21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

ミャンマーを忘れない! 交流フェスタを初開催

10月29日(日)は長野市・セントラルスクゥエアへ集まろう

ステージではミャンマーの歌や踊り、広場ではミャンマー料理の提供も

クーデター直後と比べてミャンマーへの関心が薄くなっている現状があります。私たちは「ミャンマーを忘れない」を合言葉に活動を続けてきました。「ミャンマー民主化を支援する信州の会」の活動の一環として、多くの市民の方々がミャンマー問題について考えてもらうきっかけにしたいと、誰でもが気軽に参加できるフェスティバルを企画しました。

家族連れでのご来場をお待ちしています。

関東大震災時の朝鮮人大虐殺事件から100年

日本政府は虐殺の真相を解明し関係者へ真摯な謝罪を

いまだ続くヘイトスピーチ、民族排外主義を許さない

今年9月1日は、首都圏に甚大な被害をもたらした関東大震災から100年。多くの日本人には9月1日は「防災の日」として広く知られています。

しかし、このとき起きたのは自然災害だけではありません。震災のさなか流言飛語が飛び交い、戒厳令が公布され、6千人以上の朝鮮人が、軍隊、警察、自警団によって虐殺されました。

2003年8月、日本弁護士連合会は日本政府に対して虐殺の責任を認め、被害者と遺族への謝罪、真相調査と原因究明を勧告しました。しかし、日本政府はいまだに事実を認めず、調査も謝罪も賠償もしていません。それどころか今年5月23日に開かれた参議院内閣委員会で谷公一国家公安委員長は、朝鮮人虐殺事件についての質問に対し、「事実関係を把握できる記録が見当たらない。さらなる調査は考えていない」と答弁し真相調査すら拒んでいます。

そうしたなか、「虐殺否定論」がまん延し、災害時にはSNSなどで「朝鮮人犯罪」に関わるデマが繰り返され、在日朝鮮人に対する差別や暴言、暴行事件など、100年前を想起させる事態が後を絶たないのが日本社会の現状です。

関東大震災時に虐殺された犠牲者を追悼し、虐殺の真相究明を進め、政府などの責任を追及する必要があります。そして、「多文化共生」が強調される社会のなか、在日韓国・朝鮮人に対する差別と偏見、ヘイトスピーチ・クライムを根絶するための運動が求められています。

日朝県民会議が朝鮮人虐殺の歴史を学ぶ学習会を開く

日朝長野県民会議は8月26日、日朝問題学習会では、朝鮮大学校で在日朝鮮人史を専攻する講師、鄭永寿(チョン・ヨンス)さんを講師に、関東大震災での朝鮮人虐殺の真相、日本による朝鮮半島植民地支配による朝鮮人に対する加害と抑圧の歴史について講演していただきました。学習会には約50人が参加。

鄭永寿さんは講演の中で、関東大震災の時にも朝鮮人への偏見、差別から大虐殺が起きた歴史に学ばず、いまだに歴史修正主義がはびこる日本社会だと指摘。関東大震災100年の現実を克服するために、日本政府には、被害者側に立証責任を負わせてきた態度を改め、加害側から真相を徹底的に調査、発表すること、また、「不逞」「騒擾」とみなし弾圧してきた運動の責任追及の声に真摯に向き合うことで、虐殺の罪を認め責任を果たすことが求められていると強調しました。

松本市で開いた日朝問題学習会

講師の鄭永寿(チョン・ヨンス)さん

9月1日には東京で追悼行事が開かれる

レイシスト集団「そよ風」が虐殺否定の式典開き市民が強く抗議

関東大震災から100年が経過した9月1日、東京都立横網町公園内にある朝鮮人犠牲者追悼碑前で、「東京同胞追悼会」(主催=総聯東京都本部、東京朝鮮人強制連行真相調査団)が執り行われた。追悼会には、朝鮮総聯中央本部の許宗萬議長をはじめとする活動家、在日朝鮮人、日本市民など約500人が参加しました。

昼過ぎに始まった追悼会では、犠牲者に捧げる「アリラン」の独唱に続き、参加者全員が犠牲者を偲び黙とうをささげました。

また、同日夜には、東京都中央区の銀座ブロッサムで、関東大震災100年朝鮮人虐殺犠牲者追悼と責任追及の行動実行委員会が主催する集会が開かれ、約800人が集まりました。

