「門前払い」で憲法判断を回避する不当な決定
原告団・弁護団が抗議の声明を発表
集団的自衛権等を認めた新安保法制が、憲法前文、憲法9条などに違反すると司法判断を求める信州安保法制違憲訴訟は、長野地裁、東京高裁で原告の訴えを不当にも退ける判決が出され、原告団は最高裁に対し上告していましたが、4月25日、最高裁は上告棄却、不受理決定をしました。
いわゆる三行半の定型文での棄却であり、許し難い不当決定です。
原告団・弁護団は直ちに抗議の声明を発表しました。
県原水禁・県労組会議は、2月22日、長野市内で「能登半島現地からの報告-地震・被災・原発」というテーマで、石川県珠洲市在住の北野進氏による報告会を開催しました。北野進氏は現地からオンラインで参加しました。当日の北野氏による報告と質疑応答の全文文字起こしと講演録画のYouTubeリンクをご紹介します。ご活用ください。
司会(喜多):みなさん、こんにちは。平日の雪降る中にもかかわらず本当に多くの皆さんにお集まりいただいてありがとうございます。ただいまから報告会「能登半島現地からの報告-地震・被災・原発」と題して、能登、珠洲に在住されていて「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長でもある北野進さんの報告会を始めさせていただきます。今日の報告会、1時間程度Zoomで北野さんに報告をしていただき、そのあと30分程度質疑応答の時間をとっておりますので、質問、意見等があれば自由に出してもらっていいかと思います。今日の主催は県原水禁と県労組会議ですが、広く公開して報告会をやろうということで、脱原発共同学習会の皆さんや、あったかねこの会の皆さんなど大勢の方にも参加していただいています。どうもありがとうございます。
それでは早速報告会を始めていきたいと思いますが、北野さんは、珠洲原発反対運動から始まり、県会議員、市会議員をやって、今は「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長をやられています。私自身も、実は十数年前に石川県平和運動センターにいらしたときに一緒に活動をした仲間でもあります。今日は北野さん自身も被災はされておられますが、能登半島全体を駆け巡って、原発問題について調査もされているようでありますので、そういう話も含めてお聞きしたいと思います。北野さん、報告をよろしくお願いします。
■講演録画(Zoom)もご視聴いただけます
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北野:皆さんこんにちは。珠洲市の北野と申します。今日は貴重な機会をいただきましてどうもありがとうございます。
元日に起こりました能登半島地震で、皆さんご承知の通り本当に大変な被害があり、特に珠洲市、輪島市は地域壊滅といった状況になっています。こうした中で全国の皆さんから本当に人的物的な大変なご支援をいただいております。先日は労組会議のほうから、宇佐美議長、喜多事務局長がわざわざ能登、石川、金沢のほうまでお見えいただいて義援金のほう、頂戴しております。本当にありがとうございます。
それでは早速ですが画面共有させていただきます。
能登半島現地からの報告として話をさせていただきたいと思います。今日は大体こんな形で、限られた時間ですがお話させて頂きたいと思っています。まず珠洲に原発がなくてよかったということ、珠洲の原発の反対運動についてもこの機会ですので少しお話させていただきたいと思いますし、その中でまた地震の問題、地震との関係についてもお話させていただきます。そして今まさに志賀原発の問題があります。この志賀原発の問題についても活断層の問題、また避難計画の問題の観点からお話させていただき、最後、今の規制委員会の問題点についても触れていきたいと思っています。
まず、奥能登の地震に至る前、3年前から珠洲のほう、群発地震に悩まされてきました。そうした中で、ここがかつての珠洲原発予定地、高屋になります。(図中央右)そしてここが寺家、高屋が関西電力の予定地、寺家が中部電力の予定地ということになりますが、まさに珠洲原発予定地地形の高屋は群発地震のその中にあるということです。そんな中で今回の能登半島地震ということになりましたが、一気に広がって珠洲も輪島も見えなくなるほど。
実は今回の能登半島地震の最初に動き始めた震央は高屋のすぐ裏の山のあたり、ここから動き始めて百五十キロの大きな断層が動いた。
寺家と高屋が今どうなっているのか。地震が起きる前の寺家の予定地。きれいな海が広がっていて、入り江の奥が炉心の予定地。
地震後、炉心予定地のあたりが隆起して海のほうに陸域が広がっている。左側の沖のほうへ出ていく岩場も陸地へつながってきている。
原発予定地のなか、珠洲で有名なランプの宿の写真。地震後、宿の前の岩場が大きく広がっている。予定地に隣接する南側の寺家漁港。防波堤を見るとわかるが、一メートルほど確実に隆起している。陸域も広がっている。もし寺家に原発があったら一メートルの隆起には耐えられない。
高屋について。調査予定地の写真。写真の向きは逆だが左の写真奥のテトラポットの前を写したものが右の写真。岩場が大きく広がっている。かつて原発計画があった当時はよく高屋に足を運んでいたが、高屋の風景が大きく変わってしまっていることに本当に驚いている。
予定地の中にある漁港の防波堤の写真。自分の身長より高く二メートルは隆起している。
左上は高屋の漁港。大きく地割れ、陥没がある。左下は高屋の反対方向の道路。直径四メートルあるような岩がいくつも落ちてきて道路を塞いでいる。右上の白い建物は関西電力が撤退するときに地元に手切れ金という形で寄付した、秋祭りの切子をしまう収納庫。その裏山も大きく崩れて、建物の前の道路も亀裂が走っている。
このようなところにかつて、たくさんの電力会社が原発を計画していた。
海域のほうへ陸地が広がっているものを紹介したが当然陸の部分も併せて隆起しており、そんなところへ原発を立てたらとんでもないことになっていたというのは言うまでもない。原発の設計基準をはるかに上回る隆起がここにあった。
珠洲原発は三電力共同開発という全国でも異例のもの。関西電力は高屋を、中部電力は寺家を、北陸電力は志賀があるため地元の電力会社として様々な調整役という役割分担になっていた。当面は百万キロワット級二基を建設すると国の企画に盛り込まれていたが、一基ずつ作って終わりというわけではなく将来的には一千キロワット構想なども語られていた。
そこに至るまでに様々な動きがあったが、計画が公になったのは1975年。市議会のほうに原発が出来るかどうか調査してくれという申し出があったことが発端。地元から誘致、本来は電力会社が地元に立地させてくださいと来るわけだが、珠洲の場合は地元で是非作ってくださいと誘致していく、当時は珠洲方式と呼ばれていた。
電力会社にとっては地元の合意形成を図る一番難しいところが省かれるようなこと。誰が考えたのかは不明。
当時は、皆さんもご存知かと思うのですが、関西電力は、若狭に加えて和歌山県の方で日高日置川という予定地がありました。中部電力が浜岡に加えて芦浜がありました。ということで遠いこの能登半島の珠洲については、優先順位としては後回し、地元から誘致しているんだから、いざとなればいつでも作れるだろうと、そんな捉え方、位置づけもあったのだろうかなぁと思います。
そんななかで電力会社が地元からのラブコールに応えて始めたのが1989年。関西電力が高屋で実地可能性調査を行いたいとようやく動き始めた。89年の4月に市長選挙があり、調査の是非を巡っての選挙だった。自分も反対派で立候補し、ほかにも直前にもう一人原発反対を掲げた立候補者が出ました。それに対し原子力推進の市長が居た。
票を開けてみたら自分ともう一人の反対票を合わせたら現職の市長の原発推進票440票を上回る結果になった。
当時珠洲の中では原発反対の声をほとんど市民の皆さん上げられない雰囲気があり、市長も原発反対をいうものは市民ではないと豪語するようなそんな雰囲気があった。票をあけてみたら反原発票が過半数を上回る結果だった。各方面にインパクトがあったが、特に反対している人にとって、自分は原発に反対だけれど周りの人がきっと推進だろうと思っていたが、それが半分の人が自分と同じように反対の思いを持っていたと、そういうことが分かっただけでも非常に大きな選挙だったと思っている。
このような結果が出たため関西電力は調査にあたって慎重になるのかと思ったが、市長選の結果が出てから一か月もしないうちに、当初の予定通り高屋での調査をすると出てきた。これに対し反対運動が一気に広がっていった。
その後も市長選や県議選、市議選等、選挙で常に原発の反対賛成を巡り大きな選挙になっていくわけだが、我々も常に反対の民意を示してきた。併せて共有地運動なども展開して寺家、高屋、それぞれで事実上、用地買収は出来ないような状況に追い込んでいる。
そのような流れの中で2003年、電力会社は凍結という言葉を使っていたが、事実上、計画の白紙撤回ということになった。
