21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

田中煕巳さん(日本被団協代表委員)が1月19日に長野市で講演

日本被団協ノーベル平和賞受賞記念講演会を開きます

今年のノーベル平和賞は日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)に授与されました。被爆者が二度と核兵器を使ってはならない、世界に核兵器はいらないと訴えてきた活動が高く評価されたものです。

これまでに被爆者のみなさんが語ってきた凄惨な被爆の実相が、国際社会における核兵器の非人道性を明らかにし、またヒロシマ・ナガサキ以降今日まで、戦争による核兵器使用を阻む最も大きな力となってきました。ノーベル委員会が「核のタブーの確立に大きく貢献してきた」と述べているように、被爆者のみなさんが果たした役割を重く受け止める必要があります。

世界では、核兵器を所有することで互いの緊張状態を作り、戦争を回避しようとする「核抑止論」への傾斜が強まり、核保有国から核兵器使用の威嚇が公然と発せられている現状があります。日本国内においても「核共有」を検討すべきなどと声高に主張する政治家さえ見受けられます。

しかし核兵器が存在する限り、核兵器使用のリスクは永遠になくなりません。被爆者が「二度と自分たちと同じ思いを他の誰にもさせるわけにはいかない」と語ってきた原点は被爆の実相であり、今こそ世界はそこに向き合い、学び、核兵器使用が迫る危機的状況を乗り越えていかなくてはなりません。

2021年には国際条約として核兵器禁止条約(TPNW)が発効しました。核兵器のない世界は具体的に達成できる未来であるということが確立されたのです。世界で核兵器の非人道性の確立に尽力してきた被爆者の思いを真に受け止めるのであれば、ヒロシマ・ナガサキを経験した日本こそが、今すぐ核兵器禁止条約に署名・批准すべきです。2023年12月に、ニューヨークの国連本部で開かれた第2回締約国会議には、アメリカの「核の傘」のもとにあるドイツやベルギーなどもオブザーバーとして参加しましたが、残念ながら日本政府の姿はありませんでした。

ノーベル委員会の説明した授賞理由の中には「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなることでしょう。しかし、記憶を留めるという強い文化と継続的な取り組みにより、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています」とあります。今後も原水禁は、被爆二世三世や高校生・大学生等といった次の世代に、確実に被爆の実相が継承されるよう運動に取り組んでいきます。

さて、県原水禁や県原水協、県生協連、県教組、県原爆被害者の会(長友会)が事務局団体となり、関係者・関係団体でつくる「~ヒバクシャの願いをつなぐ~ 核兵器禁止条約をひろげる長野ネット」は、10人の呼びかけ人による実行委員会を立ち上げ、日本被団協のノーベル平和賞受賞を記念し、ノルウェーでの授賞式に参加、スピーチを行った日本被団協代表委員の田中煕巳さんを長野市に招き、講演会を計画しました。

マスコミ報道されたため、すでに会場定員を上回る申し込みがあり、本会場は満席となってしましました。多くの方々に田中さんの講演を聴いてもらうため、ホテル信濃路の本会場の隣にサテライト会場を設営しました。また、Zoomによるインターネットでの視聴も可能です。講演の視聴を希望される方は実行委員会事務局までお申し込みください。Zoomでの視聴は申し込みの必要はありません。

1.主  催  日本被団協ノーベル平和賞受賞を祝う実行委員会

[呼びかけ人]岡田和枝(弁護士)、窪島誠一郎(無言館館主)、清水まなぶ(シンガーソングライター)、菅谷昭(前松本大学学長)、田澤洋子(原発に頼らない未来をつくろうプロジェクト)、中條智子(県連合婦人会顧問)、堀井正子(文芸評論家)、山口利幸(元県教育長)、横山タカ子(料理研究家)、若麻績敏隆(善光寺白蓮坊住職)

[事務局]ヒバクシャの願いをつなぐ~ 核兵器禁止条約をひろげる長野ネット

3.日  時  2025年1月19日(日) 13:00 12:30 受付開始

4.場  所  ホテル信濃路 長野市中御所岡田町131-4 電話 026-226-5212

5.記念講演  「ノーベル平和賞授賞式に参加して」田中煕巳さん 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員

