ

国際シンポジウム~閉会集会に参加

事務局と一部参加者は解散後、国際シンポジウムと広島大会の閉会集会に参加しました。

国際シンポジウムは「核廃絶に向けた一歩を踏み出すために」というテーマで、アメリカからデービッド・ギブソン氏(Peace Action )、韓国からイヨンア氏(参与連帯)、日本から元広島市長の秋葉忠利(原水禁顧問)が登壇されました。ギブソン氏とイ氏からは、アメリカや韓国内での市民運動の取組みが紹介されました。

2045ビジョン

秋葉氏からは、被爆100周年にあたる2045年までに核兵器を廃絶することを目標に掲げて世界的運動を展開して、中間点の2035年までに、核兵器保有国が「No First Use」、つまり、核兵器の先制不使用に合意するという計画「2045ビジョン」が示されました。また「ヒロシマを背負って世界に平和を発信、具体的な行動をとるように政治家を説得することをこの大会から出てくれば素晴らしい」との発言がありました。

※秋葉氏のブログに当日の様子が紹介されています。

「ヒロシマの心を世界に」

https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-ea8f01.html

暑い広島での3日間でしたが、一人も体調不良等になることなく終えられました。
来年も原水禁世界大会広島大会が実施予定です。ぜひご参加ください。

原爆死没者慰霊碑と原爆ドーム

参加者の感想

子どもたちの声

・僕は、戦争や平和のことはよく理解していると思っていた。広島に行くまでは。写真でしか見たことがなかった原爆ドームを目の前で見て、その偉大さや悲惨さに言葉を失ってしまった。平和記念資料館に展示された多くの写真、遺品を見て胸がとても苦しくなった。また自分の戦争への無知を知った。たくさんの慰霊碑や話を見たり聞いたりして知ることができた戦争の悲惨さ、今でも心身に傷が残っている人々。このことを知った僕は、たくさんの人々に伝えなければならない。また、「平和」というとても重いものに対して、よく考えなければならない。戦争は、怒りや憎しみ、そして悲しみしか生みださない。もう誰も悲しまないように、知ったこと、学んだことをたくさんの人に伝え続けなければならない。僕は、「平和」へと向かうため、このことを伝え続けたい。

・初めて広島に行って、初めての平和記念資料館や、原爆ドーム、原爆死没者慰霊碑、原爆の子の像などが実際に見れて勉強になったなと思いました。そして、他の人たちとの交流では、緊張してましたが、話しかけたりして、少しだけなかよくなれた気がしました。

・広島から帰ってきて復興について調べました。復興は、原爆投下後から始まっていました。被爆電車は原爆投下から3日後に走り出したそうです。しかも、男の人たちは戦争に行ってしまっていないため、車掌を務めるのは女の人たちだったそうです。「広島カープ」も広島の街に希望の光を与えることを創設目的としたようです。この原爆投下されてから復興した広島市の皆さんの力強さも感じました。
僕は、広島で学んだことを戦争や原爆で亡くなったすべての人たちのために、家族や友達に伝えたいと思います。母に「海をわたった折り鶴」の絵本を購入してもらったので、妹たちには難しい内容かもしれませんが、読み聞かせしてあげようと思います。

原爆投下目標だったと言われる「相生橋」からの眺め

・私たちは、被爆者(被爆2世)の方々から実際にお話を聞くことのできる最後の世代なので、良い機会となりました。聞いたお話の中で特に心に残ったお話は、カタカナの「ヒロシマ」の意味です。私は今まで、現在の「広島」と原子爆弾が落とされた時の「広島」を区別するために、カタカナで「ヒロシマ」と書いているのだと思っていました。実際は、原爆が落とされ、人がいないただの荒野になってしまった無機質な「広島」をカタカナで書くことで表しているそうです。確かに、漢字やひらがなで書くよりも、カタカナで書くと無機質な感じになるなと思いました。なにげなく読んでいた文字にも、こんなに深い意味があることを被爆2世の方から聞くことができて良かったです。

・私が広島大会に参加して、1番心に残ったことは、「原爆死没者慰霊碑」です。広島市を平和都市として再建することを願って建てられた。中央の石室には原爆で亡くなったすべての人の名前を書いた名簿が収められている。次に、「原爆の子の像」が心に残りました。佐々木禎子さんは2歳の時に被爆し、その10年後突然白血病になり、千羽鶴を折りながら亡くなった。佐々木禎子さんの同級生が平和を願って建てたのが「原爆の子の像」。それから人々は平和を願って千羽鶴をかざるようになった。この三日間を通して、原爆についてくわしく知り、原爆資料館に行き、被爆したとききていた本物の洋服などを実際に見ることができた。三日間とてもつかれたけれども、楽しかったです。

・ぼくは原爆の事だけではなく、新聞作りなので他の県の人たちと交流ができたり、夕ごはんには、同じ県の人たちとおいしいごはんを食べた楽しいこともたくさんありました。広島大会では、原爆のことをたくさん勉強できたり広島を観光できたのでたくさんのことを知ることができました。3日間ありがとうございました。

・ 初めて、広島に行き、原爆の、おそろしさを知って、もう二度と原爆をどこにもおとしてほしくないと思った。世界の核兵器が一日でも早くなくなってほしいと思った。

・ 広島にげんしばくだんが落とされたのは79年も前だけど、今も79年前の苦しみが続いているんだと改めて、知りました。

 

原爆死没者慰霊碑を通して平和の灯が見える

保護者・大人参加者の声

・被爆国の日本人として、子供と共に、外国の情勢や海外の戦争のことにも目を向け、知識を得て、自分の判断をしていきたいと思った3日間でした。
今ある平和をあたりまえと思わず、平和なれした人にならない為に。外国の人の方が、多い式典で、日本人として胸を張って、反戦を語りたい。

・原爆投下から79年目に、原水爆禁止世界大会の広島に参加させていただき、娘2人とともにとても貴重な経験ができ、とても感謝しております。3日間ともとても暑く、汗だくでしたが、長野にいるだけではわからない本当にも実りある3日間でした。この経験を微力ではありますが、いろんな人に伝えていきたいと感じました。

・最近ではウクライナ、イラン、イスラエルガザ、台湾、中国の争いが起こっていますが、79年前のことが再び起こりかねない状況を危惧しています。今の争いも、79年前の戦争から影響があり、要因の一つであると私は考えます。将来の和平、持続可能な社会を構築するためには、79年前の事実を世界の人々が知り、向き合うことが、今もなお必要であると考えます。欧米、ロシア、中国、自国都合、利己主義になるのではなく、互いを理解して共に生きることで、原水爆のない社会、争いのない社会ができるものだと信じています。