ポイントになるところなのですが、関西電力が高屋で立地可能性調査を行う計画の図面。高屋の港の背後にある。ボーリングを掘ったりして強固な地盤、岩盤があることを確認するための調査なんだということで始めた取り組み。
ちなみに、今日お集まりの皆さん、ホントに何十年も原発に反対されてきた方が多いかと思います。
この珠洲の原発でこのような動きがあった当時、電力会社は原発を作る土地についてどういう条件が必要なのか、三つの条件を言っていた。当時は強固な地盤、広大な敷地、豊富な冷却水があるところが原発を作るのにいい土地と。特に、強固な岩盤があるか確認すればどこにでも作れると。周囲の、いま問題になっている活断層の話は一言もしたことがない。
これに対し私たちは市長選挙のあと高屋の現地に毎日駆けつけ、三十日間の阻止行動を行った。しかし皆仕事がありそれを放りだすわけにもいかないため一週間の阻止行動で高屋に駆け付けたが、これはいつまで続くかわからないと思ったため、市長に対し、こういう調査を辞めさせろと関電に言えと抗議するため市役所に市長に面会を求めて行った。だがその時に自分たちの目の前にいた市長が途中で逃げ出してしまった。関西電力にもう一度話をしてみると逃げていったため、私たちは四十日間、市役所で座り込みをした。午前中は高屋で阻止行動、昼からは夜を含めて市役所で寝泊まりするという状況になった。
当然、市役所(三階の市長室がある廊下一本挟んだ向かいの会議室)に座り込み(占拠)していたわけで、常識的に言えば市役所の庁舎管理規程違反であり機動隊がいつ入って排除されてもおかしくない状況だった。結果的には四十日間排除されずにやり通すことが出来た。そこで一つ大きなポイントとなったのは地元を含めて、県内では連日、珠洲の原発について報道されていたこともあり、いわゆる県民世論的には私たちの取り組みに対して支持の声がたくさんあった。市長が逃げ出すのもけしからんし、関西電力が民意を無視して調査をしようというのもけしからんと。そういう雰囲気がかなりあった。
結果的にこの三十日間の阻止行動、四十日間の座り込みというなかで、関西電力は調査を中断せざるを得なくなった。
以後この調査がいつ再開されるのか、私たちは阻止をして計画を白紙撤回に持ち込めるのかというところが大きな焦点になっていく。
この阻止行動のあと、その二年後には統一自治体選挙があり私は県議会議員になり、そして市会議員の選挙も当時反対の議員が一人だったが四人に増やし、といったこともでき、そのような中で1993年(四年後)の市長選挙があり、私たちにとってはなんとしても今度こそ市長をとって計画を白紙撤回させようと。対する原子力推進側のほうはなんとしても圧勝して高屋での調査を再開するぞと。このような珠洲の原発の行方を左右する市長選挙をむかえた。私たちの反対側の候補者の出馬表明を93年二月一日に行った。直後、二月七日に能登半島沖地震が発生した。今の群発地震より若干、沖合の北のほうになるが、マグニチュード6.6で被害は珠洲に集中した。
震度は輪島で震度5、金沢で震度4で、当時は能登の震度計は輪島に一つしかなかったため珠洲市は不明。だが被害は珠洲市の集中している。今でいう震度6弱~6強の揺れだったと思われる。
私も選挙の準備で走り回ったのち夜、家に帰ってきた直後に大きな揺れにあい、自分の家もつぶれるかなあと思うほどの揺れだった。
こうした中で当然市長選挙は、大きな地震の起こる珠洲市に原発なんてとんでもないと私たちは主張しますし、それに対して電力会社側、あるいは国、県は何をしたか。地震が起こったんだから一度活断層があるのかどうなのか、どういう状況なのか調査してみましょう、なんていうことを言うわけはない。
国のパンフレットには地震がきたって大丈夫と書いてあり、配布された折込チラシなどには原発は万全の地震対策がとられています。津波対策は万全です、などと書いてある。これらは普段から週一で回ってくるが、選挙中は毎日一枚、多い時には毎日二、三枚。原発推進の今では到底配布できないような内容のチラシやパンフレットが山のように入っていた。
ろくに調査もせずに安全だと安全キャンペーンをはること自体けしからんと。安全軽視の電力会社の体質の現れだなどと批判をすることは簡単なことであり当然その通りだが、能登半島地震の起こった1993年の七月に、志賀原発の一号機が営業を開始している。これは設置許可申請書に添付されていたもの。当時、北電含めて国、地震学者も含めて、能登半島の周辺、断層についてこの程度しか把握していなかった。珠洲の沖合には活断層はない。志賀原発周辺は短く少なく、これが当時の知見だった。まさに関西電力、中部電力にしても大きな地震は来ないのだと頭から思い込んでいた。これらは珠洲だけでなく若狭も福島も含めて原発が出来ていたが、当時はこの程度の知見で日本中の原発は作られていた。
珠洲の選挙の話に戻るが、地震が大きな争点になるなかで結果的に、私たちが支持した反対派の樫田準一郎さんは958票差で負けてしまったのだが、投票者数が17,501票に対し推進派の林幹人市長は9,199票、樫田準一郎さんは8,241票、無効票は88票で計17,517票なのだが、それらを合わせたところ総数が16票多いことが分かり、私たちは開票所に駆け付け、不正選挙だと抗議をした。その他にも票が次から次へと変わる状況があり、私たちは県の??に選挙のことを訴えて、さらに最高裁、不正選挙の究明の戦いになっていく。
高裁の時点で私たちは選挙無効を勝ち取った。判決の理由としては私たちは不正選挙だと、偽造投票用紙の混入や正規投票の抜き取りなど、不正行為がたくさんあったんだと主張した。
これに対して高裁は選挙事務がお粗末であるとし、選挙を無効にした。これは私たちにとっては事務のお粗末さだけでは説明しきれない、明らかに悪意がある。不正の意図がないとこんなことはありあえないと何点も指摘した。最高裁は引き続き高裁と同様に選挙無効の判決を出したが、最高裁の判決の中では選挙の事務全般にわたり疑いを抱かざるを得ない。不正があったと匂わせる判決まで踏み込んだ。原発立地をかけた選挙では、民主主義の根幹である選挙がここまで歪められるんだと改めて確認させていただきたい。
珠洲だけこんな異常なことがあったのかというと、決してそうではないと思っている。最近の原発を巡る様々な議論は上品な感じがするが、あの当時は法律に照らしてもありえないだろうということが珠洲に限らず(福井のほうでも高浜の森山助役の話があったり)、当たり前のように原発立地の地域では展開されてきたと思っています。不正なり反対派に対する誹謗中傷のレベルに留まらず、私自身も夜道を一人で歩くのは気を付けなければならないと県会議員をやっている当時は注意しながらやってきていた。そういった状況の中、今の原発は出来ている。
珠洲の反対運動に戻るが、やり直し選挙ということになったが、残念ながら私たちは負けてしまった。やり直し選挙でも当時の助役が選挙違反で逮捕され、開票翌日には市役所が家宅捜索されるという、珠洲市にとっては恥の上塗りになるようなことがあった。結果的には負けてしまったが、その後も私たちは選挙のたびに原発反対の民意を示していくという反原発選挙を闘い続けてきました。
そんな中で2003年、12月5日電力三社は撤退を表明。電力側は撤退の理由として電力市場の自由が進み始めたことも一つあり、三電力の共同開発としてスタートしたが、自由化の中で三電力それぞれがライバル会社になり、電力会社が手をつないで仲良くやる時代は終わったといことが一つの象徴であった。電力需要が低迷しているなど言っているが、一番は地元事情、反対運動が厳しくて立地の目途が立たなくなったことが一番大きいと思っている。
私たちから見ての勝因、阻止できた、28年あまりに及ぶこの期間の中で大きなポイントになったのが1994年の知事選挙がある。当時国政のほうで細川政権の頃で、いわゆる、国政の非自民の政権、壇上の中で石川もその構図の中での知事選挙が行われ、私たちも珠洲の反対派、反対の市民グループも非自民側の谷本知事の応援をしました。この谷本知事が選挙で公約を珠洲市における原子力発電所立地については現状では困難と認識し、今後については住民合意を最大限尊重すると掲げた。結果的に1994年から2003年電力撤退までこの公約は一字一句変わらなかった。
現状では困難というのが一つポイントとしてある。89年に立地可能調査を中断に追い込んだが、いつ調査が再開されるかわからないという状況がずっと続いてきた。5年ほどそのような状態がずっと続き、私たちは明日にでも不意打ちをするように電力がまた出てくるのではないだろうかと毎日毎晩警戒をしていたが、現状では困難ということはこの調査がいきなり行われることはもうないということです。ようやくここで安心して夜眠れるようになった。
もう一つ大きなポイントとなるのはこの住民合意を最大限尊重するということ。中々役所的には住民合意という言葉は使わず、住民の皆様をご理解を得てという言い方を使う。一方的に説明をして、住民の皆様のご理解を得ましたということをよく言う。そこを踏み込み、住民合意ということで公約に盛り込ませたわけである。