9月1日の夕刻には、レイシスト(人種差別主義者)集団の「そよ風」が横網公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で式典を計画しました。「そよ風」は、加害・侵略の歴史を否定し、民族排外謝儀的な考えを持つグループで、関東大震災時の朝鮮人虐殺もなかったと強弁しています。そのような集団が朝鮮人犠牲者追悼碑の前で「式典」を行うことは、虐殺された朝鮮人への冒涜であり、歴史をねじ曲げようとする行為です。「そよ風」の式典に抗議する市民約300人は会場に座り込み、レイシスト集団に抗議のシュプレヒコールを行いました。結果として、「そよ風」は、追悼碑前での「式典」を断念し、公園の別の場所で実施しました。歴史修正主義、民族排外主義を許さない運動を求められています。

墨田区の横網公園で行われた追悼式典

レイシスト集団「そよ風」に抗議する市民

横網公園の朝鮮人犠牲者追悼碑には多くの献花が。

墨田区の荒川沿いに建立されている追悼碑

9月2日には国際シンポジウムが開かれ350人が参加

翌日、9月2日には、「関東大震災100年朝鮮人虐殺犠牲者追悼と責任追及の行動」実行委員会が主催する国際シンポジウム「関東大震災朝鮮人虐殺の責任と課題」が東京・千代田区の連合会館で行われました。場内は、日本各地から集まった在日朝鮮人や日本市民など約350人でいっぱいになりました。

主催者を代表し、元法務大臣の平岡秀夫さん(弁護士)があいさつ。平岡さんは、100年前の大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者らに哀悼の意を示したうえで、昨今、官房長官が会見の場で「事実関係を把握する記録は見当たらない」と述べるなど朝鮮人虐殺に関する日本政府の対応を非難。「今を生きる日本人の中には個人的に責任を負うべき人はいないかもしれない。しかし、朝鮮人虐殺の事実を明らかにし、その明らかにされた事実に応じて、謝罪など必要な対応をする責任がある」として、今を生きる日本の市民らの責務について問いかけました。

国際シンポジウムに先立ち、コーディネーターの佐野通夫・東京純心大教授が発言。佐野教授は、「関東大震災時の戒厳令をもって在日朝鮮人を『討伐すべき敵』としての『不逞鮮人』とみなす公的なヘイトが、民衆のヘイト感情を掻き立て官民一体のジェノサイドが起きた。またその背景である日本の植民地主義の清算がなされていないことを見逃してはいけない。国家と社会による歴史の忘却、責任からの逃避が戦後日本社会における朝鮮人差別を形作ったのではないか」と問題提起しました。

報告者として、明治学院大の鄭栄桓教授(「関東大震災時の朝鮮人虐殺と『否定論』の諸問題」)、朝鮮大学校の鄭永寿講師(「在日朝鮮人運動による関東大震災朝鮮人虐殺の真相究明・責任追及」)、東京造形大の前田朗名誉教授(「国際法から見た関東大震災ジェノサイド」)が登壇したほか、韓国から淑明女子大の金應教教授(「百年間の証言―韓日の作家と市民がみた関東大震災と朝鮮人虐殺―」)が、米国からイースタン・イリノイ大のリジンヒ教授(『米国における関東虐殺否定論とジェノサイドへの対応』)が登壇しました。

その後、報告者5人による相互討論がありました。

9月2日に開かれた国際シンポジウム

800人が参加した9月1日の追悼集会

10月15日に長野市で「市民集会・脱原発2023㏌信州」を開きます

大島堅一さん(龍谷大学教授)が京都から来場して講演

「原発に未来はあるか?『無責任の構造』を超えて原発ゼロ社会へ」

福島第一原発事故から12年以上が経過しました。いまだに「原子力緊急事態宣言」は解除できない状態が続いています。廃炉の目途も明確になっていません。しかし、政府は原発推進方針に明確に舵を切り、重大事故を起こした福島第一原発と同型の原発再稼働をすすめ、「原則40年最長60年」ルールを撤廃し、世界でも前例のない60年超への運転期間延長を可能とする法改定を強行しました。さらに原子力基本法を改定し、原子力産業基盤の維持・強化、原子力投資環境の整備、使用済み核燃料の再処理・貯蔵の推進などを国の責務としています。ウクライナ危機を契機に、エネルギー不足により電力需要が逼迫するかの如く原発回帰の必要性を喧伝しています。

福島第一原発事故の反省もなく、原発回帰政策を突き進む岸田政権のエネルギー政策に、明確なNO!を突き付けていかなくてはなりません。

市民団体や県原水禁などでつくる実行委員会は、市民集会・脱原発2023in信州を開きます。集会には、「原子力市民委員会」の座長であり、龍谷大学教授の大島堅一さんを講師にお招きします。大島さんは、原発のコスト問題の調査・研究が特に有名で、経済面、コスト面からもエネルギー政策において原発を選択する余地はないと強調されています。原発回帰政策に突き進む政府の政策の問題点、ドイツでの脱原発社会の実現などの点について講演で話していただきます。