6.会  費  サテライト会場参加費 500円 Zoomは参加費無料

ZoomミーティングID 869 9244 6910 パスコード  250119

7.申込締切  1月6日(月)までに事務局に申し込みをお願いします。

盛岡レーメン販売の収益金80万円を3団体に寄付しました

原発事故で放射能被害を受けた福島の子どもたちを支援するために

長野県原水禁は、東京電力福島第一原発事故による放射能汚染の影響を受けている子どもたちを支援するため、今年5月から7月にかけて盛岡レーメン一袋(5食/1000円)の物資販売に取り組みました。県原水禁の構成員のみなさんのご協力で3540袋(17700食)を販売、その結果80万円の寄付金を捻出することができました。

寄付金は12月、福島の子どもたちを支援する活動に取り組む3団体に直接手渡しました。贈呈した団体は、◇NPO法人3・11甲状腺がん子ども基金(東京)、◇311子ども甲状腺がん支援ネットワーク(東京)、◇認定NPO法人日本チェルノブイリ連帯基金(松本市)です。

信州市民連合が総選挙総括について3野党と意見交換

来年の参院選で市民と野党の共闘を再構築し政権交代へ

意見交換会には30人が参加

3野党県組織の代表が出席

信州市民連合は12月2日、選挙区市民連合や加盟団体の代表30人を集め(6人はZoom参加)、長野市内で全体会議を開きました。

全体会議では、まず共同代表の又坂常人氏が総選挙の結果の分析と総括、今後の展望について提案しました。又坂氏は、県内の選挙結果について「自民党は3議席にとどまった。全国的に数少ない実質的に野党共闘が成立した本県において、自民党に圧勝した結果は、来年参院選へ向け市民と野党の共闘を再建していく上で、全国的にも大きな意義をもつ」と指摘しました。ただし「長野県における立民候補の勝利は自民党の予想以上の苦戦によるものであり、必ずしも立憲・共産・社民3党の集票力の増加によるものではないことは、しっかりと認識しておく必要」があると強調しました。また又坂氏は、来年の参院選に向けてのポイントとして「選挙における政党選択においてもっとも重視されるのは生活問題。市民連合としてまずは若者と現役世代をターゲットにした生活保障政策を前面に打ち出すべき」と述べました。

全体会議では各選挙区市民連合から総選挙の取り組みと総括について以下のような報告がありました。

「勝利したが3野党と市民連合の共同の力で大きく盛り上げるまで至らなかった」(北信市民連合)、「5区を除いて市民と野党の共闘の信頼関係は残せたのではないか。2区は完勝だったが、日常から共闘を進めてきた成果だ」(中信市民連合)、「候補者と市民連合との協力・共同は、個人演説会の日程が知らされる程度だった。来年は羽田次郎議員が参議院選挙に臨むが3野党に働きかけを強めてほしい」(東信市民連合)、「前回よりわずかだが票を伸ばした点は評価したい。共産党が統一候補として出ている難しさもあった。本当の共闘とはどういうものなのか、課題が残った選挙だった」(4区市民連合連絡会)、「宮下氏が当選、福田氏は比例復活したが、一本化できれば勝てることができた選挙だった」(伊那谷市民連合)

「信州市民連合の候補一本化を求める努力に感謝」(杉尾秀哉氏)

全体会議の終了後に、3野党の県組織の代表が参加して意見交換会を行いました。政党からの参加者は、杉尾秀哉・立憲民主党県連代表(参議院議員)、鮎沢聡・日本共産党県委員会委員長、中川博司・社会民主党県連合代表(県議会議員)。