ガイドの方のお話を真剣にきく子どもたち

・心の中で、「いつか行ってみたい」と思いながら40年が経ってしまいました。自分の子どもには早い段階で経験させて、戦争、原爆について考えてほしかったので、親子参加ができること、本当に感謝です。ロシアのウクライナ侵攻、ガザ地区の問題など世界の情勢はとても不安定で、核兵器の脅威も感じています。私自身教員として生徒にその怖さ、悲しさを伝えてきたつもりですが、「広島」から学ぶことは本当に大きかったです。広島に到着した時には、多くのビルが建ち、多くの人が行き交う姿を見て、「戦争」よりは「平和」を感じましたが、平和公園に入り、原爆ドームも目にする中で、常に戦争と向き合ってきた場所なんだと実感しました。資料館では目を背けることのできない大きな事実、被爆者の方からの生の声、体験の中で多くのことを学びました。やはり自分の子どもと同じくらいの年齢の子が多く命を落としていることに心がとても痛みました。高校生、大学生のワークショップでは、若い人達がこんなにもアクションを起こしていることに感動と元気をもらいました。今回の大会参加では同じ長野の方、日本全国から集まった方との交流ができ、多くの学びがありました。長野県に戻ってもこの経験を広げていけたらと思います。3日間ありがとうございました。

・こういった機会でないと原爆が落とされた場所に赴いて黙祷に参加し、地元の方と同時に思いを馳せることはできなかったと思います。想像以上に外国籍の方が多かったことも印象的でした。彼らがどういった気持ちで広島という地を訪れ、原爆についての資料をみていたかは知る由もないですが、どんな思いであったにせよ、唯一の戦争被爆国の国民として原爆の悲惨さというものを世界に訴えていく姿勢を取り続けることが我々の役割なのだと思いました。俯瞰的な視点で見れば、核を抑止力としてその存在を消極的にですが、肯定することもできます。ただ、戦争被爆国として反対という意見をリアルな声で上げていくことが日本の取るべき立場なのではないかと思います。やはり実際にことが起きた場所へ足を運ぶのは、歴史という学問のなかで教科書で学ぶこととは異なり、そこでしか考えられないことがあると思います。広島という魅力的な街を数日間歩くことでさらに原爆の悲惨さ理不尽さを実際にそこで起きた出来事として他人事ではないと捉えることができると思います。こうした機会がなければ、この体験はできないので、是非参加していただければと思います。

・ 今回初めて、広島を訪れましたが、原爆ドームや平和記念資料館に展示された遺品を目にし、教科書の知識だけでは、決して知り得なかった生の声を聞く機会をいただいた中で、原爆投下の惨状を想像し、言葉に出来ないものでした。子どもたちも、同年代の友だちも出来、「被爆電車」に乗ったり、貴重な、経験が、出来たと喜んでいました。ちょっとした、広島観光や、懇親会など、楽しい思い出も含め、とても、充実したものとなりました。戦争の悲惨さ、恐ろしさを風化させることなく、伝えていかなければと、強く思いました。ありがとうございました。

・私が高校の修学旅行の際、広島平和記念資料館を訪れたが、その時以来約40年ぶりに訪れたことになる。高校生の時も感じたが、原爆被害の悲惨さを感じ、こんなことが二度とあってはならないと再び思った。各講演で被爆者の実体験の話を聞いたが、いずれの方々も高齢であった。現実的問題として、あと何十年も経つと被爆者がいなくなるという問題があり、結果として核廃絶の動きが縮小する懸念がある。今回お子さんの参加もあり、彼・彼女達なりに色々感じるところがあったのではないかと思う。核廃絶を含めた平和運動を次世代にもつなげていくためには、今回のような子供への教育的体験が重要なのではないかと思う。

・実際に見て触れて感じることで、戦争の悲惨さを深く考えることができた。それと同時に今の私たちがどのような気持ちを持って過ごすべきなのかを学ぶことができた。自分の目で見ないとわからないことはたくさんあります。ぜひ参加してください。広島を感じることのできる素敵なプログラムでした。ありがとうございました。

・「原爆の日」を迎えた平和公園周辺は物々しい雰囲気で、入場するにも荷物検査をしなくてはならず、テレビで見る平和式典とは違った感じを受けました。8:15には全員で黙祷を捧げましたが、こどもたちはdie-in(ダイイン)を行いました。私も子供の時、こんな経験ができたらよかったのに、とふと思いました。

・「高校生平和大使」を調べてみると初代長崎の高校生2人が核兵器廃絶を求め署名をニューヨーク国連本部に持参し、平和活動がスタートしたようです。各地で、核兵器廃絶と平和な世界の実現を訴え、国内外に向け発進しているそうです。大学生から、私たちが、この経験を通して、家族・友達等に原爆の恐ろしさを伝えることだけでも平和活動と教えていただき、帰省後に家族へ原爆の恐ろしさなどを伝えることができました。原子爆弾は、日本へ2度も落とさなくてはならなかったのだろうか…。今も世界中で起こっている核開発や戦争は必要なのだろうか…。今ある生活が、とても幸せであること。また、この経験により終戦記念日などメディアでも多く取り上げられ、今まで関心がなかった息子が関心を示していることにも感謝しています。ありがとうございました。

 

与野党伯仲の国会で労働者・国民の願いを反映する政治をつくろう

県労組会議が定期総会開き護憲・脱原発などの運動方針を確認

県労組会議事務局次長に草野麻理子さん、間宮正博さんを選任

長野県平和・人権・環境労働組合会議(県労組会議)は10月18日、代議員・傍聴者など約60人を集め、長野市内で第29回定期総会を開きました。おりしも10月初めに発足した石破茂政権が、自らの権力基盤を強めるためだけの目的で衆議院を解散し総選挙が行われている真っ最中の総会でした。

主催者あいさつで、宇佐美正信議長は、岸田政権が退陣し石破政権が発足した点について触れ「国民生活や平和を壊し続ける自民党政治に変わりはない。総選挙で与党の過半数割れをめざそう」などと強調しました。

来賓として、連合長野の根橋美津人会長、立憲民主党県連の杉尾秀哉代表(参議院議員)、社会民主党県連合の中村雅代副代表(小布施町議会議員)、部落解放同盟県連の小山慎彦執行委員長、朝鮮総聯県本部の洪高志組織部長、県労働金庫の小池政和理事長、こくみん共済coop長野推進本部の村山智彦本部長、県住宅生協の徳武淳理事長にごあいさつをいただきました。