どなたでも参加できます。Zoomでの視聴も可能です。お誘い合ってご参加ください。

◆講演「原発に未来はあるか?『無責任の構造』を超えて原発ゼロ社会へ」

講師 大島堅一氏(原子力市民委員会座長/龍谷大学教授)

おおしま・けんいち 1967年生まれ。専門は、環境経済学・環境政策学。立命館大学国際関係学部教授を経て、2017年から龍谷大学政策学部教授。2018年から原子力市民委員会座長。この他、大阪府特別参与、日本環境会議代表理事なども歴任。主著に『炭素排出ゼロ時代の地域分散型エネルギー』(日本評論社、2021年)、『原発のコスト』(岩波書店、2011年、大佛次郎論壇賞受賞)など。

◆市民運動の現場から活動報告

①柏崎刈羽原発運転差し止め裁判の現状

②311福島・子ども甲状腺がん裁判の現状

 

4年ぶりに地区労組会議対抗のソフトボール大会を開く

9チーム130人が参加 塩尻地区労組会議が優勝

終了後には、焼肉交流会で地区を越えて親睦を深める

県労組会議は8月19日、松本市・あずさ運動公園で19回目となる地区労組会議対抗親善ソフトボール大会を開きました。コロナ禍のため3年間中止が続き、4年ぶりに実施し、9チーム約130人が参加して熱戦を繰り広げました。トーナメント方式で行われた大会は、塩尻地区労組会議チームが優勝、準優勝は松本地区労組会議チームでした。

大会の終了後には、炎天下の中、テントを張って焼肉交流会を開きました。各地区労組会議から大会の感想などについてアピールがあり、参加者は地区を越えて交流を深めました。

塩尻地区労組会議がトーナメント戦勝ち抜き優勝

青空の下、朝7時30分から開会式

開会式で選手宣誓する松本地区労組会議の代表

親善だけど真剣に試合を実施

20点以上の大差がつく試合も

大橋孝宏・県労組会議副議長から優勝した塩尻地区労組会議チームにトロフィーを手渡す

大会後には炎天下でテントを張って焼肉交流会

焼きそばを上手に焼く小林誠・県労組会議幹事

松代大本営工事での朝鮮人犠牲者を追悼して

追悼碑を守る会が建碑28周年を記念する式典

松代大本営追悼碑を守る会は8月10日、長野市松代に建立している「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」の前で、大本営工事の際に犠牲となった朝鮮人労働者への追悼の意を表すための式典を開きました。日本人や朝鮮総聯、民団などの関係者約50人が参列しました。

冒頭、あいさつに立った追悼碑を守る会の表秀孝会長は、「追悼碑の裏面には私たちの決意が刻み込まれている。亡くなられた朝鮮人犠牲者を追悼し『過去の戦争、侵略。加害を深く反省し、友好親善、恒久平和を祈念してこの日を建立する』と記されている。過酷な労働を強いられ無念と望郷の中で亡くなられた朝鮮半島出身のみなさまに哀悼の意を捧げる。石板に書かれた私たちの決意は28年たっても実現していない。戦える国に傾斜していく政府の姿勢がますます強まるなか、このような動きを止めることができない悔しさを心に刻んでいる。国家権力の暴力がむき出しになる戦争には正義はない。力による平和は存在しないことを私たちは先の大戦から学び取ったはずだ。このような時だからこそ、歴史を直視し、歴史に学び、再び誤まることのないように決意したい。今こそ人と人との結びつきを強めるときだ。民衆の連帯の力を信じたい。善隣友好と平和創造に向けて皆さまとともに取り組みたい」とあいさつしました。

来賓として、駐新潟大韓民国総領事の権相熙(クォン・サンヒ)氏が「過去の誤った歴史を正しく認識し、真に反省し、過ちを繰り返さないようにすることが私たちの責務。しかし、過去のことだけにこだわっていると前に進めない。韓日両国は正しい歴史認識の下、未来に向かって手を取り合って進むべき」などとあいさつしました。

長野市長の荻原健司氏、衆参国会議員の若林健太氏、篠原孝氏、杉尾秀哉氏、羽田次郎氏からメッセージが寄せられたことが紹介されました。

日朝県民会議の中山良一・会長代行、朝鮮総聯県本部の李明宏(リ・ミョンガン)・委員長、民団県地方本部の金秀男(キム・スーナン)・副団長がそれぞれ追悼の言葉を述べました。

