21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

市民の憲法講座「戦後80年 戦争の爪痕を未来へつなぐ」

信州護憲ネット第26回総会・第35回市民の憲法講座を開催

守ろう平和憲法 信州ネットワーク(信州護憲ネット)は第26回総会と第35回市民の憲法講座を5月3日・憲法記念日に、長野市内の県労働会館で開催しました。オンラインを含め45人が集いました。護憲ネットの総会では今年度の活動方針が確認され、午前には新田町交差点(長野市)で街頭行動が行われ、あわせて実施した選択的夫婦別姓への賛否を問うシールアンケートには多くの市民が意思表示をしてくれました。

戦後80年の市民の憲法講座では木下氏と松澤氏が報告

今年の「市民の憲法講座」は、「戦後80年、戦争の爪痕を未来へつなぐ」というテーマで、アイ女性会議・飯伊の木下容子氏から飯田下伊那地域の戦争遺跡を巡り平和について考える学習会のとりくみについて、また信州護憲ネット代表委員でもある松澤佳子氏から「中国侵略の現場から」「アウシュビッツ平和の旅」の二つの報告をいただきました。

市民の憲法講座講師の松澤佳子さんと木下容子さん

飯田下伊那の戦争遺跡を巡り平和を考える

木下容子さんは、満蒙開拓の国策をはじめ朝鮮人や中国人が強制労働を強いられた平岡ダム(天龍村)の建設工事や登戸研究所平和資料館(駒ヶ根市)など地元の飯田市など南信地域の戦争遺跡を巡り学んだことを報告しました。

冒頭には、満蒙開拓平和記念館で展示された魯迅美術学院・王希奇教授が、葫蘆島からの引き揚げを描いた大作『一九四六』に触れ、引き揚げの記念写真の中に髪を短く切って男の子を装った少女が、遺骨を胸に抱いている姿を見つけたことが、王氏が作品を描いたきっかけだったと紹介されました。『一九四六』を前にして「引き揚げ船に向かって列をなしている数百もの人たちに囲まれた空間は、凄まじい思いが伝わる空間だった」そうです。

満蒙開拓平和記念館で展示された王希奇『一九四六』に描かれた遺骨を抱いた少女

木下さんたち学習会のメンバーはその後、葫蘆島を訪れ、王氏のアトリエを訪問し交流をもったことも報告されました。王教授は今も引き揚げをテーマにした作品を描き続けているそうです。また中国の瀋陽にある9・18博物館(満州事変の発端となった柳条湖事件が起きた日)を訪れたことが報告され、90年以上前の日本がしてきた行動や、中国の方たちの抗日活動をずっと伝え続けている中国と、満州事変でさえもしっかりと教えていない日本の状況、両国の大きな違いに、本当にこれでいいのだろうかという思いを持って帰ってきたそうです。

※葫蘆島在留日本人大送還:日本の敗戦時、中国・旧満州に置き去りにされ難民化した一般邦人約160万人。そのうち約105万人が餓えと恐怖にあえぎながら引揚げ港の葫蘆島に辿り着きました。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、同年末までに101万人超、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還されました。 葫芦島港の桟橋跡には「1050000日本僑俘遣返之地」の記念碑が建っています。 作家の澤地久枝さん、漫画家の赤塚不二夫さん、俳優の森繁久彌さんなども同時期に葫蘆島から引き揚げました。

全国最多の長野県内で最多の8389人を送り出した飯田下伊那地域

1932(昭和7)年に日本の傀儡国家「満州国」が中国東北部に建国され、1945年の敗戦までに国策の満蒙開拓によって、全国から約27万人が入植しました。敗戦後の引き揚げの過程で殺害されたり集団自決によって約8万人が犠牲になりました。長野県内からは都道府県別で最多の3万人超(その内10代の満蒙開拓青少年義勇軍は6千人余)が送り出され、うち飯田下伊那地域からは8389人に上り、県内最多でした。木下氏は「多くの開拓民を満蒙開拓に送り出した地域だからこそ、満蒙開拓に行った人たちだけでない、送り出した側としてもその歴史を次世代に伝えていく、そういう義務があるんではないか」と訴えました。