討論では「県の人事委員会勧告が出て市町村段階での確定闘争に取り組んでいる。『労使自治の原則』で労使交渉を積み重ねて要求を実現したい」(自治労)、「初めて総会に参加した。いざというときに相談に乗ってくれる労組会議を頼りにしている」(印刷フォーラムながの)、「朝鮮学校を支援するキムチ購入に取り組んでいるが、食品の内容表示を徹底してほしい」(松本地区労組会議)などの報告、意見がありました。

特別決議として「平和と民主主義、国民生活を守り抜くため、総選挙に勝利し政権交代を実現する決議」が採択されました。最後に「組織されていない労働者・国民にも共感が広がる労働運動、平和運動が必要」であり、「私たちの日々の運動の積み重ねが、必ず平和で幸せな社会、労働者・国民のための社会をつくると確信」しようとする「総会宣言」を採択しました。

役員改選では一部役員が交代しましたが、県労組会議三役は全員が留任、新たに事務局次長として草野麻理子さん、間宮正博さんが選任されました。役員体制(四役)は以下の通りです。

◆議長=宇佐美正信(国労長野)、◆副議長=伊藤浩二(自治労)、若林茂(私鉄県連)、大橋孝宏(森林労連)、◆事務局長=喜多英之(自治労)、◆事務局次長=草野麻理子(県労組会議・自治労)、間宮正博(県労組会議・自治労)

総会には代議員・傍聴、役員など約60人が出席

あいさつする宇佐美正信議長

【来賓】根橋美津人・連合長野会長

【来賓】杉尾秀哉・立憲民主党県連代表(参議院議員)

【来賓】中村雅代・社民党県連合副代表(小布施町議会議員)

【来賓】小山慎彦・部落解放同盟県連執行委員長

【来賓】洪高志・朝鮮総聯県本部組織部長

【来賓】小池政和・県労働金庫理事長

【来賓】村山智彦・こくみん共済coop長野推進本部本部長

【来賓】徳武淳・県住宅生協理事長

発言する小川晃代議員(自治労)

発言する丸山信子代議員(印刷フォーラムながの)

発言する高山佳朗代議員(松本地区労組会議)

総会の最後には全員で団結ガンバロー

脱原発・核兵器廃絶を求める活動を報告します(6月~10月)

◆各地域で被爆79周年非核平和行進を実施

日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、改めて被爆者の存在と被爆体験を伝える活動、核兵器廃絶に向けた課題がクローズアップされています。

県原水禁、各地区原水禁・地区労組会議は今年6月7日から17日まで県内各地で核兵器の廃絶と脱原発を訴える「被爆79周年非核平和行進」を実施しました。6月7日に飯山市での集会、デモ行進をスタートに、17日の大北地区での自治体申し入れ活動まで県内各地で地域の平和世論を盛り上げようと取り組みが行われました。

7月1日、2日には、原水協系の国民平和大行進実行委員会の集会と行進にも参加しエール交換を行いました。

長野地区での非核平和行進

国民平和大行進の集会であいさつする大橋孝宏・県労組会議副議長

 

◆柏崎刈羽原発の再稼働は許さない-集会・デモが柏崎市で開かれる

7月15日、新潟県柏崎市の産業文化会館において、原発からいのちとふるさとを守る県民の会主催で「中越沖地震17年 福島を忘れない! 原発ハイロ全国集会」が280人が参加し開催されました。

これまで県民集会として開催されることが多かった柏崎での集会でしたが、政府によって原発回帰路線への転換がなされている今、東京電力柏崎刈羽原子力発電所の再稼働反対の声を広く集めるため、全国集会という形で開催されました。

集会では、環境経済研究所代表・元新潟県原子力災害時の避難方法に関する検証委員の上岡直美さんが講演し、「新潟県の花角知事は40数回開いた委員会の総括もないままに消滅させてしまった。原子力業界は、旧日本軍のようだ。福島の被害を低く見積もり、原子力政策を続けようとしている」と指摘しました。また、福島原発事故当時の気象条件などを当てはめて、放射性物質の放出・拡散がどのようになされるか、具体的なシミュレーションを示すなど、専門家ならではの視点でわかりやすく解説しました。

集会後には、柏崎駅周辺をパレードし、柏崎刈羽原発再稼働反対の声を上げました。パレードコースは、柏崎市の中心街とはいえあまり通行人が多くありませんでしたが、店先から手を振って、「脱原発」の思いに共感してくれる姿も見られました。

長野県原水禁からは3人が参加しました。

集会には280人が参加

柏崎市内をデモ行進して原発再稼働反対をアピール

 

 

◆反核平和の火リレーに青年女性528人が参加

県内の77市町村・県に平和行政推進の要請を行う第37回反核平和の火リレーが、7月9日から8月6日まで取り組まれ、ランナー総数528人が参加しました。各自治体の要請行動には多くの理事者や応援者が出席し、77自治体中64自治体で市町村長(もしくは副市町村長)が参加いただき、「戦争を知らない人世代が増えている中、若い皆さんが取り組みを続けていくことに意義がある」、「平和の思いを地域につなぎ、次世代へとつないでほしい」など激励を受けました。

5月25日に開いた事前学習会では、新潟県平和運動センターの有田純也事務局長から「柏崎刈羽原発の再稼働が意味すること」と題し講演をいただき、地震や災害による危険性や事故のリスク、コスト高や世界で広がる再生可能エネルギーへの転換などあらゆる視点で原発に反対する理由を学びました。参加者からは「今回のような学習会にもっと参加して学ぶ機会が大事だ」という頼もしい意見も出され、反核・平和運動を押し付けられてやらされる運動にせず、なぜ取り組まれてきたのか、どうして反核が必要なのかということを考え機会をさらに増やしていこうと確認しました。

リレーは7月9日に飯田市役所を出発

ゴールの県庁に向けて走る青年組合員

 

◆広島への原発投下の時刻に黙とう-県原水禁大会

8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された時刻に合わせ、広島市平和祈念式典をTV中継でつなぎながら被爆79周年原水爆禁止県大会で参加者は黙とうをささげました。オンラインを含め約50人の仲間が参加しました。

県大会では「核と人類は共存できな」という思いを胸に被爆79周年活動方針を確認し、被爆直後の広島・長崎の実写フィルムを編集したDVD「にんげんををかえせ」を上映しました。県原爆被害者の会の前座明司副会長(被爆2世)、5歳の時に広島市内で被爆した今井和子さん(83歳)の被爆体験の語りを傾聴しました。