当然そうなると、合意の判断基準とはなにか、ということで当選後の最初の県議会の中で関係漁協の同意、あるいは用地買収の状況、選挙の結果など、これらについてを総合的に判断する。
私たちにとって現状では困難というなかで、合意の判断基準を後退されなければいいということで選挙も毎回しっかりと取り組み、市会議員の数も四人から五人、六人と増やす取り組みもしてきましたし、共有地運動も展開し、用地買収も事実上無理という状況に追い込んできた。
私たちとしては市長をとって計画の白紙撤回をするんだ、ということを一番のポイントとして戦ってきた。そのために県議選や知事選など含めて選挙を戦い、さらに議員を誕生させ、様々な市民団体、労働組合の運動も連携を取りながら運動を展開してきた。しかし相手のゴールに攻め込むだけではなく、自分のほうの守りも大事であり、漁業権や共有地で海と土地を守るということで地権者と漁業者もしっかりと守りを固める。こういう構図の中でいま運動を展開できたと思っています。最後に忘れてはならないのは地元の運動を支えていただく全国の多くの皆さんの応援がありました。長野のほうからも駆けつけていただいた方もおられますし、全国の皆さんの応援があって、珠洲の原発を阻止できたということで、改めて感謝申し上げます。
地下の話に入っていきたいのですが、まずは珠洲の群発地震から触れていきます。三年前からこの群発地震が続いたと話させていただきましたが、私たちにとっては群発地震と言われてもなんなのかということで、最初の頃、震度1や2の揺れが毎日のように続くのですが大きな揺れは来ない。だがいつまで揺れが続くのだろうという風に不安な日々を過ごしてきた。そんな中で専門家の間からこれは地下の流体が原因で地震を引き起こしているという話が出てきた。
流体が原因での群発地震というのはあまり知見がないが松代群発地震というものがあり1965年から5年半ほど続いた。そのことがあり、5年ほど我慢しなくてはならないのかという思いもあった。
だが松代群発地震の場合は流体がかなり上のほう、地表近くで、珠洲の場合はもっと深いので、同じになるとは限らないという議論が一方であった。
地震が小さく続いていたためエネルギーが日々発散されるような状態で、大きな揺れは来ないのではないかという話もあった。
ところが一昨年の6月に震度5強の揺れが起こり、専門家からもこのような大きな揺れが起こるとは思わなかったという発言があった。その後また揺れは収まっていく。
去年の2月には地下の流体がもっと深いところから、太平洋プレートから海水を地下に引き込み、それが能登半島の上のほうへ上がってきたというモデルが示されていた。流体が上昇してくる量が増えていないことが確認できたのでもう収束に向かうのではないかという話出てきた。もちろん市民のみなさんはそういう話は大歓迎なのですが、その直後5月5日に震度6強の地震がありました。市民にとっては誰を信用したらいいものやら、といった感覚があった。群発地震で市民は翻弄される。
専門家の皆さんのいろんな話を聞きつつも、一方で本当に市内でこういう被害が起こると・・。去年の5月5日の地震を含めて、多くの家屋の損壊があり、亡くなった方もおられました。その後家を直すべきかどうか、直すとしていつ直せばいいのか。直してもまた大きな揺れが来るのではないのか。など心配しながら、それでも正月の前には都会に出ている子供が帰ってくることもあり、それまでには直したいということで去年の秋から年末にかけてあちこちで家を直す修理が続いていました。
そんな中で今年の元日の揺れになってくるわけだが、実はさらに強い揺れに警戒をと言われていた。(資料14上)北陸電力が二号機の再稼働に向けた新規制基準適合性審査の中で示している資料。能登半島の沖合に長さ96キロメートル、推定マグニチュード8.1の能登半島北部沿岸域断層帯というものがあると資料で示されている。私も去年、県内のほうで話をする機会があれば必ずこの図を紹介して奥能登の住民の一人としては絶対にこの活断層は動いてほしくない。動いたらもう能登は壊滅状態になるだろう。ただ、こんなリスクがあるのならば、志賀原発の再稼働は絶対に許してはならないし、廃炉にしなければならない、と話をさせていただきました。
また珠洲の原発計画では長さ云々ではなく(活断層は)存在自体が確認されていない、認められていなかった。
1月1日の地震で150kmの断層が動いたといわれている。この間の群発地震、そしてさらにこの一連の動きをみると珠洲の市民からの率直な声として、地震学はその程度なのかと。群発地震の終息、あるいは続くのかといったことが全く分からないわけだし、そしてさらに強い揺れに警戒と言いつつも、これは私の印象だが、本当に危機感を持って地震学者が喋っていたのかというとそんな風には聞こえなかったなと思っている。一言そう言っておかないと万が一起こった時になんと責められるかわからないという防衛的な意味で、守りの意味で警戒をと言っていたぐらいにしか聞こえず、結果的に石川県や自治体のほうも地震の備えに動かすところまでいかなかったわけです。地震学の限界、地層学の知見がこの程度だということを珠洲市民として身をもって体感してしまった。
断層が150km動いたというわけで、北陸電力の想定よりも、東西大きく動いた。志賀原発側、西側はこのように(左側の矢印)動いた。今の規制委員会の審査の中でもこのあたりの断層の連動はないのかと議論されてきた。北陸電力はそれは否定し、規制委員会もそれを容認する形で議論は進んでいった。それから佐渡のほう(右の矢印)に大きくぐっと伸びたが、実は佐渡側のほうにもNT2、NT3という活断層があることが確認されている。ただ規制委員会の議論の中では連動の可能性は全く議論されていなかった。規制委員会も可能性がないのかという検討の指示すらなかった。つまり全くノーマークの断層が動いていた。もう一ついま注目されているのが、志賀原発に近いところ、北側9kmほどのところに富来川南岸断層というものがあり、今回の断層の揺れに合わせて動いたということが確認されている。
富来川南岸断層と今回動いた150kmの断層とは20kmほど離れているにもかかわらず動いたというものはこの間の地震学の知見のなかではありません。もしこういうことがあるのならば志賀原発の審査はもちろんだが全国の原発立地地域の断層の審査にも影響が出てくるものだと思います。地震の直後から私が心配しているのは、今回の能登半島地震、マグニチュード7.6の地震で三年前から続いてきた、一連の地震活動がこれで終わりになるのか?ということ。次の大地震は来ないのか。次の大地震に向けてカウントダウンが始まっているのではないかと心配しています。
などというと素人が不安を煽っていると思われてしまうため、専門家の見解も紹介します。東北大の遠田晋二教授は能登半島地震後、佐渡沖、そして志賀原発沖合や南側の断層に地震を起こしやすくする力が働いているという解析結果を発表している。また、同様な解析結果を金沢大学の平松教授も発表している。佐渡の沖合ということは柏崎の原発に直に関係してくるが、もう一つ志賀原発沖合について報告したいと思う。
北陸電力が作成した資料にわかりやすく数字を入れたもの。かつて志賀原発の周りは大きな活断層はないとされてきたが今北陸電力が出している資料で見ても、周りにマグニチュード7クラスの活断層がたくさんある。ズタズタ状態、これが実は能登半島の現状、実態です。さらにこれらの活断層が連動すればマグニチュード8クラスの地震も起こる可能性がある。ただこの連動はしないというのが北陸電力の現在の評価です。これらが今後の議論でどうなっていくかわかりませんが、こういう活断層に囲まれた志賀原発というところで改めて、今回の地震で終わりではなく志賀原発は今後のこうした地震に耐えうるのか注目していかなければならない、心配しなればならないという状況です。
もう一つ加えて、志賀原発の本当のすぐ近く、志賀原発の東の山側、1kmほどのところに福浦断層というものがある。また海のほうには兜岩沖断層というものが4kmほど沖合にあり、その上には碁盤島沖断層があり、先ほど申した北側9kmほどのところには富来川南岸断層があります。これらいずれも志賀原発一号機、二号機作るときには活断層ではないとされてきたもの。今は活断層に囲まれた原発ということです。
特に注目していただきたいのは福浦断層と兜岩沖断層は並行して走っている。5kmくらいの感覚。これは規制委員会の議論の中でも連動する可能性はないのかと並行して走っている関係でそのような指摘もあった。これに対し北陸電力が作った地図。断層の傾斜方向を福浦断層が西側に傾き、兜岩沖断層は東側と、違う向きに傾いているから連動はしないと、話している。
改めて図の正三角形を見てもらうと、この正三角形をひっくり返したその上に志賀原発がある。どちらの断層が動いても、志賀原発の乗っているところがずり上がるという位置関係にある。
こんなところに原発を作ること自体、そもそもありなのか?というところも専門家の皆さんには議論を深めてもらいたい、私たちにとってはとんでもないという風に思っています。