満蒙開拓 都道府県別の送出人数(信濃毎日新聞サイトより)

満蒙開拓 長野県内市郡別の送出人数(信濃毎日新聞サイトより)

平岡ダム・飯島発電所で朝鮮人・中国人、捕虜が過酷な労働

天竜川を堰き止める「平岡ダム」や「飯島発電所」の建設工事には、大勢の朝鮮人や中国人のほか、連合軍捕虜、在日朝鮮人も動員され、危険で過酷な労働環境のなかで、大勢の方が亡くなったことが報告されました。また「731部隊」にまつわる展示をするべきか市民による議論が重ねられた飯田市平和祈念館への訪問を重ねたことも報告されました。

多くの開拓団を満州に送り出した地域だからこそ

飯田下伊那にもたくさんの戦争遺跡が残されていることを知り、そのことを私たち自身が知らなかったことにも驚き、申し訳ない気持ちになったそうです。そこから地元の企業と戦争との関わりや学生たちの戦争への関わりについても調べ学んだことが報告されました。飯田地方の中学、公民学校の生徒たち(現在の中学高校生)も「1億総生産」の旗印のもと強制労働させられ、旧飯田高等女学校(現在の飯田風越高校)の生徒たちも勤労動員され風船爆弾に関わったことが記録として残されているそうです。

木下氏は「戦争当時は当たり前だったのかもしれないが、飯田下伊那を代表する企業の多くが軍事産業に関わってきたこと、そこに就職をした私たちもその歴史を背負っているということに気づいた」と話し、「飯田下伊那が満蒙開拓やダムの建設などに関わった歴史を持つ地域であることを考えると、日本人である自分たちも、被害者としてだけではなくて加害者としての一面をも背負っていることを認識をしなければならない」と指摘しました。

満蒙開拓の歴史を後世に伝えようと活動する高校生たち

報告では飯田下伊那地域の若い世代のとりくみも紹介さました。松川高校のボランティア部の生徒たちは、自分たちを戦争体験者から直接話を聞くことができる最後の世代と捉え、戦争体験者から学ぶとともに、満蒙開拓平和記念館でボランティアガイドを務めていることが報告され、木下氏は「戦争体験を次の世代に繋ぐ、そういう役割をこうした若い方が担ってくださっていることに本当に感銘を受けた」と話されました。

木下氏は講演の最後に「多くの開拓団を満州に送り出した地域だからこそ、その歴史をしっかりと受け止めて、次世代に繋いでいきたい。地域に残る多くの戦争遺跡を守り、日本人としての加害の歴史を忘れてはならない。しっかりと平和を守っていかなければならないし、どんなことがあっても戦争だけは絶対にしてはいけない」と訴えました。

中国侵略の現場から―前事不忘 後事之師―

松澤佳子氏からは、はじめに木下さんの報告を受けて、731部隊や満蒙開拓とも関連する中国現地を訪問した際の報告をいただきました。松澤氏は冒頭、演壇に飾られた紫色の花を手にして「この紫金草はうちの庭から持ってきました。中国では二月蘭とも呼ばれていますが、中国南京の記念館などの周りにもたくさん咲いています。南京を訪れた軍医の山口清太郎が南京の惨状を見て、その地で咲く花の種を持ち帰り、戦後平和の象徴として全国に広がったそうです。私はこの花を見るたびに中国のことを思います」と話されました。

紫金草を手にする松澤佳子氏

9・18を忘れない

講演のタイトルの「前事不忘 後事之師」は、「以前のことを忘れてはいけない、それは後の行動の指針となる」という意味で、満蒙開拓記念館にも見られ、中国でもよく書かれている言葉だと紹介し、「中国では侵略の始まった9・18を忘れない、ということが様々な記念館に書かれている」ことが報告されました。