式典の最後には、参列者全員で菊の花を献花しました。

表秀孝・追悼碑を守る会会長

駐新潟大韓民国総領事の権相熙(クォン・サンヒ)氏

式典の冒頭で犠牲者を追悼する黙とうを行った

参加者全員で献花

被爆体験の継承が今こそ求められている

原水禁県大会で広島で被爆した今井和子さんが体験談

被爆78周年の今年、広島へ原爆が投下された8月6日、長野市・県労働会館にZoom参加者も含めて約40人を集め、原水爆禁止長野県大会を開きました。

大会の冒頭、宇佐美正信・県原水禁代表委員があいさつ。岸田政権の原発回帰政策、核兵器禁止条約を批准せずアメリカの「核の傘」にとどまる対応を厳しく批判しました。

大会では、広島市が主催する平和記念式典をテレビ中継、原爆が投下された8時15分に黙とうをささげました。

アメリカ軍が原爆投下直後の広島や長崎の様子を撮影した映画フィルムを、今から約40年前、「10フィート運動」によってカンパを集めて買い取り、『にんげんをかえせ』という20分程度のドキュメンタリー映画が完成しました。原爆詩人・峠三吉の詩集のタイトルを冠したこの映画を県大会で上映しました。被爆直後の傷付いた人々の姿も映し出され、改めて原爆投下への怒りが会場にまん延しました。

その後、5歳前に広島市で被爆した長野市に住む今井和子さんが被爆体験を証言しました。

今井さんは「広島に原爆が投下された8月6日の8時ちょっと過ぎ、空襲警報があり防空壕に入ろうとしたら解除になったので、一安心していました。ところが、突然激しいピカッという閃光、それから下から突き上げるようなドーンという地響きと共に、グラグラ家が揺れて、物がバアーンと飛び散り、シャリシャリシャリとガラスの破片が飛んでいきました。まさにピカッドーンという衝撃で、今でも体の感覚として残っています。向かいの家の娘さんが下敷きになっているお父さんを『助けて、助けて』と叫んでいましたが、皆はもう自分のことで精一杯でした。その『助けて!』という悲鳴は今でも耳に残っています。その後避難場所に行くとき、背中が焼けただれた人とかが折り重なるように馬車に乗っていました。一番後ろにいた人の背中が真っ赤に焼けただれていて、その人の虚ろな目が強く記憶に残っています」と、原爆投下直後の様子を生々しく証言されました。また、今井さんは「被爆者の苦悩は2つある。一つは生涯続く健康不安。自分だけでなく子どもや孫、ひ孫にも影響が出るのではないかという不安。もう一つは生きていることの罪悪感。周りに助けを求めている人がたくさんいたにもかかわらず、助けてあげられなかったこと」と語りました。

原爆投下の8時15分に黙とう

被爆体験を語る今井和子さん

被爆二世の前座明司さんもあいさつ

広島市平和公園内にある原爆詩人・峠三吉の詩を彫った石碑

長野朝鮮初中級学校の生徒が松代大本営象山地下壕を見学

追悼碑を守る会が案内 - 追悼碑前で自らの学習発表も

長野朝鮮初中級学校(松本市)中級部(中学校)の1年生から3年生までの生徒11人は7月20日、松代大本営象山地下壕の見学と学習発表を行いました。

生徒たちは、地下壕見学の前に、市民団体が運営する「もうひとつの歴史館・松代展示室」を訪問。なぜ松代に大本営の移転が計画されたのか、朝鮮人労働者の労働・生活の実態はどうだったのか、スタッフの説明をメモを取りながら熱心に聞いていました。

追悼碑の前では、地下壕工事の犠牲者を慰霊し、加害・侵略の歴史の真相を明らかにする目的で追悼碑がつくられた経過を、守る会役員が説明しました。また、長野市が朝鮮人強制連行の歴史的事実をあいまいにした説明看板の問題についても報告されました。その後、実際に地下壕内に入り、過酷な掘削工事の実態を見学しました。

見学が終了後、生徒たちが事前に松代大本営について学んできたことを模造紙に書いて、追悼碑の前で学習発表を行いました。

もうひとつの歴史館でスタッフの説明を受ける

象山地下壕の中で

事前学習の成果を追悼碑前で発表

みんなで記念撮影

被爆78周年原水禁世界大会(長崎)~長野県代表団報告~

原水爆禁止長野県協議会は、今年も各単産・各地区へ呼びかけ、8月7日(月)・8日(火)・9日(水)に開催される「被爆78周年原水爆禁止世界大会・長崎大会」に参加することになりました。