立憲民主党の杉尾秀哉・県連代表は「信州市民連合のギリギリの段階での調整努力に感謝申し上げる。4区で立憲内で立候補の動きがあり、信州市民連合との『共同のテーブル』での約束を守るため直前まで努力して、選挙区から比例へまわってもらった。参院選は過去4連勝しているが、来年は大変厳しい選挙となる。自民党は総力で長野をつぶしにかかってくるだろう。連携を図り候補の一本化を進めてほしい。衆議院とのダブル選も予想される。市民と野党の共闘をすすめる立場で対応したい」と述べました。日本共産党の鮎沢聡・県委員長は「衆院で与党が過半数割れした結果は市民と野党の勝利であり画期的。憲法改正勢力を3分の2以下に割り込ませ、希望や要求を実現できる状況になった。ただ、自民党政治に代わる新しい政治とは何か、まだ答えが出ていない。5区では野党統一に向けた努力を重ねてきたが、時間切れとなり反省の弁を述べたい。来年の参院選は衆院とのダブルの可能性もある。参院での自公の過半数割れを実現したい。決定的に重要なのは世論と運動。市民と野党の共闘で大いにアピールしていきたい」とあいさつ。社会民主党の中川博司・県連合代表は「県内で何とかみんなで戦おうとするみなさんの努力に敬意を表したい。7月末の要望に対し、3野党が集まって相談し、何とか一本化を図ろうとしてきたが、前回のようにはできなかった。社民党は1区から4区までは支援、5区は来年の参院選をにらみ自主投票とした。政策要望書の内容をどう実現していくのかが求められている。参院選でも候補一本化をめざし、政策合意を実現する運動の広がりをつくろう」と強調しました。

その後、参加者との意見交換も行いました。最後に、来年の参院選に向けて市民と野党の共闘を再構築し、与党の議席の過半数割れに追い込み、政権交代を実現しようと決意を固めました。

被爆79周年原水禁世界大会(広島)~長野県代表団報告~

長野県代表団が今年も広島へ

8月4日から6日にかけて広島市で開催された原水爆禁止世界大会・広島大会に、上伊那地区や長野地区、自治労・私鉄などを中心に、長野県原水禁代表団として24人が参加しました。長野県教組代表団21人は別行動で分科会や大久野島(旧陸軍が毒ガスを製造していた瀬戸内の島)のフィールドワークなどに参加しました。

毎日、原爆ドームを訪れました

長野県から10人の子どもたちが参加

昨年からコロナ禍で中断されていた子ども代表団が復活しました。今年も県内在住の小学4年生から中学3年生の参加者10人(保護者同伴)が、子ども慰霊祭や、平和公園の慰霊碑を巡るフィールドワーク、広島で学んだことを絵や新聞や朗読劇で表現するワークショップに参加しました。今年は昨年よりも親子参加者が増えて、より子ども主体の代表団になりました。広島市に滞在した3日間は連日天候に恵まれましたが、高い気温と湿度が続くため熱中症にならないように気をつけながらの滞在になりました。

元高校生平和大使の大学生たちと長野の子どもたち

8月4日(1日目)

初日は、長野県代表団のメンバーは原爆資料館(広島平和記念資料館)の南側に集合して、大人参加者(4人)は折鶴平和行進・開会総会に参加しました。炎天下の中での行進で心配されましたが、広島市街地は高いビルが多いので、午後の日差しを避けて歩けたそうです。親子参加者は原爆資料館を見学して、原爆被害の惨状を学びました。館内は平和式典にあわせて来日した外国人の方でいっぱいでした。犠牲になった人数ではなく、一人ひとりの方がどういう方だったのか、その日をどんな風に過ごしていたのか、それぞれの個人に焦点をあてた展示になっていました。

広島平和記念資料館

折鶴平和行進

平和公園から出発した折鶴平和行進

広島市街地を進むデモ隊

平和公園敷地内にあった中島地区

原爆が投下されて破壊された中島地区(現在の平和公園敷地内)

当時約1300世帯・約4400人が暮らしていた中島町

ほぼ全域が爆心半径500メートルの同心円内に入っており、街も住民も一瞬のうちに消滅した

米国での原爆開発に関わる資料も展示

ルーズベルト大統領に原爆開発を促したアインシュタインの手紙

マンハッタン計画で原爆開発にトリニティ核実験場で採取された石や砂   

月5日(2日目)