このような地震の問題に加えて、次の地震があった時に志賀原発は大丈夫なのか、避難計画含めて大丈夫なのかというところを話ししていきたい。今回北陸電力は志賀原発の中を施設のトラブルや様々な破損情報を明らかにした。毎度のように情報が小出しで、私たちにとってまだ隠している情報があるのではないか、隠しているトラブルがあるのではないかと心配、警戒をしている。
志賀原発は実は2007年に臨海事故隠しというものを起こしている。隠ぺい体質は今でもまだ直っていないと私たちは思っている。加えて、このように一度発表した情報の訂正が繰り返されている。今発表している情報も正しいのかどうかということも含めて、心配になってくる。
先月末に社民党本部のほうが北陸電力に対して質問状を出しており、そのなかでこの元日とか人員の関係で人手不足だったのではないだろうかと聞いているわけだが、必要な体制は整っているんだと回答。整っていてこの程度ということです。
改めてこの十三年間、止まっていてよかった。動いていたら原子炉の緊急停止、冷却といった作業は求められてくるわけで、北陸電力にはそういった作業を、とてもこなせるとは私たちは思いません。
もう一つ加えて今回(1月1日)、原発の立地している志賀町で震度7、大津波警報も発令された。また1月6日にも震度6弱の地震があった。これは今の原子力災害対策指針、石川県防災計画で見ても、防災計画上警戒事態になっている。国のほうでも規制庁と内閣府が合同の警戒本部を立ち上げ、現地のオフサイトセンターでも対策本部を立ち上げた。計画でいうと、職員の最初の参集など様々なことをしなければならないが、ほとんどできていなかった。私たちはこの間、原発が重大な事故を起こして、全面緊急事態に至った場合、対応できるのかと心配し、様々な指摘をしてきたがこういった大地震が来たら初動で破綻することが確認できた。
また避難計画についてはすでに多くの方が指摘され、報道関係でも出ているが、道路での避難は出来ない、海からも空からも避難は無理だということが明らかになった。さらに今の避難計画では5km圏は重大事故、全面緊急事態で即時避難。5kmから30km圏は屋内退避ということになっているが、屋内退避すべき家は倒壊している、あるいは半壊しており余震が続く中で家にも入れない。仮に入ったとしても放射線の防護機能はすでになくなっている、ということがあり、屋内退避というのも破綻している。
モニタリングポストも116カ所あるが18か所情報が送れなくなった。このような今の防災計画の前提としていることが破綻していた。
さらに今回の地震の実際の対応で、地震が起きて自宅が倒壊したり孤立集落ができる、さらには津波が来たり、火災が起こるということで地元の自治体の職員、または消防団の皆さん、そういった方々が対応していたが、手は全く足りていなかった。地域の壊滅は地域の実働部隊だけでは全く足りていない。
そんな中では原子力防災を担える人がいるのか、原発事故が起きて複合災害に、原発震災になった時に対応できるのか。ヨウ素剤の散布やスクリーニングやるための避難退避場所を設けますなど言っているが全て破綻する、誰もやる人はいないということが明らかになった。
原子力規制委員会は原子力災害対策指針の基本的な考え方は変えないという方針を明らかにしている。屋内退避の運用について、家屋の倒壊がこれだけあり、避難路も使えないが、屋内退避の運用に限って議論していきましょうと。
能登半島地震の教訓を自然災害の問題に限定することが狙いで、原発の災害とは切り離して考えようという方針が見え見えである。確かに今回の能登半島地震による地域の孤立集落の問題、道路の寸断状況というのは能登固有、半島固有の要因だったということは間違いないが、原子力災害がここに加わり地域が孤立していくという問題、これは能登には限らず全原発立地地域に共通するリスクとなっている。
しかし複合災害について原子力規制委員会は自然災害への対応を優先し、人命の安全確保を最優先させるといっている。もっともだと思われる方もいると思うが、要するに自然災害が起きたり津波が来るとなったときに、原子力防災の放射線防護の対応は後回しにする、そこは放棄して、高台に逃げる、家の中に居れないので避難所へ走るなどを優先する。事実上いまの防災計画の破綻だと思っているが、原子力規制委員会はそれを破綻だとは認めない。
山中委員長は家屋倒壊が多数の場合、地震に対する避難行動が最優先とさらっというが、今回の能登半島地震でいうと全く違う。家屋倒壊が多数の場合、下敷きになる人が多数いるわけで、その方々の救出が最優先になるはずだ。原発事故が起きて、できるのか?全国から消防や自衛隊、災害救助の方々も含めてたくさん入っていただいたが、原発事故があったら倒壊家屋での人命救助ですらできなくなる。
写真のようにたくさんの人に来ていただいているが、上記のことがあればこのような方々が来れなくなってしまう。
山中委員長の防護措置の考え方は、避難と屋内退避の組み合わせてやっていくという考えは変えない。今回、避難もできない、屋内退避もできないということが明らかになっているものの引き続きこの組み合わせでやっていくということを言っている。
どのようなことを言っているかというと、避難所や避難道路は原発事故に関係なく、地域防災計画の中で自治体、内閣府がそれを支援する形になるが、基本的には自治体がしっかりやってくださいね、という話。原子力規制委員会はそういったことには責任を持ちませんよ、まずそれは自治体の責任でしっかりとやっておいてくださいよ、という話。これはほとんど、通行止めで避難が出来なくなったら自治体の責任で、地震でも壊れない道路を作れといっているようなもの。これは長野の皆さんから見てもありえない話であると思います。
地震国日本で、田舎の小さな道だから壊れるという話ではなく、この写真は能登里山街道という高規格道路で、このようにズタズタになる。経験的にお話しすると、壊れやすい道路というと盛り土のところ、橋の前後も大きな段差ができる。そのようなところで、壊れない道路を作るのは無理だろうと思う。特にこのように道路の復旧はまず被災地の対応で求められてくるが、これも市街の方からの応援がなければ復旧すらできない。そこも規制委員会(規制委員長)はわかっているのか、わかっていて見ないふりをしているのかわからないが、無視をしているという状況。
屋内退避の運用を検討するというのは、石川県庁、あるいは石川県内の周辺自治体の職員とも話が通じない部分があるが、原子力規制委員会は防災計画や災害対策指針で、周辺住民の被爆をゼロにするとは一言も言っておらず、被爆を低減するといっている。さらに、このような事故が起きた場合の被ばくの目安は福島の百分の一程度の放出量で、100mSvを目安にしていくと堂々と言っている。
公衆の被ばくの限度は1mSvで、その百倍、事故が起きたらそこは我慢してくださいね、というのが規制委員会の方針。そんななかで屋内退避の運用を検討するということは、被ばくが前提、逃がさない避難計画づくりへとこれから進んでいくものだと私は心配しています。
家屋倒壊で避難になり、放射線防護施設があるのでそこに避難してくださいよという話だが、今回の地震で志賀原発周辺の放射線防護施設もたくさん傷んでいた。六ケ所傷んでおり、さらに二カ所は運用停止になった。またその中の一つは放射線防護機能自体失っていた。規制委員会の言っていることが次から次へと破綻していっている。
改めて山中委員長に対しては地域が壊滅していくというこんな中での原子力防災はどうなのかということを直視してほしい、しっかりと学んでほしいと思います。地域の住民は助け合い、珠洲の場合でも輪島市でも同じですが、自治体職員もほぼ全員が被災者であるが、帰る家もなくなるなかで連日連夜、被災地対応や防災対応にあたる。そうしていっても圧倒的なマンパワー不足である。
そんな中で全国からのみなさんに支えられてこの間やってきている。これを困難にするのが原子力災害ということになります。
全国から皆さんの支援がなかったら住民は家に閉じ込められる、あるいは地域に取り残され、被ばくにさらされ、救援もなく汚染地域の孤立は長期化する。まさにこれが原発震災ということになります。
最後にこの地震で全国の皆さんから珠洲に原発がなくてよかったと声をいただきます。また志賀は止まっていてよかった、本当に運がよかったと話があります。それはもちろんその通りだが、地震学、活断層審査の限界を全く自覚しない原子力規制委員会があり、加えて原子力災害対策指針の破綻、防災避難計画の破綻を全く認めようとしない原子力規制委員会がある。この背後には原発回帰路線を進んできた岸田政権があるが、こうした中で私たちはなんとしても志賀に限らず、この能登半島地震を最後の最後の警告として、というのは中越沖地震が起きても福島の事故があってそれでもまだやめないという中で今回の能登半島沖地震です。これを最後の最後の警告として、脱原発社会へ向かっていかなければならないということをお話させていただいて私からの報告を終了したいとおもいます。ありがとうございます。
Q1:不正選挙が行われたのは何年の何月か?
