21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

被爆79周年原水禁世界大会(長崎)~長野県代表団報告~

今年も長野県原水禁は、8月7日(水)8日(木)9日(金)開催の「被爆79周年原水爆禁止世界大会・長崎大会」に参加した。

長野県からは、自治労、レゾナック労組大町支部、上伊那地区、長野地区、県原水禁と、それぞれの団体から総勢9人が参加。今回は小学生が1名参加するということで、若い人に被ばくの実相を見てもらうことはとてもいいことだとあらためて感じた。昨年の台風とは打って変わって天気にも恵まれ、三日間の行事が無事に滞りなく行われるようにと祈りながら出発した。

長崎空港→開会式会場へはリムジンバスで移動

開会式会場到着。全員で記念撮影

 

8月7日(1日目)

長崎市・ブリックホールにおいて「被爆79周年原水爆禁止世界大会・長崎大会」開会行事が行われ、約1000人が結集した。開会行事では、主催者を代表し川野浩一・共同実行委員長があいさつ。5歳で被爆し、現在84歳。自身の体験を振り返りつつ、被爆の記憶も意図的に消されようとしているとしか思えない日本の状況があり、戦争への反省やそれに基づく憲法もないがしろにされているとした。核兵器禁止条約(TPNW)の締約国会議には日本政府はオブザーバー参加すらしていない。そのうえで「橋渡し役」などと自称する岸田首相を批判した。日本こそが核廃絶の最先頭に立つべきであり、そのために政治を変えよう、ともにがんばろうと訴えた。

今年も高校生平和大使の皆さんに大きなパワーをいただいた。

「原爆許すまじ」を斉唱し、閉会

 

行事終了後、昨年同様、全員で路面電車に乗り宿泊先へ移動した。

今年は、宿泊先が2カ所に分かれてしまったが、参加者の皆さんのホテル(長期滞在型マンションタイプ)の感想は思いのほか、よかったので事務局としてはホッと一安心した。夕食会場は賑やかな宴となり、明日の分散会に備えて一次会でお開きとなった。

一日目の夕食懇親会

 

8月8日(2日目)

2日目は、分科会やフィールドワークが中心になるので、各自が希望する会へ参加した。

第1分科会 平和と核廃絶Ⅰ-世界の核軍縮

第3、4分科会会場

第3分科会講師 原子力資料情報室 松久保肇さん

第3分科会 真剣に聞き入る参加者の様子

第3分科会講師 アワープラネットTV 白石草(はじめ)さん

第3分科会 福島原発事故の当時の報道について話す白石さん

フィールドワーク:佐世保港内クルージング

フィールドワーク:子どものひろば

子どものひろばに参加した小学生の参加者

午後は唯一の自由時間のため、思い思いに過ごした。

めがね橋

港に停泊していた豪華客船

夜の長野県団の夕食交流会の際に、日本被団協・事務局長の木戸季市さん(84)さんとフォトジャーナリストの安田菜津紀さんをお見掛けし、勇気を出してお声がけしたところ、気さくにお話していただいた。その中で、当時の被ばく体験について詳細に語ってくださった。五歳のころ、爆心地から2キロのところで被ばくし、顔にやけどし爆風に飛ばされ、翌日逃げて爆心地の近くを通ったら死体がゴロゴロしていたこと。毎年ニューヨークで行われる核兵器禁止条約の会議に参加し被ばく者として訴えていることなど。また、なぜ被ばく者の方が10年経って初めて自分が被ばく者だと認識したのかについて質問したところ、当時、原爆がなんなのか分からなかった。アメリカ政府の隠蔽・弾圧、日本政府の遺棄、見捨てたことにより、分からないまま10年間が過ぎた。少しずつ分かるようになったのは、ビキニ事件からでそれまではなぜ具合が悪いのか、なぜ死んでいく人がいるのか、何が何だかわからなかった。この話は、当時を知り経験した人のリアルな証言だと感じた。木戸さんは、いま、あと10年生きれるか分からない84歳になった人生の仕上げとして、世界から核兵器をなくすために活動をしている。そう熱く語ってくれた。福島原発事故を経験した自分には、すべて繋がっていると感じた瞬間だった。私自身、高校生平和大使とともに、「微力だけど無力ではない」活動に邁進していこうと思った。

2日目の夕食交流会で、なんと日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の木戸季市事務局長とフォトジャーナリストの安田菜津紀さんとばったり

木戸さんから貴重な被爆体験のお話を聞くことができた。

夜景を見に出かけた参加者から。美しすぎる。

サンデーモーニングのコメンテーターでも有名な安田菜津紀さん。とても気さくで笑顔が素敵な方という印象。

8月9日(3日目)

3日目は、朝7:30に集合して慰霊碑参拝へ。路面電車に乗りみんなで向かったのは、竹の久保、梁川(やながわ)公園。朝から暑いと感じる。79年前の原爆が落とされた朝も、こんな風に暑かったのか・・・そんなことを想像しながら歩いた。公園に到着後、参拝して集合写真を撮った。恒例のリンゴジュースを持参して地域の方へお渡しした。

    

参拝を終えて、バスで閉会式会場へ向かう。土地勘がないため、慣れない路線バスにちょっと不安だったが、地元の方に聞きながら会場へ無事に到着。閉会式終了後、爆心地公園まで行進した。途中、長い行進の様子に圧倒される。爆心地公園隣の平和公園で祈念行事が行われていたが、残念ながら当日の自由参加は不可で立ち入ることはできなかった。爆心地公園に戻り、11:02に黙とうをして当時に思いを馳せた。

              

帰りの集合時間までは、それぞれ原爆資料館を見学したり、昼食を摂るなどして自由行動。

    

空港では、短い時間だったがお土産を購入したり、飛行機の離陸する様子を見たり。帰りの飛行機が世界に一台のレアだったのも、嬉しかった参加者たち。

    

最終日は九州で大きな地震があり南海トラフなど一時期不安になったが、無事に羽田空港に到着して安堵した。振り返るとあらためて実りある長崎となった。これも参加者の皆さんのご協力のもと、特に大きなトラブルもなく帰り着くことができた。感謝申し上げます。ありがとうございました。

※解散後、東京駅は地震の影響で東海道新幹線がとまり、お盆休み前とでごった返していた。また、上伊那組は予約していたバスが運休となり、急遽新宿で後泊せざるを得ず、翌日まで足止めをくらった。

 

~参加者の感想~

・未来の子どもたちに平和をつくる想像力を…
戦後80 年 を迎えようとしています。この 年月の中でどれだけのことを知り得て、どれだけのことを後世に伝えることができたのか。 そして、 戦争を知らない私たちが、戦争という過去の愚かさ、悲惨さを 次世代へ どう伝えていくか。ずっと平和な日本を、そして平和な世界を築き上げるためには、過去の歴史をしっかりと学び、 戦争を知ることが大切だと思います。原爆が落とされた広島と長崎、激しい地上戦があった沖縄、日本が侵略した中国…。何があったのかを知り、そこで私たちと同じ「人」がどれだけ惨い 思い をさせられたのか想像できる材料を提供していくことが、 未来を担う子どもたちのために 、今を生きる我々の使命、 大人が 負うべき 責任ではないでしょうか。戦後 、築き上げてきた日本の平和も今大きな曲り角にあるといえます。だからこそ、次の時代を生きる、子どもたちの 平和で幸せな 未来のために、自分に何ができ 、やるべきことを考え行動することでき るのかを考えて 行かなければならないと 思います。今私たちが享受する平和は、過去の戦争により家族や仲間、自分の今私たちが享受する平和は、過去の戦争により家族や仲間、自分の人生を失った 多くの人の哀しみや 痛みのうえに維持されてきたということ 。そして平和は、その時その時を生きる「人」がつくり出さなければ維持できないということ 。 あらためて考える機会に 、そして多くの世代に伝えていきたいと思います。戦後100年も平和である日本を願って。

・<平和の大切さを思う>
空襲警報が鳴り響いて原爆は多くの人々の尊い命をうばい、町を破壊しました。かろうじて生き残った人々も原爆症などの身体的な障がいのほか、家族や大切な人を亡くした深い心の傷を持って生いきています。原爆投下・終戦から79 年が経って、被爆者の年齢も平均年齢は 85.58 歳ということです。少しずつお話することが難しくなっています。直接話を聞くことができる 時間も残りわずかです。 体験談を聞き、戦争の悲惨さと平和の大切さを感じました。未来を生きていくぼくたちが、 2 度とこのようなおそろしい戦争をおこさないようにするために 、 みんなで考えることが大事だと思います 。 そして、平和な毎日が送れる ことに感謝しないといけないと思いました。大会を通じて、改めて戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさを痛感しました。分科会で学んだ「被爆体験を、体感する」ことが、二度と核兵器を使用しないために大切なことだと思いました。大会を通じて沢山の人の思いに触れ、とても勉強になった2日間でした。

・世界に目を向けると決して平和とは言えません 。平和の祭典と言われるオリンピックがパリで開催される中でも、 戦争が続き、今この時も罪のない多くの命が失われています。来年は、 被爆80周年を迎え、終戦から80年 が経とうとしています 。もう一度 、 命の大切さや、 本当の安全や安心、平和について立ち返るときだと考えます。被爆者の平均年齢は8 5 歳を超え 、 生の被爆証言を聞けなくなる時代が現実的になってきました が、 高校生平和大使などの活動で次世代継承が行われ 、 力強い未来を感じることができました。今後も廃絶に向け 原水禁運動に 取り組み 、 声を上げ 、更なる運動の進展に向け多くの声で、必ず日本政府を、国際社会を動かすことを目指していきたい です 。

・一番印象に残ったのは、30年前には無かった、高校生平和大使の皆さんの活動に触れたことで、高校生達の「この活動は微力だけど無力じゃない」という言葉でした。平和を願う思いが高校生達にしっかりと引き継がれ、地道ではあるけれど草の根運動が着実に継続されていることを実感しました。これは、平和運動に限らず組合運動全般に通じることだと思っており、今回経験したことを地区や職場の仲間に広げていく事の大切さをあらためて感じ、自分を見つめ直す機会にもなりました。

・佐世保の街を歩いて感じたのは、原爆投下の前日でありながら、悲痛な重い空気が漂う長崎市の雰囲気とはあまりに違うこと。それは、1時間足らずしか見れなかった為にわからなかっただけかもしれないし、戦後も米海軍の基地と共に生きて来ざるを得なかった佐世保だからなのかもしれない。

・実際に現地に赴き、話を聞いたり、その地を見たりすることで 戦争の悲惨さをより現実的として捉えることにより、絶対に繰り返してはならないことだと 痛感しました。私は昨年、沖縄平和行進に参加させていただきましたが、その際も同様に感じました。 戦争、核のない平和な世界を願います。また、こうした経験を上伊那地区労組会議、出身単組に持ち帰り、伝えていきたいと思います。

・個人的に行政として、市民に寄り添わずに国の判断に従う形で物事を進めている事に非常に違和感を感じた。(何らかの圧力や政治的背景、経過等がすごく気になる)単純に一番身近な市が味方でなければ、誰が味方になり得るのだろうか、客観的に見て非常に違和感。

・今回、原水爆禁止世界大会に参加させていただき核兵器の恐ろしさ戦争の破壊力を身近に感じ、廃絶の必要性を改めて感じました。この会に参加することで世界中の人々が核の廃絶、平和を求めて連帯している姿を目の当たりにし、希望を感じることができました。核兵器廃絶の取り組みは決して容易な道ではないですが、大使の方々のスローガンのように「ビリョクだけどムリョクじゃない」という想いを胸に一人一人が声を上げることが重要だと改めて認識しました。原水爆禁止世界大会への参加は、自分の考えを深め平和への思いを新たにする貴重な経験になりました。ありがとうございました。

 