松澤氏からは中国で訪れた「在日殉難烈士・労工紀念館」「撫順平頂山惨案紀念館」などの展示内容や日本軍の「労工狩り」や「平頂山事件」について紹介いただきました。侵略の加害者である日本人自身が、中国への加害の歴史を知らないという現状が指摘されました。

※1931年9月18日に起きた柳条湖事件は、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で、日本の関東軍が南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件で、満州事変の発端となりました。関東軍は、中国側の仕業として、宣戦布告もせず軍事行動を展開し、満州全土を占領しました。

在日殉難烈士・労工紀念館

撫順平頂山惨案紀念館

※平頂山事件(へいちょうざんじけん)とは、1932年(昭和7年)9月16日、満洲国撫順市(現在の中華人民共和国遼寧省北部)において、日本軍関東軍撫順守備隊(独立守備隊第2大隊第2中隊)が、前夜の抗日ゲリラによる撫順炭鉱襲撃事件の報復のため、ゲリラと通じていると疑った撫順炭鉱近くの平頂山集落の住民の多くを殺傷した事件である。

侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館

七三一陳列館では、テーマパークのように賑わっており、木下氏の訪問時と同じく、ガイドから日本語での案内はできないと断られたそうです。コロナ以前は、どこの記念館にも日本語のガイドがいたが今は難しくなっている状況があることが報告されました。

松澤氏は、中国を訪れる度に日本の侵略を体験した生存者の方から証言を聞いてきたそうです。「私たちは日本の軍国主義を憎んでいるけれども、あなたたちを憎んでいるわけではなくて、あなたたちとは友好関係を結んでいきたいんだ、ただ二度とこのような戦争が、残酷なこと、悲惨なことが起こらないように行動してください」と生存者の方はみな言われてきたことが紹介されました。敵基地攻撃能力の保有以降、中国人の感情も中国政府側も二度と攻められないようにというスタンスを強調するように変化しているのではと指摘しました。

731部隊の創設者・部隊長の石井四郎は、アメリカ側に研究資料を渡すことで戦犯を免れた他、捕虜への凍傷実験を指揮した吉村寿人は日本気象学会会長や京都府立大学学長になるなど、多くの関係者が医学会などに残ったとされていることが報告されました。

松澤氏は「中国を訪れて、中国の方とお話をするということがすごく大事」と対話することの重要性を強調しました。

※講演では、信濃毎日新聞でも連載されている731部隊の証言活動を続ける清水英男さんのことも紹介されました。

【NHK】731部隊元隊員 慰霊訪問の中国から帰国 不戦への思い語る(2024年8月26日)

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20240826/1010032023.html

アウシュビッツを訪ねる平和の旅

松澤氏からはアウシュヴィッツ強制収容所(ポーランド・オシフィエンチム市)訪問の報告もいただきました。冒頭にアウシュビッツ収容所の建設から解放までの概要が説明され、現在は国立博物館となっているアウシュヴィッツ収容所の展示や現地の日本人ガイドのエピソードなどが紹介されました。現在のロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ・イスラエルの問題などについても触れながら平和について考える時間になりました。松澤氏は「最初に2007年に行きましたが、多くのユダヤ人が命を落とした場所に実際に立つと、やはり胸が締め付けられ、涙が出て止まらなくなった」と現地を訪れた際の心境を語られました。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の建設から解放まで

日本人ガイドの中谷さんとの出会い

アウシュヴィッツ博物館唯一の日本人ガイドの中谷さんは、3年間のサラリーマン生活を送りますが、どうしても学生時代に訪れた強制収容所のことが忘れられず、1991年にポーランドに移り、アルバイトをしながら語学や歴史を学び、難しい公式ガイドの試験を受けて合格をした方で、今もガイドをされているそうです。