北野:1993年の4月。
Q2:あと志賀原発は最初能登原発と言っていたと思うが、それが稼働する直前に志賀原発と名前が変更されているが、どのような経緯があったのか?
北野:能登原発とかつて言っていたが、計画が公になったのは1967年だが、その時からずっと能登原発と言ってきていた。名前が変わったのは1988年の12月1日。これは志賀原発一号機の着工の日でその日に能登原発から志賀原発へと名前を変えた。なぜ変えたのかというと、能登原発と言っていると能登全体に影響があるような感じなので、そこを狭めた。志賀町に限定した。原発のマイナスイメージを能登全体に及ばないようにするために名前を変更したのではないかと思われる。例えば志賀町の隣には七尾市、和倉温泉などの観光地があり、能登の原発になるとそのような観光への影響を懸念していたのではないかと。
Q3:珠洲市は全国で一番人口の少ない市、1万二、三千。(正確にいうと本州で一番人口の少ない市)限界都市と言われているがそのなかに限界集落がたくさんあり、今回の地震の被害を受けて、復興をどうするのか、ということが悩ましい。10戸ほどしかない集落に道を通し公的資金を投入するのかという意見が一方である。地元の皆さんは今後、限界集落にお住みの方も含めて珠洲市の市民はどのような方向で復興を果たしていこうというのか、どのような気持ちになっているのか?
北野:大事な問題を指摘していただきました。珠洲市は典型的な過疎地(急激に過疎が進んでいる地域)で、そんな中今回の地震でどれだけの人が市外に避難しているのか地元に残っているのかということ自体、正確に把握もできていない。これから復興に向けて議論を進めなければならない。この間珠洲市はどのような方向で来たかというと、市の中心部だけではなく地域全体(沿岸部や孤立地域になっているようなところ含め)に、市内全域に人が住んでいてこそ珠洲市なんだと、そこで様々な生業をやっている人がいて、自然も守れる、自然との共生の中で地域が作られていくという考え方で、拠点を分散してやっていくという方向できている。ただ今回の地震でそのような方向を続けられるのか?孤立するような地域に公共インフラを通して、税金を投資していいのか。お金の問題も絡んできている。街づくりの方向性もどうするのかというのも含めて本当に悩ましいことだとは思っています。
集落の問題もあれば、下水道の区域自体ももっと狭めるべきなのではないかと。これからの復旧に向けて公共下水道のエリアを狭めて、当然空地も増えるため中心の市街地のほうも合併浄化槽に切り替えていったほうがいいのではないかという議論も出てくるかもしれません。山あいの集落の中でも水道管を引っ張るより井戸に切り替えてくれという話も出るかもしれないし、そのようなことを含めて議論はこれからです。市内全域に住んでいける地域を作るのか、きれいな言葉でいうとコンパクトシティ(市の中心に人を集めていくのか)ということになっていくかもしれない。そこは非常に悩ましいことだと思っています。
私としては自然の中で暮らしていきたい人たちがその地域で住み続けたいというのなら、できればそれを支えていく方向で進んでくれればいいなあ、と思っています。
Q4:珠洲の反対運動と賛成派の激烈な対立があり、計画が白紙になり20年以上経つが、その賛成派と反対派が激しく対立して分断された。感情的な対立もあったという話を聞くが、20年経ってその感情、しこりはどうなったか?
北野:2003年の12月5日に電力会社は撤退を表明したがその時点でいえば私も含め、マスコミの皆さんもこういう対立は孫子の代まで続くだろうといわれてきましたし、私も心配していました。ただこの二十年間を振り返り、その対立の溝というのは思いの外早く解消していきました。全くゼロとは言わない(腹の中に持っている人がいるのは間違いない)がかなり解消されている。ポイントが二つあり、一つは電力撤退が明らかになった段階で私たち反対派のほうが絶対に、勝ったとは言わないでおこうということを確認した。電力撤退した後の課題になるのは地域の融和ですから、そこは地域の中で勝ち組と負け組を作るようなことは自分たちのほうから絶対仕掛けていってはいけないと、取り組んできた。実際多くの反対してきている人たちもそういう方向で(きている)。中には腹の中にいろんな思いはあったとは思いますが抑えて、地域の中でそういった人間関係を取り戻すという努力をされたということが一つあります。
もう一つ大きなポイントとなったのはやはり2011年の福島の事故だと思います。それまで推進していた人たちは電力が撤退していったけれども、原発に対する未練を持ち続けている。原発さえできればこのように過疎が進むことはなかったのになと思いを持ち続けていたわけだが、その福島の事故、津波に襲われ爆発する福島の原発を見て、やっぱり珠洲に原発がなくてよかったと。これは多くの推進していた人たちが感じたことであり、私も直接そのような話を聞いています。そんな中で原発からようやく卒業できたのかなと思いがあります。
Q5:今の話の続き)北海道の神恵内や寿都ではお金が欲しいから処分地計画を作る受け入れをしているが、それと同じように福島で災害があり、原発がなくて良かったと思っている方いると思うが、今の中でお金がないという状況の中で、これはやはり(原発は)必要じゃないかという意見もあったんじゃないかと思うがどうか、今これから災害から復興しようというなかで、先ほどの賛成派と反対派の軋轢は残っているのかどうか。珠洲市の産業は農業と漁業だけなのか、北前船は関係なかったのか?