柏崎刈羽原発の再稼働を許さない

毎月一回第4水曜日長野駅前で、脱原発共同学習会に参加しているメンバーがスタンディングを行っています。

先日の新聞に、岸田首相が柏崎刈羽原発の再稼働について閣僚会議を来週開くことを決めたとありました。地元の同意が欠かせない柏崎刈羽原発の再稼働を、地元が求めている避難路の整備や地域振興策の中身を詰めて、なんとか退陣前に再稼働への道筋をつけたいそうです。

「残された任期の間に、GX、グリーン・トランスフォーメーションを一歩でも前進するために尽力する。その一つが原発の再稼働の準備だ」と言及しました。

この方は、本当に・・・国民ではなく、いったい何に向かって動いているんだろう。

2011年に福島原発事故が起きたことによって、原発はいったん事故が起きたら、とてつもない大惨事となる。原発は人間に制御できないものであり、いつもそこには命の危険がついて回る、そういうエネルギーであるということ。そして、あまり考えたこともなかったけれど、東日本大震災の発生前、日本には54基の原発があり、日本で使う電力の30%前後を原子力で賄っていたこと。ここにも、そうここにも原発があることを知りました。これだけの危険がはらんでいるエネルギーが思いのほか、自分たちのすぐ近くにあったのか、そう思った人も少なくはないと思います。

そして、今年3月(16、17日)実施の毎日新聞世論調査で原発再稼働への賛否を聞いたところ、「反対」が45%で「賛成」の36%を上回りました。2022年5月と23年3月に同じ質問をした時には賛成の方が多かったが今回、賛否が逆転したとのことです。元日の能登半島地震で原発のリスクが再認識された可能性がある、と報じていました。この報道に、国民世論は、やはり原発は危険なものであり、できるのなら違うエネルギーで賄いたい、そう感じているように思いました。

にもかかわらず、岸田首相のやっていることは、まったく真逆のことのように思います。日本政府がドイツのように国を挙げて、再生可能エネルギーに舵を切れば、自ずと経済も企業も変化していくはずです。すでに原発は「斜陽」と位置付けて、再エネへ進みだしている企業や自治体もあります。

ここ長野市から100キロも離れていない新潟県の柏崎刈羽原発は、総出力が821万2千kWで1つの発電所としては世界最大級の原発です。また、新潟県は積雪量が多い地域。元日の能登半島地震で、避難計画は絵にかいた餅であることが露呈しました。このことから柏崎刈羽原発の再稼働は、私たち長野県民にとっても、決して他人ごとではないのです。

台風、河川の氾濫、地震、土砂災害などなど、災害が後を絶たない昨今、今一度、ご家族や身の回りの方たちとこれからの日本を担う、子どもや孫世代のために、エネルギーの未来について話してみるのはいかがでしょうか。

 

次回のスタンディングは、9月25日(水)17:30~長野駅前(東急レイホテル前)です。どなたでもご参加大歓迎です。一緒にスタンディングで再稼働反対を訴えましょう!

 

 

311 子ども甲状腺がん裁判第10回口頭弁論を傍聴して

東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた男女7人が東京電力に損害賠償を求めている「311子ども甲状腺がん裁判」の第10回口頭弁論が6月12日、東京地裁で開かれた。 

弁護団長の井戸弁護士

この日は、大法廷の一般傍聴席が86席に対し、191人が傍聴券の抽選に並んだ。地裁前の裁判前集会には平日であるにも関わらず160人が集まった。この裁判の注目の高さがうかがえる。

今回も多くの支援者が東京地裁前に集まった。

裁判の行方について話す副弁護団長の杉浦ひとみ弁護士

京都訴訟で闘う若き原告

前回の期日前から、順次提出する予定だった原告一人ひとりの陳述書と精神科医による意見書。その提出が再び留保となった。理由は、原告本人が法廷でこの主張の内容を説明することを求めていたが、裁判所が認めなかったとのこと。

弁護団によると、原告側は、口頭弁論に先駆けて開かれた進行協議で、原告の弁論を認めない裁判所の対応は法律に反すると指摘。原告本人による陳述を認めない理由を、法廷の場で説明するよう裁判所に求めたところ、裁判所が態度を軟化させ、書面内容から逸脱しないことを前提条件に、次回期日以降、原告による陳述を認める可能性を示したという。このことから、弁護団は原告の個別の書面提出を次回に延期し、次回の期日で原告による意見陳述を行なっていきたい考え。

原告側は今回、UNSCEAR(国連科学委員会)を批判する書面4つを提出。一方、東電は反論の書面1つを提出した。裁判所の方針で、原告は次回の期日で、因果関係などに関する主張は全て出し切る予定だという。なお、原告の一人が提訴を取り下げ、原告は6人となった。

ずっと縁の下の力持ちでこの集会を支えてくれている笠原さん。原告とは同世代。

女優の斉藤とも子さんも応援にかけつけた。

環境広告サステナ代表のマエキタミヤコさん

 

次回の第11回口頭弁論期日は9月11日(水)に予定されている。今後も311子ども甲状腺がん裁判を引き続き注目し、応援していきたい。

最後に、長野県国労家族会さんからのカンパ金をお預かりし、お渡ししてきた。井戸弁護団長のお父様がなんと国労組合員だったとのことで、「私自身が国労家族会のメンバーみたいなもの。大阪の宮原電車区で、当時の国労の集会で講演をしたことがある。父親のこともあり懐かしく話をした。こうしてご縁がつながり、とても嬉しく思う。大切に使わせていただきます。」という御礼の言葉をいただいた。

不思議な巡り合わせに、また勇気をもらった。団結してガンバロウ!

国労家族会さんからのカンパ金を井戸弁護団長にお渡ししてきた。

 

 

 

 

信州市民連合と立憲・共産・社民の県内3野党が政策合意

自公過半数割れめざし総選挙で共同して戦う方針も確認

候補者調整・一本化に向けて努力する方向性も打ち出す

共同のテーブルには約40人の関係者が参加した

記者会見の最後に4人が固く握手

違憲の安保法制の廃止や岸田政権の軍拡政策に反対する活動を進めている信州市民連合は7月31日、長野市生涯学習センターで約40人の参加者を集めて、「信州市民連合と3野党との『共同のテーブル』」を開きました。

信州市民連合は昨年夏以降、立憲民主党、日本共産党、社会民主党の県内3野党と総選挙において市民と野党が共同で掲げる政策について意見交換を重ねてきました。政策内容について3野党と合意ができて「共同のテーブル」を開く運びとなりました。

「共同のテーブル」には、立憲民主党県連代表の杉尾秀哉氏(参議院議員)、日本共産党県委員会委員長の鮎沢聡氏、社会民主党県連合代表の中川博司氏(県議会議員)が参加しました。

まず、主催者を代表して又坂常人・信州市民連合共同代表(信州大学名誉教授)があいさつ。又坂氏は「岸田政権は、米軍と自衛隊の一体化、自衛隊の米軍の下請け化をいっそう進めている。この国会では、地方自治体への国の指示権を認める地方自治法の改悪を強行した。中央集権的な国家の介入を容認する改悪法だ。ダッチロール状態の岸田政権に一刻も早く終止符を打ち、本当に国民の意思を代表し 新しい未来をひらく政権をつくろう」と強調しました。そして又坂氏は「そのために総選挙で与党の議席を1つでも2つでも3つでも減らす必要がある。少なくとも与野党が拮抗する状態に持っていって、最終的には政権交代をするという戦略的な考えをぜひ野党には持ってもらいたい。そして、手始めとして小選挙区で候補者の一本化を図っていただきたい」と市民と野党の共闘で戦う方向性を求めました。さらに又坂氏は「候補者調整と同時に、政策の一致が求められる。今日の共同のテーブルで3野党に手渡す政策要望書を尊重して活動してもらいたい」と述べました。

その後、3野党にそれぞれ信州市民連合の「政策要望書」と「基本政策」が手渡されました。

杉尾秀哉・立憲民主党県連代表

あいさつに立った杉尾秀哉・立憲民主党県連代表は、「信州市民連合より受け取った政策要望書については、最大限私たちの要望も聞いていただき、納得できる内容にまとめてもらって感謝する。これからの解散総選挙、国政での活動ではこの政策要望書の内容を尊重して行動していく。長野県では、私も2016年に最初に市民と野党の共闘で一本化をしていただき国政に送り出していただいた。それから参議院では4回の選挙で連勝をした。『長野モデル』の勝利だった。残念ながら衆議院の2021年の総選挙では、長野モデルが県民に十分な理解を得られず勝利することはできなかった。その反省の上に立って、今回、 政策要望書で次の解散総選挙で立憲野党の候補者一本化と市民と野党の共同を進めて当選を目指すことを要望されている。候補の調整、一本化を心から期待したい」などと述べました。

鮎沢聡・日本共産党県委員会委員長

日本共産党県委員会の鮎沢聡委員長は「信州市民連合の皆さんが、市民と野党の共闘で政治を変えるために、 共闘の旗印となる政策要望書にまとめていただき敬意を表する。裏金問題はじめ政治腐敗、国民の暮らしの破壊と平和の破壊が一体で進められている自民党政治はもう完全に行き詰まっている。国民は自民党政治を見限り、政権に退場を突きつけている。今声を上げれば自民党政治を変えられる歴史的なチャンスだ。今回の政策要望書は、その希望の方向を示している。市民と野党の共闘を本気の共闘にしていこう」などとあいさつしました。

中川博司・社民党県連合代表

社会民主党県連合の中川博司代表は「今日の政策要望書を社民党も全力を挙げて実現に向けて努力をしていく決意だ。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻を目の前にして、私たちは 無力感を感じざるを得ない。今起きている戦争を私たちが止められない。本当に毎日幼い命が奪われていくことに心が痛む。しかし、私たちには力も金も名前もないが、手を繋ぎ声を出していくことはできるはずだ。今の自民党政治を一刻も早く変えるために全力を尽くしてまいりたい。信州市民連合が作ってくれたこの共同のテーブルを前に動かして、一刻も早く候補者の一本化、戦う体制を作っていこう」と強調しました。

共同のテーブルではこのあと参加者と意見交換を行いました。また、多くのマスコミ関係者が取材していましたので、共同のテーブル終了後には、信州市民連合と3野党が共同記者会見を開きました。

信州市民連合が3野党に提出した「政策要望書」「基本政策」/信濃毎日新聞記事(2024年8月1日)

311のキャンドルナイト報告会

共同代表 アイリーン・美緒子(みおこ)・スミスさん、白石草(しらいし・はじめ)さん、マエキタミヤコさんらと他数十人の呼びかけ人により、今年初めて立ち上げられた癒しのイベント「311のキャンドルナイト」。長野市でも約40人が長野駅前でのスタンディングに参加し、静かに心を寄せた。また、3月11日当日は全国で、それぞれ思い思いの形で執り行われた。

6月11日、zoomとリアルで報告がされた。

 

アイリーンさん:きぼうみらいミナマタ、相思社他6人で水俣で開催。福島原発事故のあと、何度も福島へ行っているので、繋がっていたいという気持ちがある。

京都:木津川の皆さんはカフェで開催したところ、新聞報道がされた。

日光:原発反対栃木の会。会場をどこにするか悩んだ末、キャンドルを使うので消防に届けを出し、ウッドデッキで行った。とてもよかった。

長野(伊那市):古民家で5人でキャンドルを灯して、いろいろなことを語り合った。

名古屋:原発ゼロ名古屋アクション。2023年も独自で開催。栄の公園にて、地面に311とキャンドルを並べて語り合った。19:03にホイッスルを鳴らした。参加者はいろんな世代で、都会中心の避難者など20~30人。

 

東京:東電前に300人。いつもの東電前のデモだと、アピールがメインなので、静かに訴える今回は好評だった。

東京:ママデモで活躍した方。

三鷹:上野千鶴子さんが参加してくれた。毎年、駅前で311キャンドルやってる。歌ったりしている。40~50人立ち止まってポストイットにメッセージを書いてもらったりした。