今井和子さんは、「すごい閃光でした。地の底から突き上げるようなドンっという振動、そして、体がふわっと浮いた感じがしました。(原爆が投下され)真っ暗になって、(その後)明るくなって見えたものは歪んだ家。隣の家は火を噴いて燃えていて向かいの家はぺちゃんこでした」と体験を語り、「政府は速やかに核兵器禁止条約に参加し世界の先頭に立ってもらいたい」と訴えました。

原爆投下の8時15分に合わせて参加者が黙とう

広島での被爆体験を語る今井和子さん

 

◆東京のど真ん中で脱原発をアピール 全国集会に5千人

「命をつなぐ地球環境を」をテーマに、さようなら原発全国集会が9月16日、東京・代々木公園で開かれ、脱原発や気候危機の問題に関心を寄せる労働組合や生活協同組合、市民ら約5千人が集まりました。雷雨の予報をよそに集会中は天気にも恵まれ、脱原発や気候問題などをテーマにした模擬店や各地の産直物産、キッチンカーなども出店し賑わいを見せていました。

ステージでは、各地の原発の再稼働の動きや核燃料サイクルの問題、地元漁民らの意向をないがしろにして海洋放出を続けるALPSS処理水(放射能汚染水)の課題などの報告や訴えがあり、また地球温暖化の解決策を原発に求めようとする動きに対して警鐘を鳴らす若者の発言に集会参加者は熱心に耳を傾けました。

集会後、渋谷コースと原宿コースの二手に分かれてデモ行進に移り、賑わう街並みにさようなら原発、原発は気候危機の解決にならないと訴えかけました。

長野県からは8人が参加しました。

集会の最後にみんなでプラカードパフォーマンス

手作りのプラカードを掲げてパレード

 

◆原発は民主主義と相いれない-市民集会・脱原発2024㏌信州

柏崎刈羽原発7号機(新潟県柏崎市)は、原子炉への核燃料の装塡に伴う検査が6月に全て終了し、技術的には再稼働できる準備が整ったとして、東京電力が再稼働について地元同意を求めています。しかし、福島第一原発の大事故を引き起こした東京電力に、原発を運転する資格はありません。

長野県境の栄村、野沢温泉村から柏崎刈羽原発まで50kmもありません。万が一、大事故が起きた時、長野県の北信地方が放射能被害を受けてしまうことは、福島原発事故の被害状況からみても、現実のものとなってしまいます。

市民集会・脱原発2024in信州が10月20日、長野市・県労働会館で開かれ、会場とオンライン合わせて約60人が参加しました。新潟県の柏崎刈羽原発に関する検証委員会の委員を務めた佐々木寛さん(新潟国際情報大学教授)が「原発と民主主義~柏崎刈羽原子力発電所の再稼働問題を考える」と題して講演しました。佐々木さんは「原発建設が民主主義や地方自治、人権を侵害し続けている」と強調。新潟県で県民の意思に反してすすむ柏崎刈羽原発の再稼働の準備について厳しく批判しました。また、新潟県平和運動センターの有田純也さんも集会に参加し発言。11月から柏崎刈羽原発の再稼働問題について県民投票の実施を求める直接請求署名を始めると報告しました。

集会には約60人の市民が参加

講師の佐々木寛さん

 

総選挙 与党が過半数割れ - 政権交代へ道筋つける

県労組会議の推薦候補4氏が当選果たす

国民・労働者の生活向上、平和を守る政治へ大転換を

10月27日に投開票された総選挙は、自民・公明の与党が過半数を大きく割り込み、立憲民主党などの野党が躍進する結果となりました。「一強多弱」の政治状況が一変し、与野党伯仲状態が生まれました。裏金や旧統一教会問題、絶対多数を背景にした強権的な国会運営など、自民党政治のおごりに国民の怒りが吹き上がりました。

県労組会議は1区、2区、3区、5区の4人の候補者を推薦しましたが、全員が当選を果たすことができました。みなさまのご支援に心から感謝申し上げます。

当選した衆議院議員

長野1区 篠原 孝

長野2区 下条みつ

長野3区 神津 健

長野5区 福田淳太

裏金・統一教会に頼り、国民生活と平和を壊す自公政権は退場を

立憲野党の躍進で国民・労働者のための政治、政権交代を実現しよう

総選挙投票日は10月27日(日) 期日前投票の活用も

石破政権が発足しましたが、国会で十分な議論も行わず、10月9日解散、15日公示、27日投開票の総選挙を強行しました。

石破首相は自民党総裁選の中で掲げた「裏金議員の選挙での厳しい処遇」「日米地位協定の改定」「選択的夫婦別姓制の導入」などは、首相就任後に態度を一変させ、発言を修正したり封印したり、発言と行動が一致しないブレた対応に終始しています。また、衆議院の解散についても総裁選では、国会で十分に議論してからなどと発言したにもかかわらず、早期解散を強行するなど、すでに国民からの信頼感を失いつつあります。

投票日は10月27日(日)。国民生活と平和、民主主義の将来のために何としても自公政権の過半数割れ、政権交代への道すじをつけましょう。

県労組会議総選挙推薦候補

長野1区 しのはら孝  長野2区 下条みつ

長野3区 神津たけし   長野5区 福田じゅんた

県労組会議が4候補に「政策要望書」を提出

県労組会議は各選挙区の推薦候補者あてに「政策要望書」を提出し、その内容を尊重して国政にのぞむように求めました。

公示日の15日、16日に4人の候補者事務所を訪問して要望しました。政策要望書の内容は下記の通りです。

政 策 要 望 書

 第50回衆議院総選挙に向け、長野県平和・人権・労働組合会議、各地区労組会議は、下記の通りの政策要望を提出します。貴殿におかれては、私たちの政策要望を尊重していただき、当選後の国会活動に反映していただけるように要請いたします。

1.立憲主義に基づき、憲法9条の改悪に反対し、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権を掲げる日本国憲法の原則を徹底して守ります。

2.核兵器禁止条約を批准し、脱原発と再生可能エネルギーへの転換を積極的に進めます。

3.沖縄県の米軍辺野古基地建設に反対し、日米地位協定の改定を求めます。

4.勤労者の生活を直撃している物価高に対し、家計への直接的補助の拡充、中小零細事業者の雇用と事業を守るための支援策を拡充します。

5.労働基本権を擁護し、労働者全体の賃金引き上げと解雇規制の自由化に反対するなど労働者保護ルールの堅持、官民の非正規雇用の待遇改善を図り、正規雇用化をめざします。