中谷さんは「過去に学ばない者は、過ちを繰り返す」という博物館の考え方を大事にして案内していると話されたそうです。涙を流す松澤氏に対して「泣いて済まさないでください」と中谷さんに言われたことが印象に残っているそうです。「二度とこんなことが起きないようにするにはどうしたらいいのかを考えて帰ってください」と厳しく言われ、きちんと伝えていくこと、二度と戦争をしないためにどうしていくか、自分がどうやって行動していくか、どうやって生きていくかということを中谷さんから学んだそうです。

松澤氏が「本当に尊敬するガイドの方」という中谷剛さん

アウシュヴィッツ博物館の展示

※松澤氏が紹介した映画『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督・2023年)は、アウシュヴィッツ収容所の傍らで暮らす所長のルドルフ・ヘスとその家族の穏やかな日常と、壁の向こうで立ち上る煙、ユダヤ人の虐殺を対比的に描く作品。

映画『関心領域』公式サイト

https://happinet-phantom.com/thezoneofinterest/

アウシュヴィッツ博物館サイトと日本語パンフレット

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館公式サイト

https://www.auschwitz.org/en/japanese/

『アウシュビッツ=ビルケナウ — その歴史と今』 (日本語PDFダウンロード)

https://www.auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

世界はよくない方に向かっている

松澤氏が今回の旅で感じたのは「こんなひどい目にあったユダヤ人が、なぜパレスチナであんなひどいことができるのか」ということだったそうです。
アウシュヴィッツから戻り改めて学びを深める中で「ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナの問題、今起こっている二つの戦争の背景には第二次世界大戦がまだある」「ロシアは第二次世界大戦で3000万人が亡くなり、イスラエルはホロコーストでユダヤ人の犠牲者が600万人と、本当に途方もない数の人たちが犠牲になっていることが背景にある」ということが見えてきたそうです。

イスラエルは今18歳から、男性は3年、女性は2年の兵役義務があります。イスラエルの若者は徴兵されると、紀元70年頃にローマ軍に追い詰められたユダヤ人が籠城したマサダ砦で力尽きて全員自決したこと、ここから2000年の民族離散が始まったと学び、マサダ砦で入隊式が行われているそうです。多くのイスラエルの若者がアウシュヴィッツ博物館も訪れますが「自らの権利を勝ち取るためには武装して戦わなくてはという考えになってしまうのではないか」と松澤氏は指摘します。その根底には長いヨーロッパでのユダヤ人差別があることも指摘されました。

松澤氏の資料が会場で展示された

会場では護憲ネット会員から提供された「撫順の朝顔」の種子が無料配布された

 

ミャンマー大地震被災者支援募金活動を善光寺仁王門でおこないました!

ミャンマー大地震被災者へ156,601円の募金が寄せられました!

ミャンマー大地震被災者支援募金活動を県内在住のミャンマー人学生や県内外の支援者が参加して善光寺仁王門でおこないました。
先月に引き続き二回目のとりくみでしたが、156,601円の募金をお寄せいただきました。
先月は雨の中でしたが、昨日は天候に恵まれ、多くの方で賑わうなかで募金活動をさせていただきました。
ご支援、ご協力をいただいたみなさまありがとうございました。

ミャンマー大地震被災地支援募金2団体へ寄付!次回は5/18(日)12時から善光寺仁王門で募金活動をおこないます!