新潟:2家族でこじんまり。中学生と小学生の子どもたちと。自宅のリビングでキャンドルのみの灯りで、人生が変わったことなどを話した。避難してよかったのか・・・など。

FOEジャパン:福島は今野寿美雄さんのツアーに参加。双葉屋旅館、俺たちの伝承館の皆さんとキャンドルナイト。「ワタシのミライ」では、気候変動対策について9/22.23国連未来サミットが行われる。

徳島:コープ自然派しこく。脱原発を掲げて活動している。

青森:実家に小学生を集めて学習会。保護者も来てくれて語り合った。忘れてはいけないと確認した夜だった。

東京:放射線測定室アスナロ、通称「ラボ・アスナロ」。原発事故後、現在も福島の子どもたちの保養を行っている。

マエキタさん:中目黒デモプラTVで心を寄せるキャンドルナイトを行った。

白石さん:東京駅の駅前で若者中心にキャンドルで311を作って行った。

長野(長野市):長野駅前で約40人がスタンディング。癒しのイベントなので、いつものように声高に訴えるのではなく、優しいBGMとキャンドルに見立てた「311を忘れない」灯りを持って静かに訴えた。男子高校生5人のグループや20代前後の女性2人組などの一般人の飛び入り参加もあり、それぞれ「あの時のことは決して忘れない」「がんばってください」とマイクで発言してくれたのが印象的だった。地元のテレビ局の生放送や新聞報道もされ、少しでも知ってもらえる機会になったなら嬉しい。

他にも、来年に向けてのアイディアとして、各地域のシンボリックの前で行うのもいいのでは?とか、来年は海外にも広めよう!時差があるので、19:03が繋がっていく感じはどうか、などの意見が出た。

また長野市の報告に対して、若者の飛び入り参加や地元テレビ局の放送に、「すごいですね」「参考にしたい」や驚いている様子の感想もありとても反応がよかった。

渡辺一枝さん主催の今野寿美雄さんと行く福島被災地ツアー

2024年4月5日(金)、6日(土)、7日(日)の三日間、渡辺一枝さん主催の福島被災地ツアーが行われた。私を含め女性4人での参加。そこには、原発事故から13年が経ち、知らないうちに大きく変容していっている福島があった。住んでいた住民をほったらかしにして国家プロジェクトが進められている被災地の現状に、どうにも頭が付いていかないという感じだ。

 

浪江町津島の帰還困難区域

まず最初に向かったのは、浪江町津島の帰還困難区域。ナビゲーターの今野寿美雄さんのご実家を見学させてもらう。今野さんは原発技術者で、311当時は原子力関連の電気設備や機器の点検作業にあたっていた。被災後は「子ども脱被ばく裁判(親子裁判)」の原告団長でもあり 他の原発関係訴訟の支援もしている。

帰還困難区域に入ると、車中で0.82マイクロシーベルト。

今野さんのご実家の中。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰還困難区域に入る前に、スクリーニング場で防護服等に着替える。フクイチの5号機内を見学した時ほどではないものの、まあまあの物々しい雰囲気に緊張する。全員が着替え終わるといざ出発。数値が0.3マイクロシーベルトを超えると音が鳴るように設定してある線量計が車内で鳴り始めた。(※この辺りの事故前の放射線量は0.04マイクロシーベルト)その音以外は、緑が美しい平和そのものの野山の風景がそこにあった。そのギャップに戸惑いながらも車は進んでいく。ご実家の中での線量計の数値は1.46マイクロシーベルト。内部は、野生動物が入ったそうで荒らされていた。先祖代々の遺影が飾られてあり神棚も立派で、大きなおうちだったことがわかる。ここに残されたものは、汚染がひどいため持っていけなかったもの。それでも位牌だけは持ち帰ったそう。今野さんの長兄が継いで牧場を経営していたので、住宅の隣には牛舎があった。牛はすべて遠くの牧場に引き取ってもらったそう。

カレンダーは2011年3月

牧場を経営していたご実家の敷地には大きな牛舎があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

今野さんのご実家での滞在1時間で浴びた積算線量は0.7マイクロシーベルト。毎時3.8マイクロシーベルト(μSv)浴びると年間被ばく線量20ミリシーベルト(mSv)に相当するそうだから、この1時間ですでに一年の五分の一を浴びたことになる。放射線・原子力利用を行う操業者は、事業所境界の住民に対して年間1ミリシーベルト(mSv)を超えることがないように操業責任を課しているのだから、相当な線量を浴びたことになる。13年経ってもいまだにこんなに線量が高いことにただただ驚くばかりだ。当時は、すぐ近くの浪江高校津島分校が避難所となっていて、15日朝まで学校には8,000人が避難していた。その後、線量が高いことが分かり全町避難となった。高校を過ぎたところで、線量は0.29マイクロシーベルト。フロント部分に「除染土壌(大熊)」のプレートをつけたダンプカーが走っている。大熊町の中間貯蔵施設に搬入しているという。また、2015年に設立された広野町のふたば未来学園は、「双葉郡の学校教育の復興を目指して創設された中高一貫の県立校。令和2年度より文部科学省「地域との協働による高等学校教育改革推進事業(グローカル型)」の指定を受け、地域企業との連携や国際交流を取り入れた教育・学習を実践してきました。」とあるが、今野さんに聞くとここは 廃炉の人員育成の学校だそう。有名人の講師を呼んだり寮も完備されている。イノベーションコースト構想の一環なのだろうか。

このフレコンバックの山は、汚染が高い帰還困難区域のもの

4キロに渡る太陽光発電システム。

車中から見る耕作不可の土地には、4キロに渡る太陽光発電システムが広がっていた。大和エネルギー(株)による電気畑という。これも関東に行く電気で、ここはもう自然には返せない場所となってしまった。

 

浪江町役場と復興住宅

浪江町役場のすぐ隣には真新しい全10戸の復興住宅ができていた。8戸が入居していて、うち2戸がもとからの町民、残りの6戸は主に都市部からの移住者だという。浪江町の人口は、事故前2万1000人だったのが現在2000人(1000人がお年寄り、1000人がいずれかの企業などの従業員)。住む人がいなければ行政が成り立たないのは確かだが、何も知らずに子どもを連れて移住してきた母親は、近隣の線量の高さに驚いたそう。葬祭場は新しくなったが、双葉町の自動車教習所は子どもがいないので、大型免許や重機の免許をとる大人のみの利用となっている。

浪江町役場

町役場となりの全10戸の復興住宅

近くにできた「ふくしまいこいの村なみえ」という施設は、大浴場やカラオケルームを備えた宿泊施設。コテージタイプの宿泊棟はかつて仮設住宅として使用されていたものを移設。中庭では、BBQが楽しめるほか、集会所では雨天時のコミュニティスペースとして活用できる。企業の社員研修などに使われているが、公園の汚染がひどいとのことだった。

ふくしまいこいの村なみえ

バリケード通りの線量は、0.13マイクロシーベルト。

 

しばらく行くと、オリンピックの聖火ランナーで話題になった双葉駅が見えてきた。その向かいには、13億円をかけて作られた双葉町役場。そこにはイノベーション構想の一つ、水素で走る移動販売車が停まっていた。ただ、この立派すぎる施設をどれだけの町民が利用するのだろう。お金のかけ方がまったく解せないと感じてしまう。

双葉駅とコミュニティセンター

駅の向かいにある双葉町役場。水素で走る移動販売車が停まっていた

 

双葉町産業交流館と東日本大震災・原子力災害伝承館

しばらくして車は、双葉町産業交流館に到着。屋上にのぼって、フクイチや中間貯蔵施設など周辺一帯をを⽬視する。屋上からは、津波ですっかり流されてしまった請戸地区も確認できる。断層が3メートルずれて、70センチの地盤沈下が起きたため、小高地区の山を削ってその土をかさ上げした。山を削っての環境破壊、自然をないがしろにする人間の傲慢さがここにも垣間見える。請戸小学校の一角に置かれた複数のカエルの石像。カエルの視線の先には福島第一原発。「こいつらが原発を〝監視〟している」これは避難した人が抗議の思いを込めてここに置いた「帰れないカエル」だ。請戸港には500件の家と田んぼがあった。以前の姿を知る今野さんにとって、更地だらけの光景はどう映るんだろう。

双葉町産業交流館

屋上から周辺を目視する参加者

フクイチが遠くに見える

中間貯蔵施設についての説明書き

建設費用53億円の双葉町の東⽇本⼤震災・原⼦⼒災害伝承館は、高校の修学旅行にも訪れる。

東日本大震災・原子力災害伝承館

原発を監視する帰れないカエルたち

 

福島イノベーションコースト構想関連施設

アメリカのハンフォードをならったとされる福島イノベーションコースト構想関連施設の全体が見える丘にのぼった。福島イノベーションコースト構想とは、官産学連携3,000人規模のエフレイ(Frei)が主導する国家プロジェクトだという。ここはその実証地。いつの間にこんなプロジェクトが動いていたのか・・・、日本人はみんな知っているのか・・・。浪江の町が大きく変わる・・・。国は、原発事故をなかったことにして歴史の上書きをするつもりなのか。

海光(かいこう)の丘からの眺め

浪江町にできた広大な施設

東北復興のためとアイリスオーヤマが浪江町の土地を買い取り、米を生産したり、東北電力がかつて原発設置を計画していた町沿岸部の土地のうち約24ヘクタールを活用し、浪江町の主力産業だった酪農の復興に向けて100億円をかけて、大規模な牧場を整備。

他に福島ロボットテストフィールドというドローンの滑走路ができたり、太陽光パネルを水素に変換する施設や、60台の燃料電池車。隈研吾設計で浪江駅(0.193マイクロシーベルト)が新設されたが、近隣に住んでいる人はほとんどいない。家が建っていても住んでいないのが現状だという。中間貯蔵施設は植樹をして木で見えなくする計画。大熊町役場と復興住宅が並ぶ大熊コンパクトタウンは35億円をかけて作られた。多額のお金が動き、そこに企業が群がっていると聞いた。

 

南相馬市小高の「おれたちの伝承館」

ここは民営で、今野さんもかなり関わってできた大切な場所だという。ジャンルはさまざまで、被災した当事者たちの声が作品にあらわれている。そこにいると作品を通して思いが伝わってくるのだ。先ほどまで見学してきた「東日本大震災・原子力災害伝承館」やイノベーションコースト構想などに、どこかで違和感を感じていた自分だったが、ようやく共感できるこの場所で本来の自分を取り戻したような気がした。

                 

 

大熊コンパクトタウンと学び舎ゆめの森

⼤熊町役場と周辺の復興住宅がコンパクトにまとめられた町には、建設費用45億3900万円かけて作られた小学校「学び舎ゆめの森」という立派な建物が目を引く。しかし2023年度の生徒数は26名、職員はその数倍。図書室には50万冊の本とブックコンサルタントが常駐している。

 

夜ノ森桜まつり

ちょうどこの日は、富岡町に春を告げるイベント「夜ノ森桜まつり」が13年ぶりに開催された。富岡町夜の森地区にある「夜の森公園」をメイン会場によさこい踊りなどが披露される。このお祭りがなくなったことは、浜通りに住んでいたものにはかなり残念でならなかったがようやく再開と嬉しく思ったが、あいにくの雨の中のお祭りとなった。

 

富岡町アーカイブミュージアム

1階が常設展示室とタウンギャラリー、2階が収蔵エリアの町営の施設。受付で配布されるリーフレットには、「ふるさとを想い、まもり、つなげる、拠点施設です。みなさまへお伝えしたいのは、富岡町という『土地』と私どもが経験した10年間の出来事です。(2021年7月11日に開設)2011年3月11日までは、そこには『あたりまえの日常』が溢れていました。しかし、東日本大震災の影響で生じた原発事故は、富岡町で暮らすという『あたりまえの日常』を、突然奪いました。3月12日、町民は、違う土地で暮らす覚悟ができないまま、ふるさとを離れました— 当館は、富岡町の『特徴』と、この地域で生じた自然災害・原発災害の『特徴』を展示しています」と記されている。