分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」

2日目(8月5日)は、大人参加者4人は、分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」に参加しました。分科会では、原水禁共同議長の金子哲夫さんから「核と人類は共存できない 核兵器禁止条約と原水禁運動の歴史」というテーマで、入門講座として原水禁運動のこれまでの歩みについて学びました。「被爆者の数字ではなく、被ばく者一人一人の命を考えてほしい、核兵器は悲惨な兵器であるという側面を持っていることを教えている」との問題提起を受けました。また広島県被団協の畑口實さん(原爆資料館元館長)からは、被爆者の声を学び、「核のない世界」に向けて考える時間になりました。

分科会「見て・聞いて・学ぼうヒロシマ」で話す金子哲夫氏

原水禁の歴史

歴史・原則・宣言

母親の胎内で被爆した畑口實さんのお話

畑口實さんは、原爆投下後、広島駅近くに父親を探しに行った母親のおなかの中で被爆(胎内被爆者)。原爆で父親を亡くし辛い戦後を過ごし、若いころは原爆のことを考えるのも嫌だったそうですが、原爆資料館の館長になったことが転機になったと語られました。世界中から訪れた方に、父の遺品の懐中時計を手に原爆について話す中で、被爆者である自分が伝えることの意義を感じるようになったそうです。館長を退任した今も、子どもたちに被爆体験を伝えるなどの活動を畑口實さんは続けています。今は「憎しみをもちながらも、和解という気持ちを持ち続けたい、これをヒロシマのこころ」だと訴えました。

『記憶を受け継ぐ』畑口實さん―消えぬ憎しみ超え語る(中国新聞)

畑口さんが寄贈した広島平和記念資料館平和データベースに保管されている被爆資料(お父さんのベルトのバックル)

資料詳細

親子参加者は子ども慰霊祭に参加

親子参加者は、早朝から子ども慰霊祭に参列しました。会場となった広島平和記念公園内にある「原爆供養塔」は、爆心地に近く、氏名、年齢、性別などほとんどわからない身元不明の死体が焼かれた臨時火葬場があった場所に建てられました。復興が始まるなかで、引き取り手のない遺骨が発見されると、遺骨は供養塔に届けられたそうです。

原爆供養塔には引き取り手のない大勢の犠牲者の遺骨が眠っている

慰霊祭には北海道や東京や三重など全国各地から子どもたちが集まりました。黙祷を捧げ、各地の子ども代表団が順番にそれぞれ献花しました。

 

長野県の子どもたちも献花し、子ども代表団の小林さんが献詩を捧げました。

長野県子ども代表団・献詩

明日は8月6日、
わたしたちが今いる広島に一発の原子爆弾が落とされたのです。

たった一発の原子爆弾はいろいろな苦しみや悲しみのなかでも、
明るい未来を信じて生きていた14万人の
尊い命が一瞬にして終わってしまいました。

わたしは原子爆弾について、
広島と長崎に落とされた危ない爆弾程度のことしか知りませんでした。
しかし今回の派遣団への参加にあたり自分なりに調べたり、
きのう初めて訪れた平和記念資料館で目にした当時の様子から
わたしの原子爆弾へのイメージががらりと変わりました。

教科書の写真を通して見るのではなく実際に広島を訪れ体験したことで、
自分には関係のないことだという考えがなくなり、
本来の原子爆弾の怖さについて気づくことができました。

また自分と同じくらいの年齢の子の想像を絶する被害状況を目の当たりにし、
二度と核は使用してはいけないと思いました。

たった一発の原子爆弾によって奪われた14万人の方々の尊い命、
そして大切な人々や大事なもの、
たくさんの犠牲を無駄にしないためにも、
戦争について聞き学び、戦争や核使用の悲惨さ、平和の尊さを受け継ぎ
次世代に引き継いでいくことが大切だと思います。

皆様の犠牲を無駄にはしません。
平和に向かって一歩一歩進んでいく私たちを天国から見守っていてください。

 

平和記念公園内の慰霊碑を巡るフィールドワーク

慰霊祭終了後、親子参加者は、平和公園内に建立されている慰霊碑を巡るプログラムに参加しました。原爆の被害や、それぞれの慰霊碑やモニュメントの背景や歴史についてガイドの方から説明を受けながら巡りました。