飛行機の機内から撮影

長崎空港からリムジンバスで会場へ。海が綺麗。

開会行事会場へ到着

長野県からは、自治労、国労、上伊那地区、松本地区、長野地区、長野県原水禁から8人が代表で参加しました。残念なことに、大会会場に到着するなり、台風6号の接近により3日目の行事の全てが中止となったと告げられました。それを受け、2日目で帰る決定をした団も多くありました。我が団もどうするべきか団長と事務局で相談しました。ちょうど少し前に、沖縄を直撃した台風の影響で観光客がしばらくホテルに缶詰めになったという報道もあり、帰れなくなったら大変と、さまざまなことを考えました。帰りの飛行機が欠航になることを想定し、航空券を頼んでいた旅行会社と連絡を密に取り、結果、欠航となっていないけれどキャンセル料が発生しない災害認定となったことで、大会の開会行事が開催中にも関わらず、長崎駅に走りました。JRのみどりの窓口は、まだそれ程混んでいる様子はなく、なんとか8人分の新幹線の切符が取れました。それにより、長野県代表団は2日目の行事はしっかりと参加し、3日目の朝8:44の新幹線で帰郷することに決まりました。新幹線での長時間の移動で大変だろうという心配もありましたが、帰れなくなることを考えれば、それも致し方ないことでした。

 

8月7日(1日目)

高校生平和大使の皆さん

真剣なまなざしの参加者たち

長崎市・ブリックホールにおいて「被爆78周年原水爆禁止世界大会・長崎大会」開会行事が行われ、約800人が参加しました。開会行事では、高校生たちがオンラインでとりくんだメッセージ動画「高校生平和アクション2020」が上映されました。全国から集まった第26代高校生平和大使・高校生1万人署名活動のメンバーのみなさんが登壇、活動報告を行いました。コロナ禍で中断していた海外派遣について、8月下旬に予定されていることも報告。あわせて合唱が披露されました。高校生平和大使の「微力だけど無力じゃない」が耳の残り、大人の私たちも見習わなければと思いました。

行事終了後、全員で路面電車でホテルへ移動し、夕食会場であらためて、それぞれの自己紹介をし、帰りの予定が変更になったことを共有しました。

路面電車から見た街の様子

 

8月8日(2日目)

2日目は、それぞれの希望する分科会へ参加し、午後は唯一の自由時間だったので、思い思いに過ごしました。夕食で参加者の感想や報告を聴いたところ、ほとんどが原爆資料館と平和公園を訪れていました。台風の影響で湿気を含んだ風が強かったのですが、夕方になって少し雨に降られたくらいで、かろうじて天候に恵まれました。

第1分科会の様子

第4分科会の様子

第5、第6分科会会場

第6分科会の様子

 

 
 

昼食に入ったお店で、同じ第4分科会に参加していた女性お二人と出くわしました。そのうちのお一人が長崎市在住の被ばく2世の方で、「現在、長崎原爆資料館の展示に関して歴史修正主義者たちから横やりが入り、資料館の加害の展示を変えようとする動きがみられます。長崎になぜ原爆が投下されるようになったのか、それまでの戦争の加害の部分を含めて展示していかないと、世界中から訪れる、特にアジアの人々に共感や相互理解を得るのは厳しいと思っています。加害展示を含めて資料館の展示をするように市民の会が発足したのでそちらの活動に今、力を入れています。」とのことでした。本当に、そう思います。当事者の方がそう、加害の責任についてきちんと語っているのに、国は一体何をやっているのかと個人的に強い憤りを覚えました。他にも、当事者としての貴重なお話を聴くことができ、たまたま巡り合わせただけなのに、気さくに接していただいてとてもありがたく感じました。

長崎原爆資料館前

松本水道労組の皆さんで折った折り鶴を鳥羽さんが持参しました

 

 

8月9日(3日目)

朝8:00前に集合し早々に長崎を離れたため、8月9日11:02の原爆が投下された時間は、新幹線の中で、それぞれがスマホで平和記念式典のLIVE中継を見て、黙とうしました。やはり行進ができなかったのは少し心残りとなりましたが、何よりも無事に8人全員で熱中症もケガもなく長野に帰り着くことができたことが一番でした。とてもいい仲間と長崎の学びの旅に参加できたことに感謝です。3日間あらためてありがとうございました。