双葉町に在る「東日本大震災・原子力災害伝承館」は県営でここは町営と、どちらも行政が設置した公営の施設だが、リーフレットの文言からも分かるように、展示の姿勢が全く異なっている。被災前のこの町の暮らしを丁寧に伝えながら、原発災害の様子もしっかりと伝えている。これこそが本来の姿だと感じる。

 

東京電力廃炉資料館

東京電力の施設。見学は1時間と限定されていて、事前に入館時刻と人数を伝えて申し込む。外観はアインシュタイン、キュリー夫人、エジソンの生家をモデルにしたという建物で、事故前は原発の有用性をアピールする「エネルギー館」だった。
事故後に「原子力事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を社内外に伝承することは、当社が果たすべき責任の一つです」として廃炉資料館としたのだが、見学時間が1時間と限定されて、職員の説明を聞きながら館内を回るのでどこかをじっくり立ち止まって見たり、もう一度戻って見直したりということができない。流れ作業のように「見せられる」施設という感じだ。

 

Jヴィレッジ駅

 

宝鏡寺「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ 伝言館」

館長だった早川篤雄氏が2022年末に亡くなった後、原子力損害賠償群馬訴訟原告・ALPS処理汚染水放出差止訴訟原告事務局の丹治杉江さんが責任者となって、訪問者を受け入れている。
東京電力福島第二原子力発電所建設計画が持ち上がった1970年代から、当時高校教師だった早川さんは教師仲間や住民たちと原発設置反対運動に取り組み、1975年には「福島第二原発設置許可処分取消」を求めて福島地裁に提訴した。この裁判は地裁、高裁で敗訴し、最高裁では原告の上告棄却で敗訴したが、早川さんは、この原発計画が持ち上がった時からの新聞記事・その他の資料を保存していた。
2011年の原発事故の翌年2012年からは「福島原発避難者訴訟」の原告団長として闘ってきたが、事故から10年目の2021年の節目の日に、この伝言館を開設した。館内には早川さんが保存してきたたくさんの資料が展示されている。丹治さんは群馬訴訟の原告として闘ってきた自身の信念に重ねて、早川さんの遺志を継ぐべく伝言館の灯を消すまいと頑張っている。
丹治さんから館内の案内と熱い言葉をたくさん聴いたことにより同じ思いを共有でき、また自分を取り戻すことができた。

 

いわき市湯本温泉「古滝屋」旅館

 伝言館を後にして一路、古滝屋へ向かった。いわき市出身の自分には老舗のなじみ深い旅館。ここのご主人がずっと原発事故以来、活動をしてきたということに感動した。地元でこのような活動をすることの大変さは計り知れないことと思う。ましてや旅館を経営しているのだから。お会いしてお話するのがとても楽しみだった。館内に設置された「原子力災害考証館」の見学は明日に回して、まずは広々とした温泉で気持ちよく汗を流した。その後の夕食は、当館館主の里見喜生(よしお)さんも同席しての和やかな会食となった。

 

原子力災害考証館

朝食後に9階の考証館へ。
古滝屋旅館館主の里見さんは3・11後、各地から集まるボランティアの受け入れや、自宅が被災して寝る場所を失った受験生に宿を提供するなど自らもボランティアとして活動していながら、原発事故に思いを馳せてきた。そして旅館の宴会場だった20畳の大広間を、原子力災害について私たち一人ひとりが考える場にすることを決めた。それがこの「原子力災害考証館」だ。
畳敷の広間の中央に、畳を外した一段低いコーナーを作り、そこには浜辺に打ち寄せられた流木と砂にまみれた小さなスニーカー、水色のランドセルが展示されている。津波で行方不明になった、大熊町の木村紀夫さんの次女、汐凪さんの遺品だ。正面の壁の大きな写真パネルは、ボランティアたちが汐凪さんの遺体を捜索している様子が写っている。
右の壁面には写真家で「おれ伝」館長の中筋純さんが2013年と2020年に同じ場所を撮影した、浪江町の商店街だった通りの写真が上下2段で展示されている。2013年撮影の上段の写真では店の看板を掲げた商店が写っているが、2020年の下段の写真では歯が欠けたように店の姿がいくつも消えている。解体されたからだ。上段に写っている店の一軒は、歌人の三原由起子さんの実家だ。
写真の下の棚に立て置かれた色紙には、「わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す」、由起子さんの歌が書かれていた。本が置かれたコーナーにある由起子さんの歌集『土地に呼ばれる』を開けば、「建物が壊されてゆく商店街なかったことにされているだけ」が心を打つ。
「物」が語りかけ、「ことば」が見せる情景を前にしてこの13年に思いを馳せた。

 

 

コミュタン福島

いわきから三春への道は、雲一つないような青空だった。目的地に向かう道筋の右車窓から見る三春の滝桜は濃い紅色に枝垂れて、今日か明日には花開くようだ。三春は、梅・桜・桃の花がいちどきに咲く地という事から名付けられたという。道中で目にした枝垂れ桜は満開の木もたくさんあって、眼福を味わいながら、目的地に着いた。
コミュタン福島は「ふくしまの今を知り、放射線について学び、未来を描く」ことを目的に福島県が設置した施設。そして、はっきり謳ってはいないが、来館者は子どもたちを対象にしているように思える。
館内は6つのエリアに分かれている。1、「福島の3.11から」復興へ向かうふくしまの歩みを知ろう! 2、「未来創造エリア」ふくしまの今を知り、ふくしまの未来をともに描こう! 3、「環境回復エリア」放射線や環境創造センターの研究について学ぼう! 4、「環境創造エリア」原子力に変わる新しいエネルギーや、自然環境について学ぼう! 5、「環境創造シアター」大迫力の映像と音響空間!全球型ドームシアター 6、「触れる地球」宇宙から見たリアルタイムの地球の姿を体感 とあり、5の全球型シアター以外の各エリアは手で触れたり操作したりできるゲーム感覚で参加できる。
5の全球型シアターは360度全方位の映像と音響で、浮遊感覚を味わいながらの映像鑑賞となる。国立科学博物館とここにしかない装置だそうだ。
例えは悪いかもしれないが、ここは「学習型ディズニーランド」で、飽きさせずに夢中にさせる屋内遊技場という感じだ。原発事故が何をもたらしたかということや核の危険性やそれを扱う際の倫理観よりも、「放射能は自然界にも普通にあって、原発事故で放出された放射能は怖くはないよ」ということを伝える施設のように思える。
館内には、来館した子どもたちが寄せた感想のメッセージカードが展示されている。学校の授業の一環としてこの施設の見学が組み込まれているのだ。学校と名前を入力すると、子どもが書いたメッセージが見れる仕組みになっている。感想はどれも優等生的な内容で、放射能は怖くないと知らず知らずのうちに教育されているかと恐ろしくなった。

 

さよなら志賀原発全国集会in金沢に1100人が参加

能登半島地震は最後の警告、今すぐ廃炉に
長野県からもバス2台で34人が参加
 

北陸電力志賀原発(石川県志賀町)の廃炉を訴える「さよなら!志賀原発 全国集会in金沢」が6月30日、金沢市のいしかわ四高記念公園で開かれました。午後1時からのオープニングイベント(オサムノグチバンド、9条おんがくたい、和田廣治)に続き、午後2時から全体集会が始まりました。当日は朝から雨風でしたが、全国から1,100人が集まり、会場は熱気に包まれました。

最初に発言したのは志賀原発訴訟弁護団長の岩淵正明さん。岩淵さんは今回の能登半島地震で、東京電力福島第一原発事故のような大惨事を懸念。道路が寸断され集落が孤立したことなどに触れ、「避難計画など絵に描いた餅であり、住民の避難は不可能だ」と鋭く指摘しました。
続いてルポライターの鎌田 慧さん。鎌田さんは原発はカネとウソと買収でやってきたと述べ、「政治を変えないとこのバカげた原発政策は変わらない」と訴えました。
次はこの全国集会を共催した「さようなら原発1000万人アクション」の藤本泰成さん。藤本さんは「安倍~岸田政権が防衛費に43兆円もの税金を注ぎ込みながら、地震で人々が危機に瀕したら雀の涙しかカネを払わない。福島原発の被害を私たち自身が証明し、裁判に訴えないと何もしてくれなかった。一人一人の命の尊厳を一顧だにしない、原発の過酷事故を起しても誰も責任を取らない、そのような無責任な体制がまた、原発回帰を生んでいるのではないですか」と指摘しました。そして珠洲原発を作らせなかった、自らの命を自ら守った珠洲の人たちに心からの感謝の言葉を伝え、会場は大きな拍手に包まれました。
続いて福島から駆けつけた武藤類子さんが、女川から来た日野正美さんが、柏崎から来た星野幸彦さんが、そして東海第二原発原告団の大石光伸さん、島根原発訴訟の後藤譲さん、関西の「老朽原発を動かすな実行委員会」の仲間が連帯のあいさつと決意を述べました。
その後、能登から志田弘子さんが「のとじょ」の仲間とともに壇上に上がり、「あがらえぬ自然の力に小さな半島は歪み、引き裂かれ、息を呑む光景に成り果てました」、「能登は素朴な暮らしを紡ぎ、海山の豊かな恵みを分かち合い、感謝の手を合わせ続けた命の半島です」、「重い荷を背負わせた子どもたちに、わびる思いで私たちが渡せるものは命の未来につなげる希望なのだ、それをなんとか探したいと本日ここに来ました!」と力強く訴えました。
最後に登壇した全国集会実行委員会共同代表の北野 進さんは「今日の集会の熱気を受けて、全国の仲間と一緒に原発のない未来に向けて一生懸命取り組み、まずは全国に先駆けて志賀原発を止めていく」決意を表明しました。また全国の仲間に対して、「次の機会にはぜひ能登にも足を運んで、私たちの想像をはるかに超えた地球の大きな力、そしてそんなところに原発を作った(作ろうとした)人間の愚かさを実感してほしい」と呼びかけました。

その後参加者は原発のない社会の実現を訴えながら、金沢市内をパレードしました。

※記事は志賀原発を廃炉に!訴訟原告団ホームページから引用

集会は雨の中開かれた。

全国から1100人の参加者が

金沢市内をパレードして志賀原発廃炉をアピール

パレードでは多くの市民が手を振ってくれた

パレードの終了後に主催者が出迎え

長野県からの参加者で記念撮影

今を変えよう 私たちの声で ― くらし、平和、政治 

松本駅前での集会・市民アクションin信州に700人が参加

立憲民主党・日本共産党・社会民主党の3野党からの訴えも

市民運動家の菱山南帆子さんが「政治をchangeしよう」とアピール

43人の呼びかけ人と信州市民連合、中信市民連合などでつくる実行委員会は、「Change Now by Our Voice(今を変えよう 私たちの声で)―くらし、平和、政治 6・2市民アクションin信州」を6月2日、松本駅前に約700人の市民を集めて集会と市街地のパレードを行いました。当日は、雷雨も予報されていましたが、幸いに集会中は太陽も顔をのぞかせ、パレードの際にも小雨にとどまり、予定通り実施することができました。

集会では、呼びかけ人の又坂常人さん(信州大学名誉教授)が主催者として「岸田政権は末期症状だ。政権交代を実現してよりましな政治をつくろう」などとあいさつしました。そのあと、立憲民主党から杉尾秀哉さん(県連代表/参議院議員)、日本共産党から武田良介さん(前参議院議員)、社会民主党から大椿裕子さん(副党首/参議院議員)の3人から裏金問題が発覚し、大軍拡・防衛増税をすすめ、国民が苦しむ物価高による生活苦を放置している自民党政治を変えようという訴えがありました。地元(長野2区)の衆議院議員、下条みつさん(立憲民主党)も駆けつけてあいさつしました。