碑めぐりのガイドの方のお話を聞く子どもたち

原爆の子の像

 これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです

原爆の子の像の傍らには各地から寄せられた折鶴が飾られています。長野県代表団の子どもたちも長野から持参した折鶴を届けました。
1955年11月8日に、新聞で禎子の死を知った男の子から「禎子さんを始め、原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と、禎子の同級生に提案があり、その設置に関する活動が始まったそうです。

像の真下の石碑には

「これはぼくらの叫びです
これは私たちの祈りです
世界に平和を
きずくための」

と刻まれています。

被爆者講話と被爆電車

午前の部の最後には、被爆2世の方からお話を伺いました。参加者の感想から、「なぜ「ヒロシマ」という表記があるのかその理由がわかった」という声がありました。広島が原爆投下によって、人のいない荒野、無機質な「ヒロシマ」にされてしまったこと、それを繰り返さないという意味や平和を訴える国際都市としての願いが込められていることを知ることができました。

事前に参加希望のあった子どもたちは、原爆投下当時に走っていた市電「被爆電車」に乗って広島の街を走りながら被爆者の方のお話を伺う機会を得られました。

  

元高校生平和大使の企画ワークショップ

午後の部では、子どもたちは高校生平和大使を経験した大学生が中心になって企画されたワークショップに参加しました。それぞれが広島に来て、見たもの、感じたことを劇や新聞や絵で表現するというプログラムでした。長野県から参加した子どもたちはそれぞれ朗読劇、新聞作り、うちわに絵を描くワークショップを選びました。

朗読劇では、各県の子どもたちが一緒に読み合わせをしながら本番に備えました。新聞やうちわ作りにとりくんだ子どもたちは広島で学んだことや感じたこと、実際に目にした原爆ドームや慰霊碑などをそれぞれの形で表現しました。子どもたちは長崎県などから参加している高校生のスタッフさんのサポートを受けながら、原爆ドームや慰霊碑や折鶴などを描いていました。

佐々木禎子さんと同級生たちの物語を上演

本番を迎えた朗読劇は、一同緊張した面持ちでしたが佐々木禎子さんと「原爆の子の像」をつくった同級生たちの物語を演じ切ることができました。親御さんをはじめ参加者一同見入っていました。

私たちは最後の世代

普段、関わることの少ない大学生や高校生とのやりとり、県外の子どもたちとの交流も子どもたちには貴重な経験になりました。プログラムの最後には、企画運営してくれた大学生たちが、一人ひとり自身の高校生平和大使での経験や、自身の思いを子どもたちに語ってくれました。「私たちも今日参加してくれたみんなも被爆者のお話を直接聞くことができる最後の世代」だと、広島で見たこと聞いたこと知ったことを家族や友人に伝えることも核廃絶や平和をつくっていく活動なんだと伝えてくれました。

 

最後に大学生の方々と長野県代表団の子どもたちで記念写真を撮りました

8月6日(3日目)

朝から平和公園の原爆ドームへ

日程の最終日は、朝から原爆ドームに向かいました。今年は平和公園に入る際に、手荷物検査が実施されていたため、ものものしい雰囲気で例年以上に混雑が発生していました。前日までの穏やかな平和公園とは異なり、ものものしい雰囲気でした。

新聞記者さんから取材を受ける

原爆ドーム前でダイ・イン

子どもたちも緊張した面持ちでしたが、原爆ドーム横のスペースに、長野県代表団全員が集まることができました。今年は、原爆投下の時刻にあわせて親子参加者を中心にダイ・インを行いました。最後に、北原団長から、今回の広島での経験をぜひ伝えていってください、とあいさつがありました。その後、原爆ドーム前で集合写真を撮って解散しました。

原爆投下時刻の8時15分にダイ・イン

北原団長から代表団解散のあいさつ

国際シンポジウム~閉会集会に参加

事務局と一部参加者は解散後、国際シンポジウムと広島大会の閉会集会に参加しました。

国際シンポジウムは「核廃絶に向けた一歩を踏み出すために」というテーマで、アメリカからデービッド・ギブソン氏(Peace Action )、韓国からイヨンア氏(参与連帯)、日本から元広島市長の秋葉忠利(原水禁顧問)が登壇されました。ギブソン氏とイ氏からは、アメリカや韓国内での市民運動の取組みが紹介されました。