~参加者の感想~

・原水爆禁止世界大会に参加させていただき、核の恐ろしさと、その廃絶の必要性を改めて深く感じました。この会で、多くの方々が平和と非核のための熱意を持って一堂に集まっている様子にはとても感動しました。被爆された方の証言や、核とその影響に関する講演では多くの新しい学びを得ることができ、今まで自分が考えていなかったような範囲にまでその影響が及んでいる事を知りました。そして、私が特に心を打たれたのが、高校生平和大使による発表です。大使の皆さんは「ビリョクだけどムリョクじゃない」をスローガンに全国で署名活動をされています。高校生が平和のために真剣に活動する姿はとても頼もしく勇気をもらいました。私はこの大会に参加し核の問題に対して無関心でいることの危険性を改めて感じました。しかし、一人一人がどれだけの力を持っているのかも再認識できました。全国から集まった参加者のみなさんと共有した核廃絶への思いを胸にたとえ微力だとしても平和のための活動に参加し周囲の方々にもこの問題の重要性を伝えていきたいと思います。

・大会を通じて、改めて戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさを痛感しました。分科会で学んだ「被爆体験を、体感する」ことが、二度と核兵器を使用しないために大切なことだと思いました。大会を通じて沢山の人の思いに触れ、とても勉強になった2日間でした。

・団長はじめ、ご一緒した皆様大変お世話になり、ありがとうございました。熱量が一番高い今の気持ちを大切にアウトプットしていきたいと思います。

・いよいよ明日8/24汚染水海洋放出ですね。長崎大会に参加しなければ、ほとんど関心がなかったと思います。参加できてほんとうによかったと思います。この思いを少しでも多くの組合員等につなげていきたい、つなげる責任があると思います。

・初めて大会へ参加しましたが、改めて戦争や核の恐ろしさを痛感し、政府の原発推進へ向けた様々な施策にも改めて疑問を感じました。今大会で学んだこと感じたことは職場の仲間たちへ伝え、特に後輩たちへはこういった機会があれば積極的に参加してもらえるよう伝えていきたいと思います。私も今後、平和のための活動へは出来る限り参加していきたいと思います。

・「被爆体験者」ということばを初めて知り、行政の理不尽な対応に憤りを感じました。長野県で高校生平和大使活動がなぜ行われていないのか不思議に感じるとともに、残念に感じました。国は処理水(汚染水)の海洋放出を始め、事業遂行のためには都合よく法律を解釈、改正していることを学びました。そして、国民の声に耳を傾けない国の施策に対して、常に関心をもって対応していかなければいけないと感じました。

・長崎県のように子供の頃から核廃絶について学ぶ機会を作る必要性を感じました。長崎県から長野県まで鉄路で帰るという二度と経験できない機会をいただき感謝しています。

 

被爆78周年原水禁世界大会(広島)~長野県代表団報告~

8月4日から6日にかけて広島市で開催された原水爆禁止世界大会・広島大会に、長野県原水禁代表団として22人が参加しました。

今年はコロナ禍で中断されていた子ども代表団が復活し、県内在住の小学生から高校生の参加者6人(保護者同伴)が、子ども慰霊祭や、平和公園の慰霊碑フィールドワーク、広島で学んだことを新聞や劇で表現するワークショップに参加しました。

式典の準備がすすむ平和記念公園

いくつもの川が流れる広島の街

今も広島市内を走る「被爆電車」

8月4日(1日目)

初日、長野県代表団のメンバーは原爆資料館(広島平和記念資料館)の南側に集合して、大人参加者は折鶴平和行進・開会総会に参加し、親子参加者は原爆資料館を見学しました。広島市に滞在した3日間は連日天候にめぐまれましたが、高い気温と湿度が続くため熱中症にならないように気をつけながらの滞在になりました。

炎天下での折鶴平和行進

原爆資料館に入館するまでには長い行列ができ、各国から訪れた方々で混雑していました。14万人という数字ではなく、ひとりひとりの犠牲者がどんな人生を歩み、どんな最期を迎えたのかがクローズアップされた展示となっていました。さまざまな角度から「あの日、広島で起きたこと」を伝える展示となっており、滞在した一時間半では到底回り切れない内容でした。展示物の前に立ち止まり涙を流している方もいらっしゃいました。

夜の交流会では、自己紹介の際に、それぞれどんな思いで参加したか、今日の感想などを述べ合いました。子どもたちは大勢の大人の前で緊張しながらもがんばって話しました。若い世代の参加者からは「正直、観光目的で参加したところもあったけど、今日、被爆者の方からお話を伺えて来てよかったと思いました」と正直な感想がきかれ、実際に広島を訪れることの大切さが共有されました。

8月5日(2日目)

二日目は、大人参加者は希望する分科会に参加しました。親子参加者は、早朝から子ども慰霊祭に参列しました。全国各地から集まった子どもたちと一緒に黙祷を捧げました。各県の子ども代表団が順番にそれぞれ献花し折鶴を納めました。長野の子どもたちも持参した折鶴を納め献花し、子ども代表団の高橋さんが献詩を捧げました。