4月13日の善光寺仁王門での募金で21万7281円が寄せられました

善光寺仁王門での(主催:ミャンマー大地震被災者支援募金実行委員会)へのご協力、ご支援をいただきありがとうございました。
県内在住のミャンマー人を中心に県内外のミャンマー支援団体、信州の会メンバーも多数参加してミャンマー大地震被災者への支援を呼びかけました。

「ミャンマーの平和を創る会」と「難民を助ける会(AARジャパン)」に寄付

ミャンマー大地震被災者支援募金実行委員会は、ミャンマーの被災地で支援に取り組む2団体「ミャンマーの平和を創る会」(東京都)と「難民を助ける会(AARジャパン)」(東京都)にそれぞれ10万円を寄付しました。「ミャンマーの平和を創る会」と「難民を助ける会(AARジャパン)」から届いたメッセージと領収証をご報告します。

■一般社団法人「ミャンマーの平和を創る会」
https://www.chitchitkhinkhin.org/

■認定NPO法人「難民を助ける会(AARジャパン)」
https://aarjapan.gr.jp

ミャンマーの平和を創る会からのメッセージ紹介

難民を助ける会(AARジャパン)からのメッセージ・活動報告紹介

※残りの寄付金1万7281円は次回以降に繰り越しさせて頂きます。

ご寄付いただいた皆様、呼びかけに参加された皆様、ありがとうございました。

5月18日(日)12時から善光寺仁王門で募金活動を行います

次回は、5月18日(日)12時~15時、善光寺仁王門でミャンマー大地震被災者支援の募金活動が行われます。主催はミャンマー大地震被災者支援募金実行委員会です。
県内在住のミャンマー人留学生、支援団体メンバーのほか、今回は日本人学生も参加する予定です。

前回(4/13)の善光寺仁王門での支援募金の呼びかけ

被災71周年ビキニ・デー全国集会

1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験によって、「第五福竜丸」をはじめとする日本の漁船が被爆しました。このことをきっかけに日本における原水爆禁止運動が大きく拡がりました。原水禁はこの被害の実相を継承し、核廃絶の決意を確認するため、毎年3月1日前後に静岡での集会を行ってきました。

静岡市で行われた平和を願う集会は、多くの人々の思いを集め、核兵器の恐ろしさや平和の大切さについて改めて考える場となりました。この集会には、長年にわたり核兵器廃絶や被爆者支援の活動を続けてきた人々や、若い世代の高校生たちも参加し、それぞれの思いを語り合いました。

さらに、若い世代の高校生たちも、自分たちの思いを伝える場面があり、未来の平和を担う責任について考えるきっかけとなったようです。彼らは、いのちの尊さや平和の大切さを胸に、声を合わせて平和への願いを伝え、次の世代へとその思いをつなぐ決意を示しました。

集会では、主催者と地元からのあいさつの後、原水禁共同議長である金子哲夫さんから「被爆80年・核兵器廃絶のために 原水禁運動に歴史に学ぶ」と題した講演を受けました。

金子さんは「原水禁運動は、広島・長崎の被爆から約10年のブランクを経て、ビキニ事件を契機に始まりました。10年間遅れたのは米軍のプレスコードによって広島・長崎の被害の実態が隠されていたことが大きな原因です。しかし第1回原水爆禁止世界大会で被爆者自身が被爆体験を語ったことで、被爆の実相が全国各地の市民に受け止められ、核兵器廃絶と被爆者救済が運動の柱となりました」と運動の原点についてお話しされました。その後の運動の中で重要な意味を持つ出来事のひとつが、核実験場となったマーシャル諸島の被災者との出会いだったとし、「日本だけが『被爆国』ではなかったことにくわえ、核実験やウラン採掘によって先住民族など弱い立場にいる人たちに核被害が集中している現実に直面した私たちは、その中から『核と人類は共存できない』という核絶対否定の理念を確立することができたのです」と運動の理念を確立することができた経過が説明されました。

さらに「いのちの尊厳をうばい核兵器使用に繋がる戦争を否定する『ヒロシマの心』に立脚して運動を強化することが私たちの課題であり、とりわけ自治体決議や署名運動などを通じて日本政府の核兵器禁止条約(TPNW)参加を迫っていくことが重要だ」と核廃絶に向けてあきらめず声を上げ続けること訴えました。