6.男女の賃金格差、雇用格差をなくし、女性が安心して働き続けられる権利確立に取り組みます。また、LGBTsなどすべての差別の解消に取り組みます。

7.真の地方自治を実現するための財政を確立し、人員確保を進めます。病院、保健所、保育所、水道など市民の健康と生命にかかわる公共部門の充実をはかります。

8.中小零細企業、地場企業への支援を拡充し、下請け企業の価格転嫁や適正価格での雇用保障、労働条件の維持・向上に取り組みます。

9.公共交通の人手不足への対策を徹底し、ライドシェアなどタクシーの規制自由化に反対し、地域公共交通の維持、活性化対策を強化します。

10.国有林は「国民の共有財産」であり、地球温暖化防止の観点からも十分な予算を投入します。

11.食料自給率の向上や食の安全を確保し、地域における農林水産業を再建します。

柏崎刈羽原発の再稼働を許さない

毎月一回第4水曜日長野駅前で、脱原発共同学習会に参加しているメンバーがスタンディングを行っています。

先日の新聞に、岸田首相が柏崎刈羽原発の再稼働について閣僚会議を来週開くことを決めたとありました。地元の同意が欠かせない柏崎刈羽原発の再稼働を、地元が求めている避難路の整備や地域振興策の中身を詰めて、なんとか退陣前に再稼働への道筋をつけたいそうです。

「残された任期の間に、GX、グリーン・トランスフォーメーションを一歩でも前進するために尽力する。その一つが原発の再稼働の準備だ」と言及しました。

この方は、本当に・・・国民ではなく、いったい何に向かって動いているんだろう。

2011年に福島原発事故が起きたことによって、原発はいったん事故が起きたら、とてつもない大惨事となる。原発は人間に制御できないものであり、いつもそこには命の危険がついて回る、そういうエネルギーであるということ。そして、あまり考えたこともなかったけれど、東日本大震災の発生前、日本には54基の原発があり、日本で使う電力の30%前後を原子力で賄っていたこと。ここにも、そうここにも原発があることを知りました。これだけの危険がはらんでいるエネルギーが思いのほか、自分たちのすぐ近くにあったのか、そう思った人も少なくはないと思います。

そして、今年3月(16、17日)実施の毎日新聞世論調査で原発再稼働への賛否を聞いたところ、「反対」が45%で「賛成」の36%を上回りました。2022年5月と23年3月に同じ質問をした時には賛成の方が多かったが今回、賛否が逆転したとのことです。元日の能登半島地震で原発のリスクが再認識された可能性がある、と報じていました。この報道に、国民世論は、やはり原発は危険なものであり、できるのなら違うエネルギーで賄いたい、そう感じているように思いました。

にもかかわらず、岸田首相のやっていることは、まったく真逆のことのように思います。日本政府がドイツのように国を挙げて、再生可能エネルギーに舵を切れば、自ずと経済も企業も変化していくはずです。すでに原発は「斜陽」と位置付けて、再エネへ進みだしている企業や自治体もあります。

ここ長野市から100キロも離れていない新潟県の柏崎刈羽原発は、総出力が821万2千kWで1つの発電所としては世界最大級の原発です。また、新潟県は積雪量が多い地域。元日の能登半島地震で、避難計画は絵にかいた餅であることが露呈しました。このことから柏崎刈羽原発の再稼働は、私たち長野県民にとっても、決して他人ごとではないのです。

台風、河川の氾濫、地震、土砂災害などなど、災害が後を絶たない昨今、今一度、ご家族や身の回りの方たちとこれからの日本を担う、子どもや孫世代のために、エネルギーの未来について話してみるのはいかがでしょうか。

 

次回のスタンディングは、9月25日(水)17:30~長野駅前(東急レイホテル前)です。どなたでもご参加大歓迎です。一緒にスタンディングで再稼働反対を訴えましょう!

 

 

信州市民連合と立憲・共産・社民の県内3野党が政策合意

自公過半数割れめざし総選挙で共同して戦う方針も確認

候補者調整・一本化に向けて努力する方向性も打ち出す

共同のテーブルには約40人の関係者が参加した

記者会見の最後に4人が固く握手

違憲の安保法制の廃止や岸田政権の軍拡政策に反対する活動を進めている信州市民連合は7月31日、長野市生涯学習センターで約40人の参加者を集めて、「信州市民連合と3野党との『共同のテーブル』」を開きました。

信州市民連合は昨年夏以降、立憲民主党、日本共産党、社会民主党の県内3野党と総選挙において市民と野党が共同で掲げる政策について意見交換を重ねてきました。政策内容について3野党と合意ができて「共同のテーブル」を開く運びとなりました。

「共同のテーブル」には、立憲民主党県連代表の杉尾秀哉氏(参議院議員)、日本共産党県委員会委員長の鮎沢聡氏、社会民主党県連合代表の中川博司氏(県議会議員)が参加しました。

まず、主催者を代表して又坂常人・信州市民連合共同代表(信州大学名誉教授)があいさつ。又坂氏は「岸田政権は、米軍と自衛隊の一体化、自衛隊の米軍の下請け化をいっそう進めている。この国会では、地方自治体への国の指示権を認める地方自治法の改悪を強行した。中央集権的な国家の介入を容認する改悪法だ。ダッチロール状態の岸田政権に一刻も早く終止符を打ち、本当に国民の意思を代表し 新しい未来をひらく政権をつくろう」と強調しました。そして又坂氏は「そのために総選挙で与党の議席を1つでも2つでも3つでも減らす必要がある。少なくとも与野党が拮抗する状態に持っていって、最終的には政権交代をするという戦略的な考えをぜひ野党には持ってもらいたい。そして、手始めとして小選挙区で候補者の一本化を図っていただきたい」と市民と野党の共闘で戦う方向性を求めました。さらに又坂氏は「候補者調整と同時に、政策の一致が求められる。今日の共同のテーブルで3野党に手渡す政策要望書を尊重して活動してもらいたい」と述べました。