北野:最終処分場の関係、中間貯蔵の議論も含めて、珠洲の原発の計画があった当時から当面原発の話は出ているけれど最終的に電力会社の狙いは最終処分場、中間貯蔵施設ではないのかと噂が絶えませんでした。三電力共同開発という異例の形。加えて半島の先端ということで海上輸送で持ち込みやすいということもあるのではないか。私たちはずっと原発の問題と共に処分場の心配もしてきました。お金の問題は言われるとおりだが、長年に渡る地域の対立があって、原発の問題がなくなり、反対派だけではなく推進してきた人たちも含めて、毎日しんどい。家族の中や地域などで推進・反対と色眼鏡で見られるそんな暮らしということで、そのような状況をもう一度作りたくないというのは皆さんの共通した思いがあるのではないかと思っている。加えて今回の地震ということでお金はもちろん必要になるが、ここに処分場があったらどうなるのかと考えたときにあり得ないんじゃないかというふうに思います。
それから今後の復興に向けてにあたってかつての推進・反対ということですけども、そういうなかでも地域での対立はほとんどなくなっているのでそういった関係で議論になるとは思えないが、地域全体の人が住めるのにしていくのか、中心部に人を集約していくのかという問題はかつての原発推進・反対に関係なく今後のそれぞれの生き方にもかかわっていくし地域づくりのイメージにもかかわってくるし価値観にもかかわってくる問題で、原発推進・反対とは違った意味の枠で難しい対立といっていいのか、議論にはなっていくと思います。
北前船、地域の産業ですが、かつては鉄道なり陸上交通の時代の前は珠洲含めて能登は北前船で栄えてきた。北海道から九州のほうまで海を通じて繋がってきたという歴史がある。戦後の高度経済成長期になって陸路からの鉄道、高速道路、飛行機や新幹線などになっていく中で取り残されてきたというのがある。地域の産業だが農業、漁業とあるが最近は厳しくなってきているが能登杜氏という酒造り(冬場の出稼ぎ)というものが大きな産業としてあった。酒造りの産業を担ってきたというなかでいわゆる外貨を稼いで、春から秋にかけては地域で農業なり漁業をしながら、お金を使わない地域の自然の中で生活していくというところもあったとは思うのですが、だんだんと難しくなってきているところがある。
Q6:経歴のところで大学を出た後ジャスコに務めたその4年後に無農薬の農業をやっていたことを聞きたい。
北野:4年間サラリーマン生活をしたあとで、実は大学時代からの夢でもあった、珠洲のほうに帰りたい。行きたい。という思いがあった。(生まれたのは珠洲の隣、今は合併して能登町になっている)昔から珠洲の原発の計画があった、原発誘致の理由として地域に産業がない、働き口がないということが常に言われる。だからこそ原発だといわれてきたのだが、原発がなくても地域に帰れるじゃないか、暮らしていけるじゃないかと自分なりに示していきたいという思いがあった。その中で無農薬の農業というのを自分なりの選択肢としてあり、ただその経験がなかったため鳥越村、今は合併して白山市になっていますが、そこで無農薬の農業を大きな規模でやっている方がいて、そこに押しかけて2年間やらしてもらい、教わって、珠洲に行ったという経緯があります。そういった思いで珠洲に行きましたが、行ったその次の年に市長選挙があり、私の描いてきた方向性とはだいぶずれてきたというのはあるかなと思います。
長野県原水禁 草野麻理子
今年で13年になる東日本大震災と福島原発事故。3月16日の「原発のない福島を!県民大集会」と20日の「さようなら原発全国集会」に合わせて、今回で8回目となる「フクシマ連帯キャラバン」が開催された。私は、そのうちの17、18日に参加した。
16日、福島市での集会を終えたキャラバン隊は、宿泊先のいわき市小名浜で夕食懇親会を行い交流を深め、私を含めた二名が翌17日朝、ホテルで合流した。
参加者総勢72人がキャラバン数台でいわき駅前の会議室での学習会に向けて出発。同乗したキャラバンには、部落解放同盟や兵庫県からの参加者らがいて、昨日の様子などを聞いたりこちらの活動を話しながらの道中となった。
学習会では、これまでのキャラバン隊について全港湾東北小名浜支部の矢内誠也さんからお話していただいた。課題として、2011年の福島原発事故を知らない世代にどうつなげていくか、また、能登地震による志賀原発のトラブル、避難経路は土砂崩れで通行不可、日本海側には福井の原発銀座もあり地震も多い地域であること、汚染水の海洋放出がもう既に計4回も行われ、1回あたり7800トンという量であること、作業員のトラブルも散見され、13年経っても廃炉作業が進んでいないことや燃料デブリが1グラムたりとも取り出せていないことを、地元に戻ったら拡げてほしいと話した。
この企画は、一人ひとりが必ず福島原発事故を風化させないこと、被害を受けた地域の現状を自分の目で見て、「原発って必要なの?本当の復興とは何か?」を肌で感じ、これからも続く脱原発運動に活かしていくためのフィールドワークという趣旨を聞き、被災地へ向かう車内で身が引き締まる思いだった。
津波による大きな被害があった請戸小学校が震災遺構として整備され、外観~内部を見学。当時の状況に思いを馳せた。小学校の周りは何もなく、ここだけがポツンと残っているのが印象的。たくさんの住宅や建物があったというのに・・・。小学校の児童と職員は全員無事だったことがせめてもの救いだった。
津島訴訟原告団の武藤さん、今野千代さん(診療所の元看護師)、馬場さんの案内で、津島小学校、診療所、ご自宅を見学した。避難所となった津島小学校は、津島の人口1,400人のところ、8,000~10,000人が4日間ここに滞在したそう。
グランドは隙間がないぐらい車が停まっていて、一番の被害者は子どもだった。何もわからず連れてこられたという感じ。水洗トイレが詰まってしまって、大変困った。畜産農家がバキュームカーで吸い上げようとしたがホースが入らず、結局、青空トイレで済ませた。その後は原発事故避難となり、想定外が連続して起こった。
3月11日当日は先生(医師)と事務受付と後輩看護師2人で昼食にカレーを食べた。地震が起きて大変だったため22:00にようやく帰宅。翌12日一斉避難し、診療所に人がたくさん並んでいると聞き、急いで診療所へ。しかし、そんなにたくさんの薬は置いていないので、製薬会社に電話するも電話が通じない。13日になって、福島市から薬を持ってくることになった。チヨさんは原発事故のことをその時まったく知らなかった。浪江の開業医もかけつけた。15日に避難指示が出たが、患者さんを置いていけず、先生とチヨさんともう一人の3人が残った。14日、持病を抱えた避難者の700~800人が診療所の前に並んだが、お薬手帳もなく、何を処方すればいいかもわからず困った。
レントゲン室があったため、線量をガラスバッチで確認したところ、3~4日間で800ベクレル以上(建物内)。事故前は毎回測ると0だった。
自宅は築65年。除染は宅地から20メートルまでと決まっている。ここでの線量は1.3マイクロシーベルト。畑は竹藪と化し、除染はされていない。武藤さんは2つのお願いがあると話す。
①13年経った今になっても、こういうものだと伝えてほしい。
②10万筆の署名活動にご協力を。
この後、キャラバン隊は原告団との意見交換、茨城県で東海第二原発の周囲30キロ圏内にある15自治体へ避難計画及び老朽原発20年延長問題を記した要請書を首長へ直接提出する要請行動を行ったあと、東京代々木公園での「さようなら原発」全国集会へ向かった。
東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた男女7人が東京電力に損害賠償を求めている「311子ども甲状腺がん裁判」の第9回口頭弁論が3月6日、東京地裁で開かれました。
この日は、大法廷の一般傍聴席が83席に対し、199人もの方が傍聴券の抽選に並びました。地裁前の裁判前集会には平日であるにも関わらず136人の方が集まり、この裁判の注目の高さがうかがえます。
今回からサポーターズカードを配布することになり、オリジナルグッズもあるそうです。
次回の第10回口頭弁論期日は6月12日(水)に予定されています。今後も311子ども甲状腺がん裁判を引き続き注目していただき、応援をよろしくお願いいたします。
組織と運動を表現するダブルロゴマークを採用しました
県労組会議のロゴマークをつくりました。組織本体を表すロゴマークと、平和運動などを表現するロゴマークのダブルロゴマークです。必要に応じて2種類のロゴマークを使うこととなります。
ロゴマークの色として、緑が環境、ピンクが人権、黄色が平和のカラーイメージが組み合わさることで、憲法の3原則「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」を表しています。
また、組織本体ロゴは、人と人が組み合わさって地域をつくる運動を表現。運動ロゴは、平和の象徴である鳩をイメージしています。
いろんな場面で使用して広げていきたいと思います。
長野県労働者福祉協議会は、2月17日、長野市のJAビルで若い世代の組合役員や組合員を対象にした「ヤングリーダー塾」を開催し、県内各地から若い世代の組合員約30人が参加しました。
労福協の理念、2030年に向けてのビジョンを学んだあと、基調講演として、日本協同組合学会元会長の田中夏子氏に「福祉事業団体と労働組合、協同組合の関係」「SDGs達成に向けての協同組合の役割」というテーマでお話いただきました。
講師の田中夏子氏は、イタリアの社会的協同組合、コミュニティ協同組合、ワーカーズ・バイアウトによる事業再生を研究され、長野大学、都留文科大学などで教鞭をとり、2013年から農ある暮らしを志して、現在は長野県佐久市の農園「Vento e Terra」の園主も務めらているそうです。
田中氏からは、現在の国際情勢のなかで協同組合運動がどのようなアクションをおこなっているか、労働組合運動と協同組合運動の深いつながり、SDGsの「誰も取り残さない」の本当の意味、協同組合のアイデンティティの探求をめぐる国際的議論などについて解説いただきました。
ロシアによるウクライナ侵攻後のヨーロッパの協同組合の難民支援のとりくみの紹介のなかで、「日本国憲法前文にうたう『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する』に照らせば、ヨーロッパ協同組合の課題意識も、私たち自身の課題として深く共感できる」と述べられ、さまざまな社会課題を自分事として捉え行動していくことの大切さを伝えていただきました。
また日本で安易に多用されているSDGsの「誰一人取り残さない」という言葉の切実な意味についても知る機会になりました。
講演後には、「労働組合・労働事業団体の役割とは?」というテーマでグループワークを行いました。普段かかわることの少ない産別を超えて交流を深めることができました。
【伝える】
・賃上げ要求・福利厚生、職場環境の改善について経営者へ要求する
・若手から出る意見を集約(仕事以外でも)して上に伝える
・会社のルール(福利厚生)などを伝える
【歴史】
・労働組合の歴史
・自分の状況を測る基準
・政治への関心・知る、学ぶ、きっかけの場、関係
・平和について考えるきっかけの提供
・協同組合の利用推進
【コミュニケーション】
・職場で話しにくい話を聞いて相談相手になる
・おかしいと思ったことについて、みんなで声を上げる
・重い荷物を持ってあげる
・組合員の親睦会
・相談できる場
【明日から自分は何ができる?】
・労働組合の繋がりを大切にする(産別を超えて)
・どんな人とでもコミュニケーションを大切に
・ボランティアや募金活動の情報をつなぐ
・ジェンダーの視点を!