続いて第五福竜丸漁労長だった故・見崎吉男さんのご遺族、杉山厚子さんからの講話がありました。杉山さんは、父である見崎吉男さんが地域社会から冷遇され、マスコミからは事実に基づかない批判を受けた経験からたいへんな苦悩を抱え込み、長年その体験を語ることがなかったことをお話しされました。杉山さんは父の思いを引き継ぎ、証言活動を行ってきました。最後に見崎さんの墓碑に刻まれた見崎さん自作の詩を紹介されました。

「だれにだって 風の日も雨の日もあらしの日だってあるさ 大切なのは夢をしっかり抱きしめて いのちいっぱい生きたか 波のように何度でも立ち上がったかだ」

この詩に参加者から大きな拍手が起こりました。

集会の終わりには、静岡選出の高校生平和大使(第27代)の谷河優那さん、粂田陽菜さん、水野可麗さんから活動報告とアピールがありました。

翌日は、静岡県焼津市のマグロ漁船、第五福竜丸が米国による太平洋ビキニ環礁での水爆実験で被曝(ひばく)した「ビキニ事件」から71年となった1日、被曝して死亡した同船の無線長、久保山愛吉さんの墓がある焼津市の弘徳院へバスで向かい、墓前祭に参加しました。

 

 

       

「沖縄レポート 」岸本喬氏講演会~県護憲連合第70回定期総会~

県護憲連合総会で沖縄県の現状を報告

2025年2月11日に長野市内で開かれた長野県憲法擁護連合第70回定期総会で、記念講演として沖縄平和運動センター岸本喬事務局長に「沖縄レポート」というテーマでお話いただきました。若年世代が参加する青年女性連絡会のメンバーは「2・11反戦平和学習会」として松本市内の会場からオンラインで参加しました。会場・オンラインあわせて約70人が参加しました。

沖縄からオンラインで講演する岸本氏

女性差別撤廃条約「選択議定書」の意見書採択のとりくみ報告

県護憲連合総会では、戦後80年の節目を迎える中、憲法改正や防衛費増額に反対し、憲法理念の実現を目指す活動方針が確認されました。また松澤佳子代表委員から、国連の女性差別撤廃条約の実効性を強化する「選択議定書」の批准を国に求める意見書が、県と県内73市町村議会で採択されたことが報告されました。

あいさつする松澤代委員

戦後80年 基地の島・沖縄の内実

戦後80年を迎えますが、沖縄は今なお過重な米軍基地の負担に苦しんでいます。日本の国土面積の0.6%に在日米軍施設の約7割が集中する異常な構造は解消されていません。普天間基地の移設をめぐり、県民投票で示された辺野古新基地建設反対の意思(72%が埋立反対)を無視した政府の土砂投入と軟弱地盤工事は、沖縄県と国の法廷闘争に発展して修復不可能な対立を生んでいます。沖縄県は一貫して県民の意思を伝え対話による解決を求めていますが、日米両政府ともに「辺野古が唯一の解決策」との姿勢を変えず、県民の思いを顧みることなく工事が強行されています。

沖縄県民の思いを国・米軍に訴え続ける玉城デ二―沖縄県知事

「沖縄という一地方の問題ではない。
日本の国の制度の在り方が問われている」

岸本氏からは、南西諸島の軍事要塞化、米軍によるPFAS汚染や環境破壊、辺野古の新基地建設問題、新軍港の建設問題を中心に、日米地位協定に圧し潰される沖縄の差別的な状況が示されました。岸本氏は「沖縄という一地方の問題ではない。日本の国の制度の在り方が問われている」と訴えます。有事になれば沖縄は再び戦場になり、「捨て石」にされないかという不安が沖縄県民の間で拡がっています。自衛隊と在日米軍の一体化が進む状況のなか、更なる負担に直面する沖縄で何が起きているのか、現地からのレポートをお届けします。

3月には松本空港にも緊急着陸した米軍のオスプレイ

【以下、岸本氏の講演内容を載録した「信州護憲ネット会報69号」を掲載します】