その後、3野党にそれぞれ信州市民連合の「政策要望書」と「基本政策」が手渡されました。

杉尾秀哉・立憲民主党県連代表

あいさつに立った杉尾秀哉・立憲民主党県連代表は、「信州市民連合より受け取った政策要望書については、最大限私たちの要望も聞いていただき、納得できる内容にまとめてもらって感謝する。これからの解散総選挙、国政での活動ではこの政策要望書の内容を尊重して行動していく。長野県では、私も2016年に最初に市民と野党の共闘で一本化をしていただき国政に送り出していただいた。それから参議院では4回の選挙で連勝をした。『長野モデル』の勝利だった。残念ながら衆議院の2021年の総選挙では、長野モデルが県民に十分な理解を得られず勝利することはできなかった。その反省の上に立って、今回、 政策要望書で次の解散総選挙で立憲野党の候補者一本化と市民と野党の共同を進めて当選を目指すことを要望されている。候補の調整、一本化を心から期待したい」などと述べました。

鮎沢聡・日本共産党県委員会委員長

日本共産党県委員会の鮎沢聡委員長は「信州市民連合の皆さんが、市民と野党の共闘で政治を変えるために、 共闘の旗印となる政策要望書にまとめていただき敬意を表する。裏金問題はじめ政治腐敗、国民の暮らしの破壊と平和の破壊が一体で進められている自民党政治はもう完全に行き詰まっている。国民は自民党政治を見限り、政権に退場を突きつけている。今声を上げれば自民党政治を変えられる歴史的なチャンスだ。今回の政策要望書は、その希望の方向を示している。市民と野党の共闘を本気の共闘にしていこう」などとあいさつしました。

中川博司・社民党県連合代表

社会民主党県連合の中川博司代表は「今日の政策要望書を社民党も全力を挙げて実現に向けて努力をしていく決意だ。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻を目の前にして、私たちは 無力感を感じざるを得ない。今起きている戦争を私たちが止められない。本当に毎日幼い命が奪われていくことに心が痛む。しかし、私たちには力も金も名前もないが、手を繋ぎ声を出していくことはできるはずだ。今の自民党政治を一刻も早く変えるために全力を尽くしてまいりたい。信州市民連合が作ってくれたこの共同のテーブルを前に動かして、一刻も早く候補者の一本化、戦う体制を作っていこう」と強調しました。

共同のテーブルではこのあと参加者と意見交換を行いました。また、多くのマスコミ関係者が取材していましたので、共同のテーブル終了後には、信州市民連合と3野党が共同記者会見を開きました。

信州市民連合が3野党に提出した「政策要望書」「基本政策」/信濃毎日新聞記事(2024年8月1日)

渡辺一枝さん主催の今野寿美雄さんと行く福島被災地ツアー

2024年4月5日(金)、6日(土)、7日(日)の三日間、渡辺一枝さん主催の福島被災地ツアーが行われた。私を含め女性4人での参加。そこには、原発事故から13年が経ち、知らないうちに大きく変容していっている福島があった。住んでいた住民をほったらかしにして国家プロジェクトが進められている被災地の現状に、どうにも頭が付いていかないという感じだ。

 

浪江町津島の帰還困難区域

まず最初に向かったのは、浪江町津島の帰還困難区域。ナビゲーターの今野寿美雄さんのご実家を見学させてもらう。今野さんは原発技術者で、311当時は原子力関連の電気設備や機器の点検作業にあたっていた。被災後は「子ども脱被ばく裁判(親子裁判)」の原告団長でもあり 他の原発関係訴訟の支援もしている。

帰還困難区域に入ると、車中で0.82マイクロシーベルト。

今野さんのご実家の中。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰還困難区域に入る前に、スクリーニング場で防護服等に着替える。フクイチの5号機内を見学した時ほどではないものの、まあまあの物々しい雰囲気に緊張する。全員が着替え終わるといざ出発。数値が0.3マイクロシーベルトを超えると音が鳴るように設定してある線量計が車内で鳴り始めた。(※この辺りの事故前の放射線量は0.04マイクロシーベルト)その音以外は、緑が美しい平和そのものの野山の風景がそこにあった。そのギャップに戸惑いながらも車は進んでいく。ご実家の中での線量計の数値は1.46マイクロシーベルト。内部は、野生動物が入ったそうで荒らされていた。先祖代々の遺影が飾られてあり神棚も立派で、大きなおうちだったことがわかる。ここに残されたものは、汚染がひどいため持っていけなかったもの。それでも位牌だけは持ち帰ったそう。今野さんの長兄が継いで牧場を経営していたので、住宅の隣には牛舎があった。牛はすべて遠くの牧場に引き取ってもらったそう。

カレンダーは2011年3月

牧場を経営していたご実家の敷地には大きな牛舎があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

今野さんのご実家での滞在1時間で浴びた積算線量は0.7マイクロシーベルト。毎時3.8マイクロシーベルト(μSv)浴びると年間被ばく線量20ミリシーベルト(mSv)に相当するそうだから、この1時間ですでに一年の五分の一を浴びたことになる。放射線・原子力利用を行う操業者は、事業所境界の住民に対して年間1ミリシーベルト(mSv)を超えることがないように操業責任を課しているのだから、相当な線量を浴びたことになる。13年経ってもいまだにこんなに線量が高いことにただただ驚くばかりだ。当時は、すぐ近くの浪江高校津島分校が避難所となっていて、15日朝まで学校には8,000人が避難していた。その後、線量が高いことが分かり全町避難となった。高校を過ぎたところで、線量は0.29マイクロシーベルト。フロント部分に「除染土壌(大熊)」のプレートをつけたダンプカーが走っている。大熊町の中間貯蔵施設に搬入しているという。また、2015年に設立された広野町のふたば未来学園は、「双葉郡の学校教育の復興を目指して創設された中高一貫の県立校。令和2年度より文部科学省「地域との協働による高等学校教育改革推進事業(グローカル型)」の指定を受け、地域企業との連携や国際交流を取り入れた教育・学習を実践してきました。」とあるが、今野さんに聞くとここは 廃炉の人員育成の学校だそう。有名人の講師を呼んだり寮も完備されている。イノベーションコースト構想の一環なのだろうか。

このフレコンバックの山は、汚染が高い帰還困難区域のもの

4キロに渡る太陽光発電システム。

車中から見る耕作不可の土地には、4キロに渡る太陽光発電システムが広がっていた。大和エネルギー(株)による電気畑という。これも関東に行く電気で、ここはもう自然には返せない場所となってしまった。

 