【長野原水禁子ども代表団・髙橋樹貴亜さんの献詩】

八月六日 八時十五分
たった一発の原子爆弾が十四万人の尊い命を奪いました。

私と同じ十代の若者の犠牲者も一万五千人以上にのぼりました。
亡くなられた若い皆様は、未来という夢と希望に満ちあふれ、胸を膨らませ青春を謳歌していたことでしょう。

夢を果たせなかったことを、同じ若者として、大変、胸が痛みます。
皆様が負った大きな大きな傷を和らげる唯一の方策は、悲惨な戦争を二度と引き起こしてはならないことです。

しかしながら、世界では、核使用をちらつかせ、自国主義、軍拡といった風潮になりつつあり、既に、悲惨な戦争が引き起こされていることは、誠に、残念で仕方がありません。

ただ、我々ができることは、唯一の被爆国として先人達が訴え続けた平和の尊さ、戦争の悲惨さを、しっかり受け継ぎ、平和に感謝し平和を守り、次の世代へ引き継いでいくことだと思います。

平和は、もたらされるものではなく、自ら作り上げるものだと思います。
どうか、皆様、私達を、天国から見守っていてください。

長野県代表団の子どもたち

 

平和公園内の慰霊碑を巡るフィールドワーク

慰霊祭終了後は、平和公園内に建立されている慰霊碑を被爆2世の上野さんに案内していただきながら、それぞれの慰霊碑やモニュメントの背景や歴史について伺いました。

公園内にはたくさんの慰霊碑がありました

平和公園がある場所には、もともとはいくつかの町があったそうで原爆の投下によって、壊滅し大勢の方々が亡くなったそうです。その方々の日々の営みがあった土地をそのまま踏むことはできないと、盛り土をして公園が造られたと教えていただきました。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑では、日本人だけでなく多くの朝鮮人の方が原爆で亡くなったこと、名前もわからない方も大勢いることを学びました。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で

平和の鐘の周囲には火傷の傷を癒すという蓮が茂っていました

原爆の子の像の周囲には世界中から集まった折鶴が

佐々木禎子さんの同級生らによる募金運動により作られた原爆の子の像

禎子さんが折鶴を折った薬包紙を知らない子どもたちに説明

平和の灯

広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)

一年に一度、死没者名簿を守るため天日干しされるという

国立広島原爆死没者追悼平和祈念舘

 

ダイ・イン

フィールドワークの終盤、原爆ドームに集合した子どもたちがダイ・インを行いました。 ※ダイ・イン(die in)参加者が死者になりきることで行われる抗議の一形式。

 

被爆2世の方のおはなし

午前の部の最後には、ご家族を原爆で亡くした被爆2世の女性の方からお話を伺いました。原爆投下によって、コミュニティが丸ごと破壊され、身近な家族が突然いなくなってしまったこと、年月が経過しても大切な家族を亡くした悲しみは癒えないことをお話くださいました。子どもたちは静かに耳を傾けていました。

被爆2世の方のおはなし

 

大学生企画ワークショップ

午後の部では、子どもたちは高校生平和大使を経験した大学生が中心になって企画されたワークショップに参加しました。それぞれが見て感じたことを劇や新聞や絵で表現するという内容でした。

大学生たちからそれぞれの企画の魅力についてアピール

子どもたち悩みながら決めました

長野県から参加した子どもたちは新聞作りとうちわに絵を描くワークショップを選びました。長崎県から参加している高校生のスタッフさんのサポートを受けながら、原爆ドームや慰霊碑や折鶴などを描いていました。普段、関わることの少ない大学生や高校生とのやりとりも子どもたちにはいい経験になったようでした。

夜の交流会では、子どもたちも打ち解けてきて、大人たちに質問したり、おしゃべりしたりして楽しい時間を過ごしていました。

ライトアップされる京橋

8月6日(3日目)

日程の最終日は、代表団全員で、朝から原爆ドームに向かいました。一年で最も広島市が混雑する日でもあり、路面電車での移動が心配されましたが、無事に8時前に原爆ドームにたどり着けました。

原爆投下時刻に黙とうする長野県代表団

原爆ドーム周辺は、前日、前々日と打って変わってデモ隊や機動隊が並んで喧騒に包まれていました。子どもたちも緊張した面持ちでしたが、原爆ドーム前のスペースに、長野県代表団全員が集まることができました。原爆投下の時刻にあわせて黙祷を捧げました。地元のテレビ局にも取材され、子どもたちはしっかりと受け答えしていました。