・女性も誰もが発言しやすい職場、関係づくり
■協同組合の国際組織である国際協同組合同盟(ICA)欧州がウクライナへのロシアの侵攻後に声明
■従来から取り組まれてきた協同組合による難民支援
従来から、イタリアでは、社会的協同組合、住宅協同組合連合が連携して、紛争地域からの難民、女性、子どもたちに宿泊施設、生活環境、仕事などを提供してきた実績があった。難民支援と協同組合というと、意外な取り合わせに思われるかも知れないが、実はこの領域と協同組合運動には深い関係がある。
ロッサナ・ザッカリアさんのメッセージ(2022年3月15日発信)
住宅協同組合レガコープ・アビタンティ代表
「戦争から逃れてきた人びとは、故郷をはじめ、アイデンティティの深い部分を放棄させられています。暖をとり、自らを守る多くの場が必要です。しかし、同時に新しい住まい(生きる場[田中注])を探すという複雑な旅に、協同組合として同行する必要があるのです。(…略…)
住宅協同組合と社会的協同組合が一緒になって、さらに多くの市民セクターと行政も含め、多様な解決策を構築できるように取り組んでいきます」
■ヨーロッパの協同組合の取組みから
・2022年5月には、シチリア州カターニャ市をはじめ、各地で難民の受入活動が活発化。
・2022年6月には、パドバ市で、LGBTQの難民を受入れるグループホームが、自治体、当事者団体、社会的協同組合Levanteの協同事業として開設。
1400万人の人びとが、故郷を破壊され、見通しの立たない避難を強いられる。協同組合が、戦争や紛争によって生みだされる数々の困難に、正面から取り組むとする姿は私たちにとって示唆的。
一見、協同組合と難民という組合せに、唐突の感を持たれる方もあると思うが、日本国憲法前文にうたう「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」に照らせば、ヨーロッパ協同組合のこうした課題意識も、私たち自身の課題として深く共感できると考える。
※2023年1月現在のウクライナ国内避難民は600万人、EUの国々へ逃れた難民の数は800万人
■難民とともに生きる地域創造をめざすRUAH社会的協同組合
・設立2009年1月。前身のアソシエーション(共通の目的や関心をもつ人々が、自発的に作る集団や組織)としての活動は、1991年に開始。
・1980年代末、受入先を求めてベルガモ(イタリアの都市)を訪れた移民や難民との出会いが契機。
RUAH設立者の思い、難民受入側の思い(RUAHのサイトから)
「非人間的な旅を経て、疲れ果ててようやくイタリアの港に辿りついた彼ら・彼女らの顔には、戦火の悲惨、空腹、搾取されてきた悲劇の歴史がはっきりと刻まれていた。私たち(RUAH協同組合の前身グループ)は、彼ら・彼女らに尊厳ある生活を提供すべく(居住や生活全般ににかかわる諸サービス)支援することはもとより、個々人の人生を、自律(オートノミー)をもって歩めるようなプロジェクトを模索した。分かち合いと共生のルールづくり、言葉の習得、仕事探し等の支援だ」
「『異邦の人』の声に耳を傾けるという行為は、単に話されていることの内容を理解するにとどまらない。また単純な好奇心を喚起するだけにもとどまらない。『異邦の者どうし』が共に創造的な活動を構築することであると私たちは学んだ。それぞれの人生の歴史を語り合い、それを分かち合う力が求められ、そのことはまた受入れる私たち自身の中に、別の世界を作り出す態度が必要とされる」
※RUAHはヘブライ語で「魂の風のそよぎ」を意味する。
■協同組合原則の時代的な変遷
◆世界の協同組合は、18世紀以降、資本主義化の波の中で、各地における地域に根付いた反貧困の社会運動の中で、労働運動とは車の両輪関係を形成しつつ、生み出されてきた。そうした一般性ゆえ、世界各地で協同組合が出現。日本でも同時期に発祥。
◆世界の協同組合は、必然的に独自の成り立ちを持つとはいえ、バラバラな存在に留まらず、19世紀末に、国際的なネットワークICAを形成し、知見を共有しながら釈迦への影響力を高め、国連機関、ILO(国際労働機関)とパートナー関係を深化させてきた。
◆ICAは、協同組合原則や協同組合としてのアイデンティティを、時代の要請とともに再検討し、協同組合が今日的な課題に応え得る質を備えるよう指針提起(ガイダンスノート)をした上で、刷新を、各国の協同組合の参加のもと、議論が続いている。
■SDGsのそもそも論~協同組合・労働運動が前線に立つ必然性
■「誰一人取り残さない」というSDGs運動で最も引用される言葉の意味
原水禁は3月1日、静岡市で「被災70周年3.1ビキニ・デー全国集会」を開催し、全国から約180人が参加しました。
集会では、長崎大学核兵器廃絶研究センターRECNAの中村桂子准教授に、「核兵器廃絶に向けた世界の動きと私たちの課題」というテーマで講演をいただきました。
また、Connect Hiroshimaの大内由紀子さんからTPNW(核兵器禁止条約)第2会締約国会議派遣報告、静岡選出の高校生平和大使から核兵器廃絶への思いを語っていただきました。
中村さんの講演では、はじめに長崎大学核兵器廃絶研究センターRECNAは核兵器廃絶を掲げるオンリーワンの研究センターであることが紹介されました。
世界に核弾頭は1万2520発存在(2023年6月現在)しており、冷戦期以降、核弾頭の総数は減少してきたものの、退役・解体待ち弾頭を除いた「現役核弾頭」の数でみれば軍拡がすすみ、また核兵器の近代化や新型核兵器の開発などの高性能化がすすむなど、核軍拡の状況を呈している。核兵器も家電と同じように老朽化は減らすチャンスだが、最先端の弾頭へアップデートしようとしている現状が示されました。
膠着した現状があるいっぽうで、核軍縮をめざす「あたらしい風」のきざしがあり、その大きな原動力としての核兵器禁止条約(TPNW)が持つ意味について解説いただきました。
核兵器禁止条約は、これまでの条約と異なり、核保有国ではなく、マーシャルなどこれまで議論から見えないところにいた国々が主役交代のように非核保有国の国と市民社会が主導してきたことに特徴があり、核兵器そのものと核兵器への依存を「悪」として、世界の常識そのものを塗り替えていくことを構想しているものである。
国連で採択されたときの議場は、熱気にあふれ、スタンディングオーベーションがつづいたそうです。苦難に耐えてきた広島、長崎をはじめとする被ばく者の声が世界を動かしてきたことが条約の土台になっているそうです。
これまで注目されてこなかったコミュニティ、文化、伝統の破壊、ずっと続いてきた農漁業の営みが奪われ、支給された食べ物によって引き起こされた肥満や糖尿病などの健康の問題などについても、被害のレポートなどをまとめ基金をつくっていくことが決まっており、どれだけ具体化できていくかが議論されている現状が紹介されました。オブザーバー参加しているドイツからもフェミニストの観点からの被害者援助、女性女児への放射線の影響の調査などへの協力の申し出などがあり未批准国であってもさまざまな協力ができることが示されました。
中村さんは核兵器禁止条約を漢方薬に例え、即効性はないがじわじわと効果を発揮すると述べ、核兵器製造企業への銀行融資にも影響していることや、国際的な議論の場でも、賛成反対を越えて人類的な問題として、人権、環境、ジェンダー、SDGsの考えがあたり前になってきている変化についても触れられました。