浪江町役場と復興住宅

浪江町役場のすぐ隣には真新しい全10戸の復興住宅ができていた。8戸が入居していて、うち2戸がもとからの町民、残りの6戸は主に都市部からの移住者だという。浪江町の人口は、事故前2万1000人だったのが現在2000人(1000人がお年寄り、1000人がいずれかの企業などの従業員)。住む人がいなければ行政が成り立たないのは確かだが、何も知らずに子どもを連れて移住してきた母親は、近隣の線量の高さに驚いたそう。葬祭場は新しくなったが、双葉町の自動車教習所は子どもがいないので、大型免許や重機の免許をとる大人のみの利用となっている。

浪江町役場

町役場となりの全10戸の復興住宅

近くにできた「ふくしまいこいの村なみえ」という施設は、大浴場やカラオケルームを備えた宿泊施設。コテージタイプの宿泊棟はかつて仮設住宅として使用されていたものを移設。中庭では、BBQが楽しめるほか、集会所では雨天時のコミュニティスペースとして活用できる。企業の社員研修などに使われているが、公園の汚染がひどいとのことだった。

ふくしまいこいの村なみえ

バリケード通りの線量は、0.13マイクロシーベルト。

 

しばらく行くと、オリンピックの聖火ランナーで話題になった双葉駅が見えてきた。その向かいには、13億円をかけて作られた双葉町役場。そこにはイノベーション構想の一つ、水素で走る移動販売車が停まっていた。ただ、この立派すぎる施設をどれだけの町民が利用するのだろう。お金のかけ方がまったく解せないと感じてしまう。

双葉駅とコミュニティセンター

駅の向かいにある双葉町役場。水素で走る移動販売車が停まっていた

 

双葉町産業交流館と東日本大震災・原子力災害伝承館

しばらくして車は、双葉町産業交流館に到着。屋上にのぼって、フクイチや中間貯蔵施設など周辺一帯をを⽬視する。屋上からは、津波ですっかり流されてしまった請戸地区も確認できる。断層が3メートルずれて、70センチの地盤沈下が起きたため、小高地区の山を削ってその土をかさ上げした。山を削っての環境破壊、自然をないがしろにする人間の傲慢さがここにも垣間見える。請戸小学校の一角に置かれた複数のカエルの石像。カエルの視線の先には福島第一原発。「こいつらが原発を〝監視〟している」これは避難した人が抗議の思いを込めてここに置いた「帰れないカエル」だ。請戸港には500件の家と田んぼがあった。以前の姿を知る今野さんにとって、更地だらけの光景はどう映るんだろう。

双葉町産業交流館

屋上から周辺を目視する参加者

フクイチが遠くに見える

中間貯蔵施設についての説明書き

建設費用53億円の双葉町の東⽇本⼤震災・原⼦⼒災害伝承館は、高校の修学旅行にも訪れる。

東日本大震災・原子力災害伝承館

原発を監視する帰れないカエルたち

 

福島イノベーションコースト構想関連施設

アメリカのハンフォードをならったとされる福島イノベーションコースト構想関連施設の全体が見える丘にのぼった。福島イノベーションコースト構想とは、官産学連携3,000人規模のエフレイ(Frei)が主導する国家プロジェクトだという。ここはその実証地。いつの間にこんなプロジェクトが動いていたのか・・・、日本人はみんな知っているのか・・・。浪江の町が大きく変わる・・・。国は、原発事故をなかったことにして歴史の上書きをするつもりなのか。

海光(かいこう)の丘からの眺め

浪江町にできた広大な施設

東北復興のためとアイリスオーヤマが浪江町の土地を買い取り、米を生産したり、東北電力がかつて原発設置を計画していた町沿岸部の土地のうち約24ヘクタールを活用し、浪江町の主力産業だった酪農の復興に向けて100億円をかけて、大規模な牧場を整備。

他に福島ロボットテストフィールドというドローンの滑走路ができたり、太陽光パネルを水素に変換する施設や、60台の燃料電池車。隈研吾設計で浪江駅(0.193マイクロシーベルト)が新設されたが、近隣に住んでいる人はほとんどいない。家が建っていても住んでいないのが現状だという。中間貯蔵施設は植樹をして木で見えなくする計画。大熊町役場と復興住宅が並ぶ大熊コンパクトタウンは35億円をかけて作られた。多額のお金が動き、そこに企業が群がっていると聞いた。

 

南相馬市小高の「おれたちの伝承館」

ここは民営で、今野さんもかなり関わってできた大切な場所だという。ジャンルはさまざまで、被災した当事者たちの声が作品にあらわれている。そこにいると作品を通して思いが伝わってくるのだ。先ほどまで見学してきた「東日本大震災・原子力災害伝承館」やイノベーションコースト構想などに、どこかで違和感を感じていた自分だったが、ようやく共感できるこの場所で本来の自分を取り戻したような気がした。

                 

 

大熊コンパクトタウンと学び舎ゆめの森

⼤熊町役場と周辺の復興住宅がコンパクトにまとめられた町には、建設費用45億3900万円かけて作られた小学校「学び舎ゆめの森」という立派な建物が目を引く。しかし2023年度の生徒数は26名、職員はその数倍。図書室には50万冊の本とブックコンサルタントが常駐している。

 

夜ノ森桜まつり

ちょうどこの日は、富岡町に春を告げるイベント「夜ノ森桜まつり」が13年ぶりに開催された。富岡町夜の森地区にある「夜の森公園」をメイン会場によさこい踊りなどが披露される。このお祭りがなくなったことは、浜通りに住んでいたものにはかなり残念でならなかったがようやく再開と嬉しく思ったが、あいにくの雨の中のお祭りとなった。

 

富岡町アーカイブミュージアム

1階が常設展示室とタウンギャラリー、2階が収蔵エリアの町営の施設。受付で配布されるリーフレットには、「ふるさとを想い、まもり、つなげる、拠点施設です。みなさまへお伝えしたいのは、富岡町という『土地』と私どもが経験した10年間の出来事です。(2021年7月11日に開設)2011年3月11日までは、そこには『あたりまえの日常』が溢れていました。しかし、東日本大震災の影響で生じた原発事故は、富岡町で暮らすという『あたりまえの日常』を、突然奪いました。3月12日、町民は、違う土地で暮らす覚悟ができないまま、ふるさとを離れました— 当館は、富岡町の『特徴』と、この地域で生じた自然災害・原発災害の『特徴』を展示しています」と記されている。

双葉町に在る「東日本大震災・原子力災害伝承館」は県営でここは町営と、どちらも行政が設置した公営の施設だが、リーフレットの文言からも分かるように、展示の姿勢が全く異なっている。被災前のこの町の暮らしを丁寧に伝えながら、原発災害の様子もしっかりと伝えている。これこそが本来の姿だと感じる。