広島市立こども文化科学館

その後、大人参加者は閉会集会に参加しているあいだ、親子参加者は「こども文化科学館」を見学しました。子どもたちは、長野と異なる湿度の高い広島の気候にぐったりする日々が続いていましたが、科学館では思い思いに展示物に触れて遊んだり、走り回ったりして楽しんでいました。

最後に、原爆ドームに再度集合して相生橋から集合写真を撮って解散しました。
酷暑の広島での日程でしたが、ひとりも体調不良等になることなく終えられました。

来年度以降も実施予定です。
ぜひご参加ください。

 

【参加者の感想】

・7年前、小学校4年生の頃、原爆資料館や原爆ドームを訪問しましたが、まだ、小学生であったことと、年数も経過し、記憶が薄らいでいたことから、今回、改めて、原爆投下日に広島を訪問し、原爆、戦争を考えたいと思い、参加させていただきました。本当に密度の濃い3日間で、言葉では表せられないような気持になって、長野県に戻ってきました。(高校生)

・原爆ドームの前でのダイ・インでは、ここに78年前、原爆が投下されたんだ。自分は今、被爆された方と同じ場所に倒れている。何とも言えない気持ちにかられました。水を求めて、原爆ドーム前の川は人であふれかえり、多くの死体が転がり、服は燃え、目はたれ落ち、そこに自分は今、いる。なぜ、何の罪もない一般市民までも、そんな仕打ちにあわなければならないのかと。。
改めて、平和の尊さ、戦争の愚かさを感じ、こんな戦争、2度と繰り返してはならないと、強く、心に刻まれました。(高校生)

・広島平和記念資料館にいって原爆が落とされた町の風景や亡くなった人たちの物や原爆がどのくらいデカいのかとかも知れたし亡くなった人の名前や顔とかもあって小さい子から大人まで皆亡くなってしまったということが分かりました。やっぱり原爆は怖いなと思いました。(小学生)

・いつか平和記念公園・原爆ドームは行かないといけないと思っていましたが、大事な日に広島に行けたことはとても貴重な経験となりました。とても勉強になりました。(20代)

・原爆の投下された地で、その恐ろしさや悲惨さを目の当たりにしました。とても貴重な機会で多くのことを学ぶことができ、有意義な時間でした。(20代)

・3日間、大会に参加し、核について少しばかり自分には無関係と思っていましたが、それが身近な脅威であると感じました。そういった危機感を感じることができ、本大会は私にとって充実したものとなりました。(20代)

・漠然としていた「戦争・原爆」への印象が覆されました。今までに、戦争や原爆、平和について学ぶ機会は多々ありましたが、実際に当時の物を見て体感するのは高校生の時に訪問した沖縄県への修学旅行以来でした。改めて、学び・体感したからこそ、二度とこのような出来事を起こしてはいけない、忘れてはいけないと強く感じました。現在、世界で起こっている戦争。自分の置かれている環境が恵まれており、同じ時代の出来事ではないのではと錯覚してしまいます。「戦争」について、別世界の話だと目を背けるのではなく自分も学び体験したからこそ、何かできることはないのかともどかしさを感じました。(20代)

・当時の様子を聴く中で「本当は思い出したくないし、話したくないが、このような出来事があったことを知ってもらうために今ここにいる。」と言う話があり、当時を振り返り「戦争・平和」を世界へ発信しなければいけないと感じる反面、訴えることへの苦悩に何とも言えない感情を抱きました。(20代)

・とっても良かったという表現が間違いかもしれませんが良い経験になりました。(40代)

・原爆が落とされた日と同じような暑さだったこと、8月6日という日の中心に自分たちがいたこと、その日に広島に行っていないと感じられない感情を感じることができました。(50代)

・子供たちと参加させていただきありがとうございました。資料館など見学をして子供たちも原爆がいかに危険なものか学ぶことができました。(40代)

・真夏の太陽が照りつける中、原爆資料館を始め、被爆2世の方々によるフィールドワーク、子供慰霊祭、グループワーク等、大変密度の濃い3日間でした。改めて、戦争の怖さ、原爆の恐ろしさを感じました。(50代)

【参加したことがない方へのメッセージ】

・普段はあまり原爆等について考えないかもしれませんが、そういう人にこそ是非参加していただきたいと思います。(20代)

・良い経験になるのでぜひ行ってみてもらいたい。8月6日に行くことの意味を体感してほしい。(40代)

・一度、広島に来てみてください。そして、今の平和の有難さ尊さを実感しましょう!(50代)

・広島に行くことで何かを感じることができます。その何かは人それぞれですが、広島に行くことで何かを感じることは、私が約束します。(松田元伸代表団団長)