最後に中村さんは、核兵器禁止条約を手塩に育てていき一人前にみんなで育てていくことが大切、日々何度も落ち込むことも多いが核廃絶に向けて新しい変化は着実に起きていることを知ってほしいと訴えました。
現在大学生の大内由紀子さんからは、被爆地広島、長崎出身の大学生でつくる市民団体「Connect Hiroshima」(コネクト・ヒロシマ)のとりくみ、
TPNW(核兵器禁止条約)第2会締約国会議への参加などについて報告いただきました。
広島出身で元高校生平和大使として核兵器廃絶にとりくんできた経過、第1回締約国会議にも参加するなかで交流した海外の人びとからも刺激を受け、日本政府がTPNWへのオブザーバー参加を求める署名を展開し4万3288筆を外務省へ提出してきたこと、昨年ニューヨークで開催された第2回締約国会議では市民社会の枠で発言したほか、現地での若い世代の交流イベントやさまざまな集会に参加したことが報告されました。さらに第3回締約国会議(2025年3月開催予定)に向けて日本政府への働きかけを準備していることが報告されました。
女性だけの行動-長野駅前で第2回フェミブリッジ・アクション
信州市民連合の女性のみなさんが中心となって3月17日、長野駅前で13時から14時までの間、第2回フェミブリッジアクションが行われました。女性議員や市民団体関係者など女性だけで約20人が参加しました。
街頭宣伝では、日音協県支部の音楽サークル「ジグソーパズル」の2人が「花はどこへ行った」「翼をください」の2曲を歌い、参加者にもマイクがまわされ一緒に合唱しました。
司会進行は、松澤佳子・信州市民連合共同代表と中村雅代・小布施町議会議員、主催者あいさつは、堰免久美・信州市民連合共同代表が行いました。
参加してアピールしていただいた議員は以下の通りです。
和田明子・県議会議員、竹村直子・県議会議員、丸山寿子・県議会議員、野々村博美・長野市議会議員、原洋子・長野市議会議員、清水みき枝・小諸市議会議員、中村雅代・小布施町議会議員。
今年1月1日に発生した震度7の能登半島地震によって、北陸電力・志賀原発敷地内外で施設被害が発生し、1・2号機の変圧器2機が破損し、電源の2系統が使えなくなるという事態が発生しました。かろうじて残る1系統の電源で燃料プールを冷却しなければならなくなり、一歩間違えば重大事故の可能性すらありました。また、モニタリングポストも18ヵ所が故障し、測定できなくなりました。放射性物質の敷地外の漏洩監視という重要な機能が失われることは深刻な問題で、これも「想定外」でした。
今回の地震は、複数の断層が連動した可能性があり、これも「想定外」です。それにより能登半島各地で道路の寸断、土砂崩れ、隆起・陥没などが発生し、救援活動に大きな障害をきたしています。放射能漏れなどが起きなかったことは幸いでしたが、万が一起きた場合は、避難や救援がさらに困難になることは明らかで、避難計画を根本から見直すべきです。
地震大国の日本列島に原発は必要ありません。一刻も早く脱原発社会にかじを切らないと、福島第一原発の大事故の悲劇が繰り返される危険性が高まっていきます。
今年3月11日は、東日本大震災・福島第一原発の大事故から13年にあたります。県内でも各地で集会やデモ行進、学習会が行われました。ここでは、長野市、松本市、塩尻市、伊那市での集会やデモの取り組みについて報告します。
◆長野市 福島県浪江町からの避難者からの訴えも
3・10脱原発長野行動実行委員会が主催する「3・10脱原発長野行動」が、3月10日、ながの表参道セントラルスクゥエア(長野市)を会場にして開催されました。県内の脱原発運動にかかわる市民を中心に約240人が参加しました。集会後には長野駅前まで脱原発などを訴えるデモを行いました。
東京電力福島第一原発事故から13年が経過しても、なお廃炉の道筋は見通せず、緊急事態宣言は発令されたままです。集会では、脱原発共同学習会の細野正昭さんから柏崎刈羽原発運転差止訴訟について報告をいただきました。原発避難当事者の瀬尾誠さんからは、福島県浪江町から避難してからの思い、原告としてたたかう避難者への補償を求める裁判について訴えていただきました。
◆松本市 集会前に能登半島地震と原発の学習会を実施
3月10日午後1時30分から松本市内の花時計公園で、脱原発信州ネットワーク・松本が主催して脱原発松本集会「つながろうフクシマ・広げよう脱原発・とめよう再稼働 サラバ原発長野県大行進in松本」を開きました。集会には約200人が参加。冒頭に能登半島地震犠牲者と東日本大震災・原発事故犠牲者に黙とうをしました。小出裕章さん(元京都大学原子炉研究所助教)、中垣たか子さん(北陸電力と共に脱原発をすすめる株主の会)、武本和幸さん(刈羽村議、原子力資料情報室理事)が発言。小出さんは「原子力緊急事態宣言は未だ解除できていない。誰も責任を取らずに13年がたった」などと話しました。その後、参加者全員で集会宣言を確認。デモ行進には約150人が参加しました。
午前中には松本市駅前会館で、中垣たか子さん(北陸電力と共に脱原発をすすめる株主の会)、武本和幸さん(刈羽村議、原子力資料情報室理事)を招いて能登半島地震と原発について学習会を行い約100人が参加しました。
◆塩尻市 40人が原発再稼働反対をデモ行進でアピール
3月9日、脱原発、再稼働反対!大行進2024in塩尻集会を駅前で開きました。寒い中、約40人の方が参加され、駅前から市内を、原発はいらない、とシュプレヒコールをしながら行進しました。
◆伊那市 集会後に能登半島地震と志賀原発について学習
3月10日、フクシマを忘れない上伊那アクションをいなっせ北側広場で行いました。会場には90人の仲間が集い、「へなちょこバンド」と「うたごえサークル」の皆さんがまず会場を盛り上げ、主催者を代表して向山光実行委員長があいさつしました。向山氏は「原発の危険性を改めて国民が認識しなければならない。また能登半島を襲った1月1日の地震についても1970年代に2カ所で原発計画があったが、現地の皆さんが結束してこの計画を阻止させた」などと強調しました。その後、4人からリレートークをいただき、集会アピールを確認して一部の集会は終了しました。
2部として、いなっせ研修室に場所を移して、河本和朗さんから「地震のメカニズムと浜岡原発の影響」と題して講演をいただき、続いて、河田昌東さんから「能登半島地震と志賀原発の現状」と題して講演をいただきました。講演には60人を超える参加者があり、終了後いくつも質問を受け、地震の怖さを皆さんが感じていることがうかがえました。
3月11日、いまだ解除されていない原子力緊急事態宣言が発出された19:03に、40人もの方がスタンディングに参加してくれました。
13年が経っても元に戻るどころか、健康被害を訴えて裁判を起こしている若者がいる現実やいまだ苦しみを負う人たちがいます。私たちに何ができるのか、そんな傷ついた心への癒しになれば、という思いで企画されました。参加者の中には8人ほどの若者もいて、マイクで「311のことは決して忘れません。」「がんばって」と話し、とても素敵な時間となりました。ありがとうございました。
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