特別ゲストの市民運動家の菱山南帆子さんは、「まさに今、市民の声をあげて政治をchangeしていこう」とアピールしました。

集会では「今こそきちんと怒らなければなりません。仲間を増やし、史上最悪の岸田政権を退陣、政権交代を実現させましょう」というアピール文を採択しました。

集会後には、松本市街地をパレードし「政治をchangeしよう」と市民にアピールしました。

なお、集会の運営費をねん出するため参加者にカンパをお願いしたところ177,664円もの現金が集まりました。あたたかいご協力に感謝申し上げます。

3野党代表と又坂さん、菱山さんが並んで

小雨の中の集会に多くの市民が

アピールする菱山南帆子さん

松本駅前に菱山さんのアピールが響く

参加者がプラカードを掲げてアピール

呼びかけ人が壇上で3野党代表などと一緒にプラカードパフォーマンス

松本市街地をパレードして市民にアピール

集会を報じる信濃毎日新聞(2024年6月3日)

3・20さようなら原発全国集会に参加して

雨がどんどん強くなる中、集会は始まりました。

さようなら原発全国集会が、東京・代々木公園で開かれ、「フクシマを忘れない!原発再稼働を許さない!汚染水を流すな!」をスローガンに脱原発を訴え、集会後は原宿と渋谷をデモ行進した。

松元ヒロさんのオープニングライブでは、テレビで会えない芸人と言われるだけあって、政治に物申す内容が満載で、雨でびしょびしょになりながらも会場は大いに盛り上がった。

テレビで会えない芸人・松元ヒロさん

主催者あいさつで、呼びかけ人の作家・落合恵子さんは「3.11事故から13年。私たちは忘れてはいけないが、忘れさせていくシステムが山ほどある。ひとりひとりが忘れない、許さないという思いを持ち続けなければいけない」「地震大国に原発はいらない。原発と私たちの命と自然は共存できない」と語った。

呼びかけ人の作家・落合恵子さん

たとえ立場が違っても、原発ゼロを訴える澤地久枝さん

フクシマ連帯キャラバンの皆さんは、3/16に福島市で開催された福島県民大集会からスタートし、ここ東京でのさようなら原発集会をゴールに5泊6日にわたって行動し、その報告をした。団長の渡辺さんは、フィールドワークでの請戸小震災遺構を見学し、「原発がなければ救えた命がある」と強く訴えた。

フクシマ連帯キャラバン、団長より報告

志賀原発を廃炉に!訴訟原告団団長の北野進さんは、「もしかつて計画のあった珠洲原発が建設されていたらと思うと今頃は重大事故で放射能が奥能登や北陸に降り注いでいたかもしれない。寺家は、救急車を呼んでも来てもらえない。避難計画の破綻は明らか。高屋は、2mの隆起、海岸は崖崩れ、住宅の倒壊。珠洲原発があったら、奥能登が被ばくし、孤立していた。3電力の共同開発。地元の反対運動、全国から応援もらった。2003年撤退させた。あらためて全国の皆さんに御礼、元旦の地震の応援に来てもらってる。」活断層学の限界と避難計画の破綻について話し、志賀原発の廃炉に向けての運動が遅れてるので、全国集会をやりたい、その際にはぜひ多くの皆さんに参加してほしいと訴えた。

珠洲原発計画をとめ、志賀原発を廃炉に!訴訟原告団団長でもある北野進さん

主催者発表によると、雨の中この集会には6,000人が参加し、集会の終わりには、全員でプラカードアクションも行われた。

表参道をデモ行進する様子

その後は、天候も回復し、15:00から原宿と渋谷をデモ行進して、脱原発を強く訴えた。

全国から結集した

~集会の流れ~

13:00 オープニングライブ:松元ヒロさん(元ザ・ニュースペーパー)

13:30 集会開始:司会・畠山澄子さん(ピースボート)

主催者あいさつ:落合恵子さん(作家・呼びかけ人)

澤地久枝さん(作家・呼びかけ人)

フクシマ関連 片岡輝美さん(これ以上海を汚すな!市民会議)

フクシマ連帯キャラバンから

能登半島地震と原発 北野進さん(志賀原発を廃炉に!訴訟原告団団長)

原発再稼働関連 多々良哲さん(3・23女川原発の全国集会)

東海第二原発 阿部功志さん(東海村村会議員)

閉会あいさつ 鎌田實さん(ルポライター・呼びかけ人)

15:00 デモ行進

 

 

 

   

 

能登半島現地からの報告-地震・被災・原発(北野進氏講演全文・講演録画)

県原水禁・県労組会議は、2月22日、長野市内で「能登半島現地からの報告-地震・被災・原発」というテーマで、石川県珠洲市在住の北野進氏による報告会を開催しました。北野進氏は現地からオンラインで参加しました。当日の北野氏による報告と質疑応答の全文文字起こしと講演録画のYouTubeリンクをご紹介します。ご活用ください。

珠洲原発反対運動をたたかってきた北野進氏

司会(喜多):みなさん、こんにちは。平日の雪降る中にもかかわらず本当に多くの皆さんにお集まりいただいてありがとうございます。ただいまから報告会「能登半島現地からの報告-地震・被災・原発」と題して、能登、珠洲に在住されていて「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長でもある北野進さんの報告会を始めさせていただきます。今日の報告会、1時間程度Zoomで北野さんに報告をしていただき、そのあと30分程度質疑応答の時間をとっておりますので、質問、意見等があれば自由に出してもらっていいかと思います。今日の主催は県原水禁と県労組会議ですが、広く公開して報告会をやろうということで、脱原発共同学習会の皆さんや、あったかねこの会の皆さんなど大勢の方にも参加していただいています。どうもありがとうございます。

それでは早速報告会を始めていきたいと思いますが、北野さんは、珠洲原発反対運動から始まり、県会議員、市会議員をやって、今は「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長をやられています。私自身も、実は十数年前に石川県平和運動センターにいらしたときに一緒に活動をした仲間でもあります。今日は北野さん自身も被災はされておられますが、能登半島全体を駆け巡って、原発問題について調査もされているようでありますので、そういう話も含めてお聞きしたいと思います。北野さん、報告をよろしくお願いします。

■講演録画(Zoom)もご視聴いただけます

【YouTube限定公開】20240222北野進氏講演会

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北野:皆さんこんにちは。珠洲市の北野と申します。今日は貴重な機会をいただきましてどうもありがとうございます。

元日に起こりました能登半島地震で、皆さんご承知の通り本当に大変な被害があり、特に珠洲市、輪島市は地域壊滅といった状況になっています。こうした中で全国の皆さんから本当に人的物的な大変なご支援をいただいております。先日は労組会議のほうから、宇佐美議長、喜多事務局長がわざわざ能登、石川、金沢のほうまでお見えいただいて義援金のほう、頂戴しております。本当にありがとうございます。

それでは早速ですが画面共有させていただきます。

能登半島現地からの報告として話をさせていただきたいと思います。今日は大体こんな形で、限られた時間ですがお話させて頂きたいと思っています。まず珠洲に原発がなくてよかったということ、珠洲の原発の反対運動についてもこの機会ですので少しお話させていただきたいと思いますし、その中でまた地震の問題、地震との関係についてもお話させていただきます。そして今まさに志賀原発の問題があります。この志賀原発の問題についても活断層の問題、また避難計画の問題の観点からお話させていただき、最後、今の規制委員会の問題点についても触れていきたいと思っています。

まず、奥能登の地震に至る前、3年前から珠洲のほう、群発地震に悩まされてきました。そうした中で、ここがかつての珠洲原発予定地、高屋になります。(図中央右)そしてここが寺家、高屋が関西電力の予定地、寺家が中部電力の予定地ということになりますが、まさに珠洲原発予定地地形の高屋は群発地震のその中にあるということです。そんな中で今回の能登半島地震ということになりましたが、一気に広がって珠洲も輪島も見えなくなるほど。

実は今回の能登半島地震の最初に動き始めた震央は高屋のすぐ裏の山のあたり、ここから動き始めて百五十キロの大きな断層が動いた。

寺家と高屋が今どうなっているのか。地震が起きる前の寺家の予定地。きれいな海が広がっていて、入り江の奥が炉心の予定地。

地震後、炉心予定地のあたりが隆起して海のほうに陸域が広がっている。左側の沖のほうへ出ていく岩場も陸地へつながってきている。

原発予定地のなか、珠洲で有名なランプの宿の写真。地震後、宿の前の岩場が大きく広がっている。予定地に隣接する南側の寺家漁港。防波堤を見るとわかるが、一メートルほど確実に隆起している。陸域も広がっている。もし寺家に原発があったら一メートルの隆起には耐えられない。

高屋について。調査予定地の写真。写真の向きは逆だが左の写真奥のテトラポットの前を写したものが右の写真。岩場が大きく広がっている。かつて原発計画があった当時はよく高屋に足を運んでいたが、高屋の風景が大きく変わってしまっていることに本当に驚いている。

予定地の中にある漁港の防波堤の写真。自分の身長より高く二メートルは隆起している。

左上は高屋の漁港。大きく地割れ、陥没がある。左下は高屋の反対方向の道路。直径四メートルあるような岩がいくつも落ちてきて道路を塞いでいる。右上の白い建物は関西電力が撤退するときに地元に手切れ金という形で寄付した、秋祭りの切子をしまう収納庫。その裏山も大きく崩れて、建物の前の道路も亀裂が走っている。

このようなところにかつて、たくさんの電力会社が原発を計画していた。

海域のほうへ陸地が広がっているものを紹介したが当然陸の部分も併せて隆起しており、そんなところへ原発を立てたらとんでもないことになっていたというのは言うまでもない。原発の設計基準をはるかに上回る隆起がここにあった。

珠洲原発は三電力共同開発という全国でも異例のもの。関西電力は高屋を、中部電力は寺家を、北陸電力は志賀があるため地元の電力会社として様々な調整役という役割分担になっていた。当面は百万キロワット級二基を建設すると国の企画に盛り込まれていたが、一基ずつ作って終わりというわけではなく将来的には一千キロワット構想なども語られていた。

そこに至るまでに様々な動きがあったが、計画が公になったのは1975年。市議会のほうに原発が出来るかどうか調査してくれという申し出があったことが発端。地元から誘致、本来は電力会社が地元に立地させてくださいと来るわけだが、珠洲の場合は地元で是非作ってくださいと誘致していく、当時は珠洲方式と呼ばれていた。

電力会社にとっては地元の合意形成を図る一番難しいところが省かれるようなこと。誰が考えたのかは不明。

当時は、皆さんもご存知かと思うのですが、関西電力は、若狭に加えて和歌山県の方で日高日置川という予定地がありました。中部電力が浜岡に加えて芦浜がありました。ということで遠いこの能登半島の珠洲については、優先順位としては後回し、地元から誘致しているんだから、いざとなればいつでも作れるだろうと、そんな捉え方、位置づけもあったのだろうかなぁと思います。

そんななかで電力会社が地元からのラブコールに応えて始めたのが1989年。関西電力が高屋で実地可能性調査を行いたいとようやく動き始めた。89年の4月に市長選挙があり、調査の是非を巡っての選挙だった。自分も反対派で立候補し、ほかにも直前にもう一人原発反対を掲げた立候補者が出ました。それに対し原子力推進の市長が居た。

票を開けてみたら自分ともう一人の反対票を合わせたら現職の市長の原発推進票440票を上回る結果になった。

当時珠洲の中では原発反対の声をほとんど市民の皆さん上げられない雰囲気があり、市長も原発反対をいうものは市民ではないと豪語するようなそんな雰囲気があった。票をあけてみたら反原発票が過半数を上回る結果だった。各方面にインパクトがあったが、特に反対している人にとって、自分は原発に反対だけれど周りの人がきっと推進だろうと思っていたが、それが半分の人が自分と同じように反対の思いを持っていたと、そういうことが分かっただけでも非常に大きな選挙だったと思っている。