 

東京電力廃炉資料館

東京電力の施設。見学は1時間と限定されていて、事前に入館時刻と人数を伝えて申し込む。外観はアインシュタイン、キュリー夫人、エジソンの生家をモデルにしたという建物で、事故前は原発の有用性をアピールする「エネルギー館」だった。
事故後に「原子力事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を社内外に伝承することは、当社が果たすべき責任の一つです」として廃炉資料館としたのだが、見学時間が1時間と限定されて、職員の説明を聞きながら館内を回るのでどこかをじっくり立ち止まって見たり、もう一度戻って見直したりということができない。流れ作業のように「見せられる」施設という感じだ。

 

Jヴィレッジ駅

 

宝鏡寺「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ 伝言館」

館長だった早川篤雄氏が2022年末に亡くなった後、原子力損害賠償群馬訴訟原告・ALPS処理汚染水放出差止訴訟原告事務局の丹治杉江さんが責任者となって、訪問者を受け入れている。
東京電力福島第二原子力発電所建設計画が持ち上がった1970年代から、当時高校教師だった早川さんは教師仲間や住民たちと原発設置反対運動に取り組み、1975年には「福島第二原発設置許可処分取消」を求めて福島地裁に提訴した。この裁判は地裁、高裁で敗訴し、最高裁では原告の上告棄却で敗訴したが、早川さんは、この原発計画が持ち上がった時からの新聞記事・その他の資料を保存していた。
2011年の原発事故の翌年2012年からは「福島原発避難者訴訟」の原告団長として闘ってきたが、事故から10年目の2021年の節目の日に、この伝言館を開設した。館内には早川さんが保存してきたたくさんの資料が展示されている。丹治さんは群馬訴訟の原告として闘ってきた自身の信念に重ねて、早川さんの遺志を継ぐべく伝言館の灯を消すまいと頑張っている。
丹治さんから館内の案内と熱い言葉をたくさん聴いたことにより同じ思いを共有でき、また自分を取り戻すことができた。

 

いわき市湯本温泉「古滝屋」旅館

 伝言館を後にして一路、古滝屋へ向かった。いわき市出身の自分には老舗のなじみ深い旅館。ここのご主人がずっと原発事故以来、活動をしてきたということに感動した。地元でこのような活動をすることの大変さは計り知れないことと思う。ましてや旅館を経営しているのだから。お会いしてお話するのがとても楽しみだった。館内に設置された「原子力災害考証館」の見学は明日に回して、まずは広々とした温泉で気持ちよく汗を流した。その後の夕食は、当館館主の里見喜生(よしお)さんも同席しての和やかな会食となった。

 

原子力災害考証館

朝食後に9階の考証館へ。
古滝屋旅館館主の里見さんは3・11後、各地から集まるボランティアの受け入れや、自宅が被災して寝る場所を失った受験生に宿を提供するなど自らもボランティアとして活動していながら、原発事故に思いを馳せてきた。そして旅館の宴会場だった20畳の大広間を、原子力災害について私たち一人ひとりが考える場にすることを決めた。それがこの「原子力災害考証館」だ。
畳敷の広間の中央に、畳を外した一段低いコーナーを作り、そこには浜辺に打ち寄せられた流木と砂にまみれた小さなスニーカー、水色のランドセルが展示されている。津波で行方不明になった、大熊町の木村紀夫さんの次女、汐凪さんの遺品だ。正面の壁の大きな写真パネルは、ボランティアたちが汐凪さんの遺体を捜索している様子が写っている。
右の壁面には写真家で「おれ伝」館長の中筋純さんが2013年と2020年に同じ場所を撮影した、浪江町の商店街だった通りの写真が上下2段で展示されている。2013年撮影の上段の写真では店の看板を掲げた商店が写っているが、2020年の下段の写真では歯が欠けたように店の姿がいくつも消えている。解体されたからだ。上段に写っている店の一軒は、歌人の三原由起子さんの実家だ。
写真の下の棚に立て置かれた色紙には、「わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す」、由起子さんの歌が書かれていた。本が置かれたコーナーにある由起子さんの歌集『土地に呼ばれる』を開けば、「建物が壊されてゆく商店街なかったことにされているだけ」が心を打つ。
「物」が語りかけ、「ことば」が見せる情景を前にしてこの13年に思いを馳せた。

 

 

コミュタン福島

いわきから三春への道は、雲一つないような青空だった。目的地に向かう道筋の右車窓から見る三春の滝桜は濃い紅色に枝垂れて、今日か明日には花開くようだ。三春は、梅・桜・桃の花がいちどきに咲く地という事から名付けられたという。道中で目にした枝垂れ桜は満開の木もたくさんあって、眼福を味わいながら、目的地に着いた。
コミュタン福島は「ふくしまの今を知り、放射線について学び、未来を描く」ことを目的に福島県が設置した施設。そして、はっきり謳ってはいないが、来館者は子どもたちを対象にしているように思える。
館内は6つのエリアに分かれている。1、「福島の3.11から」復興へ向かうふくしまの歩みを知ろう! 2、「未来創造エリア」ふくしまの今を知り、ふくしまの未来をともに描こう! 3、「環境回復エリア」放射線や環境創造センターの研究について学ぼう! 4、「環境創造エリア」原子力に変わる新しいエネルギーや、自然環境について学ぼう! 5、「環境創造シアター」大迫力の映像と音響空間!全球型ドームシアター 6、「触れる地球」宇宙から見たリアルタイムの地球の姿を体感 とあり、5の全球型シアター以外の各エリアは手で触れたり操作したりできるゲーム感覚で参加できる。
5の全球型シアターは360度全方位の映像と音響で、浮遊感覚を味わいながらの映像鑑賞となる。国立科学博物館とここにしかない装置だそうだ。
例えは悪いかもしれないが、ここは「学習型ディズニーランド」で、飽きさせずに夢中にさせる屋内遊技場という感じだ。原発事故が何をもたらしたかということや核の危険性やそれを扱う際の倫理観よりも、「放射能は自然界にも普通にあって、原発事故で放出された放射能は怖くはないよ」ということを伝える施設のように思える。
館内には、来館した子どもたちが寄せた感想のメッセージカードが展示されている。学校の授業の一環としてこの施設の見学が組み込まれているのだ。学校と名前を入力すると、子どもが書いたメッセージが見れる仕組みになっている。感想はどれも優等生的な内容で、放射能は怖くないと知らず知らずのうちに教育されているかと恐ろしくなった。