このような結果が出たため関西電力は調査にあたって慎重になるのかと思ったが、市長選の結果が出てから一か月もしないうちに、当初の予定通り高屋での調査をすると出てきた。これに対し反対運動が一気に広がっていった。

その後も市長選や県議選、市議選等、選挙で常に原発の反対賛成を巡り大きな選挙になっていくわけだが、我々も常に反対の民意を示してきた。併せて共有地運動なども展開して寺家、高屋、それぞれで事実上、用地買収は出来ないような状況に追い込んでいる。

そのような流れの中で2003年、電力会社は凍結という言葉を使っていたが、事実上、計画の白紙撤回ということになった。

ポイントになるところなのですが、関西電力が高屋で立地可能性調査を行う計画の図面。高屋の港の背後にある。ボーリングを掘ったりして強固な地盤、岩盤があることを確認するための調査なんだということで始めた取り組み。

ちなみに、今日お集まりの皆さん、ホントに何十年も原発に反対されてきた方が多いかと思います。

この珠洲の原発でこのような動きがあった当時、電力会社は原発を作る土地についてどういう条件が必要なのか、三つの条件を言っていた。当時は強固な地盤、広大な敷地、豊富な冷却水があるところが原発を作るのにいい土地と。特に、強固な岩盤があるか確認すればどこにでも作れると。周囲の、いま問題になっている活断層の話は一言もしたことがない。

これに対し私たちは市長選挙のあと高屋の現地に毎日駆けつけ、三十日間の阻止行動を行った。しかし皆仕事がありそれを放りだすわけにもいかないため一週間の阻止行動で高屋に駆け付けたが、これはいつまで続くかわからないと思ったため、市長に対し、こういう調査を辞めさせろと関電に言えと抗議するため市役所に市長に面会を求めて行った。だがその時に自分たちの目の前にいた市長が途中で逃げ出してしまった。関西電力にもう一度話をしてみると逃げていったため、私たちは四十日間、市役所で座り込みをした。午前中は高屋で阻止行動、昼からは夜を含めて市役所で寝泊まりするという状況になった。

当然、市役所(三階の市長室がある廊下一本挟んだ向かいの会議室)に座り込み(占拠)していたわけで、常識的に言えば市役所の庁舎管理規程違反であり機動隊がいつ入って排除されてもおかしくない状況だった。結果的には四十日間排除されずにやり通すことが出来た。そこで一つ大きなポイントとなったのは地元を含めて、県内では連日、珠洲の原発について報道されていたこともあり、いわゆる県民世論的には私たちの取り組みに対して支持の声がたくさんあった。市長が逃げ出すのもけしからんし、関西電力が民意を無視して調査をしようというのもけしからんと。そういう雰囲気がかなりあった。

結果的にこの三十日間の阻止行動、四十日間の座り込みというなかで、関西電力は調査を中断せざるを得なくなった。

以後この調査がいつ再開されるのか、私たちは阻止をして計画を白紙撤回に持ち込めるのかというところが大きな焦点になっていく。

この阻止行動のあと、その二年後には統一自治体選挙があり私は県議会議員になり、そして市会議員の選挙も当時反対の議員が一人だったが四人に増やし、といったこともでき、そのような中で1993年(四年後)の市長選挙があり、私たちにとってはなんとしても今度こそ市長をとって計画を白紙撤回させようと。対する原子力推進側のほうはなんとしても圧勝して高屋での調査を再開するぞと。このような珠洲の原発の行方を左右する市長選挙をむかえた。私たちの反対側の候補者の出馬表明を93年二月一日に行った。直後、二月七日に能登半島沖地震が発生した。今の群発地震より若干、沖合の北のほうになるが、マグニチュード6.6で被害は珠洲に集中した。

震度は輪島で震度5、金沢で震度4で、当時は能登の震度計は輪島に一つしかなかったため珠洲市は不明。だが被害は珠洲市の集中している。今でいう震度6弱~6強の揺れだったと思われる。

私も選挙の準備で走り回ったのち夜、家に帰ってきた直後に大きな揺れにあい、自分の家もつぶれるかなあと思うほどの揺れだった。

こうした中で当然市長選挙は、大きな地震の起こる珠洲市に原発なんてとんでもないと私たちは主張しますし、それに対して電力会社側、あるいは国、県は何をしたか。地震が起こったんだから一度活断層があるのかどうなのか、どういう状況なのか調査してみましょう、なんていうことを言うわけはない。

国のパンフレットには地震がきたって大丈夫と書いてあり、配布された折込チラシなどには原発は万全の地震対策がとられています。津波対策は万全です、などと書いてある。これらは普段から週一で回ってくるが、選挙中は毎日一枚、多い時には毎日二、三枚。原発推進の今では到底配布できないような内容のチラシやパンフレットが山のように入っていた。

ろくに調査もせずに安全だと安全キャンペーンをはること自体けしからんと。安全軽視の電力会社の体質の現れだなどと批判をすることは簡単なことであり当然その通りだが、能登半島地震の起こった1993年の七月に、志賀原発の一号機が営業を開始している。これは設置許可申請書に添付されていたもの。当時、北電含めて国、地震学者も含めて、能登半島の周辺、断層についてこの程度しか把握していなかった。珠洲の沖合には活断層はない。志賀原発周辺は短く少なく、これが当時の知見だった。まさに関西電力、中部電力にしても大きな地震は来ないのだと頭から思い込んでいた。これらは珠洲だけでなく若狭も福島も含めて原発が出来ていたが、当時はこの程度の知見で日本中の原発は作られていた。

珠洲の選挙の話に戻るが、地震が大きな争点になるなかで結果的に、私たちが支持した反対派の樫田準一郎さんは958票差で負けてしまったのだが、投票者数が17,501票に対し推進派の林幹人市長は9,199票、樫田準一郎さんは8,241票、無効票は88票で計17,517票なのだが、それらを合わせたところ総数が16票多いことが分かり、私たちは開票所に駆け付け、不正選挙だと抗議をした。その他にも票が次から次へと変わる状況があり、私たちは県の??に選挙のことを訴えて、さらに最高裁、不正選挙の究明の戦いになっていく。

高裁の時点で私たちは選挙無効を勝ち取った。判決の理由としては私たちは不正選挙だと、偽造投票用紙の混入や正規投票の抜き取りなど、不正行為がたくさんあったんだと主張した。

これに対して高裁は選挙事務がお粗末であるとし、選挙を無効にした。これは私たちにとっては事務のお粗末さだけでは説明しきれない、明らかに悪意がある。不正の意図がないとこんなことはありあえないと何点も指摘した。最高裁は引き続き高裁と同様に選挙無効の判決を出したが、最高裁の判決の中では選挙の事務全般にわたり疑いを抱かざるを得ない。不正があったと匂わせる判決まで踏み込んだ。原発立地をかけた選挙では、民主主義の根幹である選挙がここまで歪められるんだと改めて確認させていただきたい。

珠洲だけこんな異常なことがあったのかというと、決してそうではないと思っている。最近の原発を巡る様々な議論は上品な感じがするが、あの当時は法律に照らしてもありえないだろうということが珠洲に限らず(福井のほうでも高浜の森山助役の話があったり)、当たり前のように原発立地の地域では展開されてきたと思っています。不正なり反対派に対する誹謗中傷のレベルに留まらず、私自身も夜道を一人で歩くのは気を付けなければならないと県会議員をやっている当時は注意しながらやってきていた。そういった状況の中、今の原発は出来ている。

珠洲の反対運動に戻るが、やり直し選挙ということになったが、残念ながら私たちは負けてしまった。やり直し選挙でも当時の助役が選挙違反で逮捕され、開票翌日には市役所が家宅捜索されるという、珠洲市にとっては恥の上塗りになるようなことがあった。結果的には負けてしまったが、その後も私たちは選挙のたびに原発反対の民意を示していくという反原発選挙を闘い続けてきました。

そんな中で2003年、12月5日電力三社は撤退を表明。電力側は撤退の理由として電力市場の自由が進み始めたことも一つあり、三電力の共同開発としてスタートしたが、自由化の中で三電力それぞれがライバル会社になり、電力会社が手をつないで仲良くやる時代は終わったといことが一つの象徴であった。電力需要が低迷しているなど言っているが、一番は地元事情、反対運動が厳しくて立地の目途が立たなくなったことが一番大きいと思っている。

私たちから見ての勝因、阻止できた、28年あまりに及ぶこの期間の中で大きなポイントになったのが1994年の知事選挙がある。当時国政のほうで細川政権の頃で、いわゆる、国政の非自民の政権、壇上の中で石川もその構図の中での知事選挙が行われ、私たちも珠洲の反対派、反対の市民グループも非自民側の谷本知事の応援をしました。この谷本知事が選挙で公約を珠洲市における原子力発電所立地については現状では困難と認識し、今後については住民合意を最大限尊重すると掲げた。結果的に1994年から2003年電力撤退までこの公約は一字一句変わらなかった。

現状では困難というのが一つポイントとしてある。89年に立地可能調査を中断に追い込んだが、いつ調査が再開されるかわからないという状況がずっと続いてきた。5年ほどそのような状態がずっと続き、私たちは明日にでも不意打ちをするように電力がまた出てくるのではないだろうかと毎日毎晩警戒をしていたが、現状では困難ということはこの調査がいきなり行われることはもうないということです。ようやくここで安心して夜眠れるようになった。

もう一つ大きなポイントとなるのはこの住民合意を最大限尊重するということ。中々役所的には住民合意という言葉は使わず、住民の皆様をご理解を得てという言い方を使う。一方的に説明をして、住民の皆様のご理解を得ましたということをよく言う。そこを踏み込み、住民合意ということで公約に盛り込ませたわけである。

当然そうなると、合意の判断基準とはなにか、ということで当選後の最初の県議会の中で関係漁協の同意、あるいは用地買収の状況、選挙の結果など、これらについてを総合的に判断する。

私たちにとって現状では困難というなかで、合意の判断基準を後退されなければいいということで選挙も毎回しっかりと取り組み、市会議員の数も四人から五人、六人と増やす取り組みもしてきましたし、共有地運動も展開し、用地買収も事実上無理という状況に追い込んできた。

私たちとしては市長をとって計画の白紙撤回をするんだ、ということを一番のポイントとして戦ってきた。そのために県議選や知事選など含めて選挙を戦い、さらに議員を誕生させ、様々な市民団体、労働組合の運動も連携を取りながら運動を展開してきた。しかし相手のゴールに攻め込むだけではなく、自分のほうの守りも大事であり、漁業権や共有地で海と土地を守るということで地権者と漁業者もしっかりと守りを固める。こういう構図の中でいま運動を展開できたと思っています。最後に忘れてはならないのは地元の運動を支えていただく全国の多くの皆さんの応援がありました。長野のほうからも駆けつけていただいた方もおられますし、全国の皆さんの応援があって、珠洲の原発を阻止できたということで、改めて感謝申し上げます。

地下の話に入っていきたいのですが、まずは珠洲の群発地震から触れていきます。三年前からこの群発地震が続いたと話させていただきましたが、私たちにとっては群発地震と言われてもなんなのかということで、最初の頃、震度1や2の揺れが毎日のように続くのですが大きな揺れは来ない。だがいつまで揺れが続くのだろうという風に不安な日々を過ごしてきた。そんな中で専門家の間からこれは地下の流体が原因で地震を引き起こしているという話が出てきた。

流体が原因での群発地震というのはあまり知見がないが松代群発地震というものがあり1965年から5年半ほど続いた。そのことがあり、5年ほど我慢しなくてはならないのかという思いもあった。

だが松代群発地震の場合は流体がかなり上のほう、地表近くで、珠洲の場合はもっと深いので、同じになるとは限らないという議論が一方であった。

地震が小さく続いていたためエネルギーが日々発散されるような状態で、大きな揺れは来ないのではないかという話もあった。

ところが一昨年の6月に震度5強の揺れが起こり、専門家からもこのような大きな揺れが起こるとは思わなかったという発言があった。その後また揺れは収まっていく。

去年の2月には地下の流体がもっと深いところから、太平洋プレートから海水を地下に引き込み、それが能登半島の上のほうへ上がってきたというモデルが示されていた。流体が上昇してくる量が増えていないことが確認できたのでもう収束に向かうのではないかという話出てきた。もちろん市民のみなさんはそういう話は大歓迎なのですが、その直後5月5日に震度6強の地震がありました。市民にとっては誰を信用したらいいものやら、といった感覚があった。群発地震で市民は翻弄される。

専門家の皆さんのいろんな話を聞きつつも、一方で本当に市内でこういう被害が起こると・・。去年の5月5日の地震を含めて、多くの家屋の損壊があり、亡くなった方もおられました。その後家を直すべきかどうか、直すとしていつ直せばいいのか。直してもまた大きな揺れが来るのではないのか。など心配しながら、それでも正月の前には都会に出ている子供が帰ってくることもあり、それまでには直したいということで去年の秋から年末にかけてあちこちで家を直す修理が続いていました。

そんな中で今年の元日の揺れになってくるわけだが、実はさらに強い揺れに警戒をと言われていた。(資料14上)北陸電力が二号機の再稼働に向けた新規制基準適合性審査の中で示している資料。能登半島の沖合に長さ96キロメートル、推定マグニチュード8.1の能登半島北部沿岸域断層帯というものがあると資料で示されている。私も去年、県内のほうで話をする機会があれば必ずこの図を紹介して奥能登の住民の一人としては絶対にこの活断層は動いてほしくない。動いたらもう能登は壊滅状態になるだろう。ただ、こんなリスクがあるのならば、志賀原発の再稼働は絶対に許してはならないし、廃炉にしなければならない、と話をさせていただきました。

また珠洲の原発計画では長さ云々ではなく(活断層は)存在自体が確認されていない、認められていなかった。

1月1日の地震で150kmの断層が動いたといわれている。この間の群発地震、そしてさらにこの一連の動きをみると珠洲の市民からの率直な声として、地震学はその程度なのかと。群発地震の終息、あるいは続くのかといったことが全く分からないわけだし、そしてさらに強い揺れに警戒と言いつつも、これは私の印象だが、本当に危機感を持って地震学者が喋っていたのかというとそんな風には聞こえなかったなと思っている。一言そう言っておかないと万が一起こった時になんと責められるかわからないという防衛的な意味で、守りの意味で警戒をと言っていたぐらいにしか聞こえず、結果的に石川県や自治体のほうも地震の備えに動かすところまでいかなかったわけです。地震学の限界、地層学の知見がこの程度だということを珠洲市民として身をもって体感してしまった。

断層が150km動いたというわけで、北陸電力の想定よりも、東西大きく動いた。志賀原発側、西側はこのように(左側の矢印)動いた。今の規制委員会の審査の中でもこのあたりの断層の連動はないのかと議論されてきた。北陸電力はそれは否定し、規制委員会もそれを容認する形で議論は進んでいった。それから佐渡のほう(右の矢印)に大きくぐっと伸びたが、実は佐渡側のほうにもNT2、NT3という活断層があることが確認されている。ただ規制委員会の議論の中では連動の可能性は全く議論されていなかった。規制委員会も可能性がないのかという検討の指示すらなかった。つまり全くノーマークの断層が動いていた。もう一ついま注目されているのが、志賀原発に近いところ、北側9kmほどのところに富来川南岸断層というものがあり、今回の断層の揺れに合わせて動いたということが確認されている。

富来川南岸断層と今回動いた150kmの断層とは20kmほど離れているにもかかわらず動いたというものはこの間の地震学の知見のなかではありません。もしこういうことがあるのならば志賀原発の審査はもちろんだが全国の原発立地地域の断層の審査にも影響が出てくるものだと思います。地震の直後から私が心配しているのは、今回の能登半島地震、マグニチュード7.6の地震で三年前から続いてきた、一連の地震活動がこれで終わりになるのか?ということ。次の大地震は来ないのか。次の大地震に向けてカウントダウンが始まっているのではないかと心配しています。

などというと素人が不安を煽っていると思われてしまうため、専門家の見解も紹介します。東北大の遠田晋二教授は能登半島地震後、佐渡沖、そして志賀原発沖合や南側の断層に地震を起こしやすくする力が働いているという解析結果を発表している。また、同様な解析結果を金沢大学の平松教授も発表している。佐渡の沖合ということは柏崎の原発に直に関係してくるが、もう一つ志賀原発沖合について報告したいと思う。

北陸電力が作成した資料にわかりやすく数字を入れたもの。かつて志賀原発の周りは大きな活断層はないとされてきたが今北陸電力が出している資料で見ても、周りにマグニチュード7クラスの活断層がたくさんある。ズタズタ状態、これが実は能登半島の現状、実態です。さらにこれらの活断層が連動すればマグニチュード8クラスの地震も起こる可能性がある。ただこの連動はしないというのが北陸電力の現在の評価です。これらが今後の議論でどうなっていくかわかりませんが、こういう活断層に囲まれた志賀原発というところで改めて、今回の地震で終わりではなく志賀原発は今後のこうした地震に耐えうるのか注目していかなければならない、心配しなればならないという状況です。

もう一つ加えて、志賀原発の本当のすぐ近く、志賀原発の東の山側、1kmほどのところに福浦断層というものがある。また海のほうには兜岩沖断層というものが4kmほど沖合にあり、その上には碁盤島沖断層があり、先ほど申した北側9kmほどのところには富来川南岸断層があります。これらいずれも志賀原発一号機、二号機作るときには活断層ではないとされてきたもの。今は活断層に囲まれた原発ということです。

特に注目していただきたいのは福浦断層と兜岩沖断層は並行して走っている。5kmくらいの感覚。これは規制委員会の議論の中でも連動する可能性はないのかと並行して走っている関係でそのような指摘もあった。これに対し北陸電力が作った地図。断層の傾斜方向を福浦断層が西側に傾き、兜岩沖断層は東側と、違う向きに傾いているから連動はしないと、話している。

改めて図の正三角形を見てもらうと、この正三角形をひっくり返したその上に志賀原発がある。どちらの断層が動いても、志賀原発の乗っているところがずり上がるという位置関係にある。

こんなところに原発を作ること自体、そもそもありなのか?というところも専門家の皆さんには議論を深めてもらいたい、私たちにとってはとんでもないという風に思っています。

このような地震の問題に加えて、次の地震があった時に志賀原発は大丈夫なのか、避難計画含めて大丈夫なのかというところを話ししていきたい。今回北陸電力は志賀原発の中を施設のトラブルや様々な破損情報を明らかにした。毎度のように情報が小出しで、私たちにとってまだ隠している情報があるのではないか、隠しているトラブルがあるのではないかと心配、警戒をしている。

志賀原発は実は2007年に臨海事故隠しというものを起こしている。隠ぺい体質は今でもまだ直っていないと私たちは思っている。加えて、このように一度発表した情報の訂正が繰り返されている。今発表している情報も正しいのかどうかということも含めて、心配になってくる。

先月末に社民党本部のほうが北陸電力に対して質問状を出しており、そのなかでこの元日とか人員の関係で人手不足だったのではないだろうかと聞いているわけだが、必要な体制は整っているんだと回答。整っていてこの程度ということです。

改めてこの十三年間、止まっていてよかった。動いていたら原子炉の緊急停止、冷却といった作業は求められてくるわけで、北陸電力にはそういった作業を、とてもこなせるとは私たちは思いません。

もう一つ加えて今回(1月1日)、原発の立地している志賀町で震度7、大津波警報も発令された。また1月6日にも震度6弱の地震があった。これは今の原子力災害対策指針、石川県防災計画で見ても、防災計画上警戒事態になっている。国のほうでも規制庁と内閣府が合同の警戒本部を立ち上げ、現地のオフサイトセンターでも対策本部を立ち上げた。計画でいうと、職員の最初の参集など様々なことをしなければならないが、ほとんどできていなかった。私たちはこの間、原発が重大な事故を起こして、全面緊急事態に至った場合、対応できるのかと心配し、様々な指摘をしてきたがこういった大地震が来たら初動で破綻することが確認できた。

 

また避難計画についてはすでに多くの方が指摘され、報道関係でも出ているが、道路での避難は出来ない、海からも空からも避難は無理だということが明らかになった。さらに今の避難計画では5km圏は重大事故、全面緊急事態で即時避難。5kmから30km圏は屋内退避ということになっているが、屋内退避すべき家は倒壊している、あるいは半壊しており余震が続く中で家にも入れない。仮に入ったとしても放射線の防護機能はすでになくなっている、ということがあり、屋内退避というのも破綻している。

モニタリングポストも116カ所あるが18か所情報が送れなくなった。このような今の防災計画の前提としていることが破綻していた。

さらに今回の地震の実際の対応で、地震が起きて自宅が倒壊したり孤立集落ができる、さらには津波が来たり、火災が起こるということで地元の自治体の職員、または消防団の皆さん、そういった方々が対応していたが、手は全く足りていなかった。地域の壊滅は地域の実働部隊だけでは全く足りていない。

そんな中では原子力防災を担える人がいるのか、原発事故が起きて複合災害に、原発震災になった時に対応できるのか。ヨウ素剤の散布やスクリーニングやるための避難退避場所を設けますなど言っているが全て破綻する、誰もやる人はいないということが明らかになった。

原子力規制委員会は原子力災害対策指針の基本的な考え方は変えないという方針を明らかにしている。屋内退避の運用について、家屋の倒壊がこれだけあり、避難路も使えないが、屋内退避の運用に限って議論していきましょうと。

能登半島地震の教訓を自然災害の問題に限定することが狙いで、原発の災害とは切り離して考えようという方針が見え見えである。確かに今回の能登半島地震による地域の孤立集落の問題、道路の寸断状況というのは能登固有、半島固有の要因だったということは間違いないが、原子力災害がここに加わり地域が孤立していくという問題、これは能登には限らず全原発立地地域に共通するリスクとなっている。

しかし複合災害について原子力規制委員会は自然災害への対応を優先し、人命の安全確保を最優先させるといっている。もっともだと思われる方もいると思うが、要するに自然災害が起きたり津波が来るとなったときに、原子力防災の放射線防護の対応は後回しにする、そこは放棄して、高台に逃げる、家の中に居れないので避難所へ走るなどを優先する。事実上いまの防災計画の破綻だと思っているが、原子力規制委員会はそれを破綻だとは認めない。

山中委員長は家屋倒壊が多数の場合、地震に対する避難行動が最優先とさらっというが、今回の能登半島地震でいうと全く違う。家屋倒壊が多数の場合、下敷きになる人が多数いるわけで、その方々の救出が最優先になるはずだ。原発事故が起きて、できるのか?全国から消防や自衛隊、災害救助の方々も含めてたくさん入っていただいたが、原発事故があったら倒壊家屋での人命救助ですらできなくなる。

写真のようにたくさんの人に来ていただいているが、上記のことがあればこのような方々が来れなくなってしまう。

山中委員長の防護措置の考え方は、避難と屋内退避の組み合わせてやっていくという考えは変えない。今回、避難もできない、屋内退避もできないということが明らかになっているものの引き続きこの組み合わせでやっていくということを言っている。

どのようなことを言っているかというと、避難所や避難道路は原発事故に関係なく、地域防災計画の中で自治体、内閣府がそれを支援する形になるが、基本的には自治体がしっかりやってくださいね、という話。原子力規制委員会はそういったことには責任を持ちませんよ、まずそれは自治体の責任でしっかりとやっておいてくださいよ、という話。これはほとんど、通行止めで避難が出来なくなったら自治体の責任で、地震でも壊れない道路を作れといっているようなもの。これは長野の皆さんから見てもありえない話であると思います。

地震国日本で、田舎の小さな道だから壊れるという話ではなく、この写真は能登里山街道という高規格道路で、このようにズタズタになる。経験的にお話しすると、壊れやすい道路というと盛り土のところ、橋の前後も大きな段差ができる。そのようなところで、壊れない道路を作るのは無理だろうと思う。特にこのように道路の復旧はまず被災地の対応で求められてくるが、これも市街の方からの応援がなければ復旧すらできない。そこも規制委員会(規制委員長)はわかっているのか、わかっていて見ないふりをしているのかわからないが、無視をしているという状況。

屋内退避の運用を検討するというのは、石川県庁、あるいは石川県内の周辺自治体の職員とも話が通じない部分があるが、原子力規制委員会は防災計画や災害対策指針で、周辺住民の被爆をゼロにするとは一言も言っておらず、被爆を低減するといっている。さらに、このような事故が起きた場合の被ばくの目安は福島の百分の一程度の放出量で、100mSvを目安にしていくと堂々と言っている。

公衆の被ばくの限度は1mSvで、その百倍、事故が起きたらそこは我慢してくださいね、というのが規制委員会の方針。そんななかで屋内退避の運用を検討するということは、被ばくが前提、逃がさない避難計画づくりへとこれから進んでいくものだと私は心配しています。

家屋倒壊で避難になり、放射線防護施設があるのでそこに避難してくださいよという話だが、今回の地震で志賀原発周辺の放射線防護施設もたくさん傷んでいた。六ケ所傷んでおり、さらに二カ所は運用停止になった。またその中の一つは放射線防護機能自体失っていた。規制委員会の言っていることが次から次へと破綻していっている。

改めて山中委員長に対しては地域が壊滅していくというこんな中での原子力防災はどうなのかということを直視してほしい、しっかりと学んでほしいと思います。地域の住民は助け合い、珠洲の場合でも輪島市でも同じですが、自治体職員もほぼ全員が被災者であるが、帰る家もなくなるなかで連日連夜、被災地対応や防災対応にあたる。そうしていっても圧倒的なマンパワー不足である。

そんな中で全国からのみなさんに支えられてこの間やってきている。これを困難にするのが原子力災害ということになります。

全国から皆さんの支援がなかったら住民は家に閉じ込められる、あるいは地域に取り残され、被ばくにさらされ、救援もなく汚染地域の孤立は長期化する。まさにこれが原発震災ということになります。

最後にこの地震で全国の皆さんから珠洲に原発がなくてよかったと声をいただきます。また志賀は止まっていてよかった、本当に運がよかったと話があります。それはもちろんその通りだが、地震学、活断層審査の限界を全く自覚しない原子力規制委員会があり、加えて原子力災害対策指針の破綻、防災避難計画の破綻を全く認めようとしない原子力規制委員会がある。この背後には原発回帰路線を進んできた岸田政権があるが、こうした中で私たちはなんとしても志賀に限らず、この能登半島地震を最後の最後の警告として、というのは中越沖地震が起きても福島の事故があってそれでもまだやめないという中で今回の能登半島沖地震です。これを最後の最後の警告として、脱原発社会へ向かっていかなければならないということをお話させていただいて私からの報告を終了したいとおもいます。ありがとうございます。

質疑応答

Q1:不正選挙が行われたのは何年の何月か?

北野:1993年の4月。

Q2:あと志賀原発は最初能登原発と言っていたと思うが、それが稼働する直前に志賀原発と名前が変更されているが、どのような経緯があったのか?

北野:能登原発とかつて言っていたが、計画が公になったのは1967年だが、その時からずっと能登原発と言ってきていた。名前が変わったのは1988年の12月1日。これは志賀原発一号機の着工の日でその日に能登原発から志賀原発へと名前を変えた。なぜ変えたのかというと、能登原発と言っていると能登全体に影響があるような感じなので、そこを狭めた。志賀町に限定した。原発のマイナスイメージを能登全体に及ばないようにするために名前を変更したのではないかと思われる。例えば志賀町の隣には七尾市、和倉温泉などの観光地があり、能登の原発になるとそのような観光への影響を懸念していたのではないかと。

Q3:珠洲市は全国で一番人口の少ない市、1万二、三千。(正確にいうと本州で一番人口の少ない市)限界都市と言われているがそのなかに限界集落がたくさんあり、今回の地震の被害を受けて、復興をどうするのか、ということが悩ましい。10戸ほどしかない集落に道を通し公的資金を投入するのかという意見が一方である。地元の皆さんは今後、限界集落にお住みの方も含めて珠洲市の市民はどのような方向で復興を果たしていこうというのか、どのような気持ちになっているのか?

北野:大事な問題を指摘していただきました。珠洲市は典型的な過疎地(急激に過疎が進んでいる地域)で、そんな中今回の地震でどれだけの人が市外に避難しているのか地元に残っているのかということ自体、正確に把握もできていない。これから復興に向けて議論を進めなければならない。この間珠洲市はどのような方向で来たかというと、市の中心部だけではなく地域全体(沿岸部や孤立地域になっているようなところ含め)に、市内全域に人が住んでいてこそ珠洲市なんだと、そこで様々な生業をやっている人がいて、自然も守れる、自然との共生の中で地域が作られていくという考え方で、拠点を分散してやっていくという方向できている。ただ今回の地震でそのような方向を続けられるのか?孤立するような地域に公共インフラを通して、税金を投資していいのか。お金の問題も絡んできている。街づくりの方向性もどうするのかというのも含めて本当に悩ましいことだとは思っています。

集落の問題もあれば、下水道の区域自体ももっと狭めるべきなのではないかと。これからの復旧に向けて公共下水道のエリアを狭めて、当然空地も増えるため中心の市街地のほうも合併浄化槽に切り替えていったほうがいいのではないかという議論も出てくるかもしれません。山あいの集落の中でも水道管を引っ張るより井戸に切り替えてくれという話も出るかもしれないし、そのようなことを含めて議論はこれからです。市内全域に住んでいける地域を作るのか、きれいな言葉でいうとコンパクトシティ(市の中心に人を集めていくのか)ということになっていくかもしれない。そこは非常に悩ましいことだと思っています。

私としては自然の中で暮らしていきたい人たちがその地域で住み続けたいというのなら、できればそれを支えていく方向で進んでくれればいいなあ、と思っています。

Q4:珠洲の反対運動と賛成派の激烈な対立があり、計画が白紙になり20年以上経つが、その賛成派と反対派が激しく対立して分断された。感情的な対立もあったという話を聞くが、20年経ってその感情、しこりはどうなったか?

北野:2003年の12月5日に電力会社は撤退を表明したがその時点でいえば私も含め、マスコミの皆さんもこういう対立は孫子の代まで続くだろうといわれてきましたし、私も心配していました。ただこの二十年間を振り返り、その対立の溝というのは思いの外早く解消していきました。全くゼロとは言わない(腹の中に持っている人がいるのは間違いない)がかなり解消されている。ポイントが二つあり、一つは電力撤退が明らかになった段階で私たち反対派のほうが絶対に、勝ったとは言わないでおこうということを確認した。電力撤退した後の課題になるのは地域の融和ですから、そこは地域の中で勝ち組と負け組を作るようなことは自分たちのほうから絶対仕掛けていってはいけないと、取り組んできた。実際多くの反対してきている人たちもそういう方向で(きている)。中には腹の中にいろんな思いはあったとは思いますが抑えて、地域の中でそういった人間関係を取り戻すという努力をされたということが一つあります。

もう一つ大きなポイントとなったのはやはり2011年の福島の事故だと思います。それまで推進していた人たちは電力が撤退していったけれども、原発に対する未練を持ち続けている。原発さえできればこのように過疎が進むことはなかったのになと思いを持ち続けていたわけだが、その福島の事故、津波に襲われ爆発する福島の原発を見て、やっぱり珠洲に原発がなくてよかったと。これは多くの推進していた人たちが感じたことであり、私も直接そのような話を聞いています。そんな中で原発からようやく卒業できたのかなと思いがあります。

Q5:今の話の続き)北海道の神恵内や寿都ではお金が欲しいから処分地計画を作る受け入れをしているが、それと同じように福島で災害があり、原発がなくて良かったと思っている方いると思うが、今の中でお金がないという状況の中で、これはやはり(原発は)必要じゃないかという意見もあったんじゃないかと思うがどうか、今これから災害から復興しようというなかで、先ほどの賛成派と反対派の軋轢は残っているのかどうか。珠洲市の産業は農業と漁業だけなのか、北前船は関係なかったのか?

北野:最終処分場の関係、中間貯蔵の議論も含めて、珠洲の原発の計画があった当時から当面原発の話は出ているけれど最終的に電力会社の狙いは最終処分場、中間貯蔵施設ではないのかと噂が絶えませんでした。三電力共同開発という異例の形。加えて半島の先端ということで海上輸送で持ち込みやすいということもあるのではないか。私たちはずっと原発の問題と共に処分場の心配もしてきました。お金の問題は言われるとおりだが、長年に渡る地域の対立があって、原発の問題がなくなり、反対派だけではなく推進してきた人たちも含めて、毎日しんどい。家族の中や地域などで推進・反対と色眼鏡で見られるそんな暮らしということで、そのような状況をもう一度作りたくないというのは皆さんの共通した思いがあるのではないかと思っている。加えて今回の地震ということでお金はもちろん必要になるが、ここに処分場があったらどうなるのかと考えたときにあり得ないんじゃないかというふうに思います。

それから今後の復興に向けてにあたってかつての推進・反対ということですけども、そういうなかでも地域での対立はほとんどなくなっているのでそういった関係で議論になるとは思えないが、地域全体の人が住めるのにしていくのか、中心部に人を集約していくのかという問題はかつての原発推進・反対に関係なく今後のそれぞれの生き方にもかかわっていくし地域づくりのイメージにもかかわってくるし価値観にもかかわってくる問題で、原発推進・反対とは違った意味の枠で難しい対立といっていいのか、議論にはなっていくと思います。

北前船、地域の産業ですが、かつては鉄道なり陸上交通の時代の前は珠洲含めて能登は北前船で栄えてきた。北海道から九州のほうまで海を通じて繋がってきたという歴史がある。戦後の高度経済成長期になって陸路からの鉄道、高速道路、飛行機や新幹線などになっていく中で取り残されてきたというのがある。地域の産業だが農業、漁業とあるが最近は厳しくなってきているが能登杜氏という酒造り(冬場の出稼ぎ)というものが大きな産業としてあった。酒造りの産業を担ってきたというなかでいわゆる外貨を稼いで、春から秋にかけては地域で農業なり漁業をしながら、お金を使わない地域の自然の中で生活していくというところもあったとは思うのですが、だんだんと難しくなってきているところがある。

Q6:経歴のところで大学を出た後ジャスコに務めたその4年後に無農薬の農業をやっていたことを聞きたい。

北野:4年間サラリーマン生活をしたあとで、実は大学時代からの夢でもあった、珠洲のほうに帰りたい。行きたい。という思いがあった。(生まれたのは珠洲の隣、今は合併して能登町になっている)昔から珠洲の原発の計画があった、原発誘致の理由として地域に産業がない、働き口がないということが常に言われる。だからこそ原発だといわれてきたのだが、原発がなくても地域に帰れるじゃないか、暮らしていけるじゃないかと自分なりに示していきたいという思いがあった。その中で無農薬の農業というのを自分なりの選択肢としてあり、ただその経験がなかったため鳥越村、今は合併して白山市になっていますが、そこで無農薬の農業を大きな規模でやっている方がいて、そこに押しかけて2年間やらしてもらい、教わって、珠洲に行ったという経緯があります。そういった思いで珠洲に行きましたが、行ったその次の年に市長選挙があり、私の描いてきた方向性とはだいぶずれてきたというのはあるかなと思います。