2045ビジョン

秋葉氏からは、被爆100周年にあたる2045年までに核兵器を廃絶することを目標に掲げて世界的運動を展開して、中間点の2035年までに、核兵器保有国が「No First Use」、つまり、核兵器の先制不使用に合意するという計画「2045ビジョン」が示されました。また「ヒロシマを背負って世界に平和を発信、具体的な行動をとるように政治家を説得することをこの大会から出てくれば素晴らしい」との発言がありました。

※秋葉氏のブログに当日の様子が紹介されています。

「ヒロシマの心を世界に」

https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-ea8f01.html

暑い広島での3日間でしたが、一人も体調不良等になることなく終えられました。
来年も原水禁世界大会広島大会が実施予定です。ぜひご参加ください。

原爆死没者慰霊碑と原爆ドーム

参加者の感想

子どもたちの声

・僕は、戦争や平和のことはよく理解していると思っていた。広島に行くまでは。写真でしか見たことがなかった原爆ドームを目の前で見て、その偉大さや悲惨さに言葉を失ってしまった。平和記念資料館に展示された多くの写真、遺品を見て胸がとても苦しくなった。また自分の戦争への無知を知った。たくさんの慰霊碑や話を見たり聞いたりして知ることができた戦争の悲惨さ、今でも心身に傷が残っている人々。このことを知った僕は、たくさんの人々に伝えなければならない。また、「平和」というとても重いものに対して、よく考えなければならない。戦争は、怒りや憎しみ、そして悲しみしか生みださない。もう誰も悲しまないように、知ったこと、学んだことをたくさんの人に伝え続けなければならない。僕は、「平和」へと向かうため、このことを伝え続けたい。

・初めて広島に行って、初めての平和記念資料館や、原爆ドーム、原爆死没者慰霊碑、原爆の子の像などが実際に見れて勉強になったなと思いました。そして、他の人たちとの交流では、緊張してましたが、話しかけたりして、少しだけなかよくなれた気がしました。

・広島から帰ってきて復興について調べました。復興は、原爆投下後から始まっていました。被爆電車は原爆投下から3日後に走り出したそうです。しかも、男の人たちは戦争に行ってしまっていないため、車掌を務めるのは女の人たちだったそうです。「広島カープ」も広島の街に希望の光を与えることを創設目的としたようです。この原爆投下されてから復興した広島市の皆さんの力強さも感じました。
僕は、広島で学んだことを戦争や原爆で亡くなったすべての人たちのために、家族や友達に伝えたいと思います。母に「海をわたった折り鶴」の絵本を購入してもらったので、妹たちには難しい内容かもしれませんが、読み聞かせしてあげようと思います。

原爆投下目標だったと言われる「相生橋」からの眺め

・私たちは、被爆者(被爆2世)の方々から実際にお話を聞くことのできる最後の世代なので、良い機会となりました。聞いたお話の中で特に心に残ったお話は、カタカナの「ヒロシマ」の意味です。私は今まで、現在の「広島」と原子爆弾が落とされた時の「広島」を区別するために、カタカナで「ヒロシマ」と書いているのだと思っていました。実際は、原爆が落とされ、人がいないただの荒野になってしまった無機質な「広島」をカタカナで書くことで表しているそうです。確かに、漢字やひらがなで書くよりも、カタカナで書くと無機質な感じになるなと思いました。なにげなく読んでいた文字にも、こんなに深い意味があることを被爆2世の方から聞くことができて良かったです。

・私が広島大会に参加して、1番心に残ったことは、「原爆死没者慰霊碑」です。広島市を平和都市として再建することを願って建てられた。中央の石室には原爆で亡くなったすべての人の名前を書いた名簿が収められている。次に、「原爆の子の像」が心に残りました。佐々木禎子さんは2歳の時に被爆し、その10年後突然白血病になり、千羽鶴を折りながら亡くなった。佐々木禎子さんの同級生が平和を願って建てたのが「原爆の子の像」。それから人々は平和を願って千羽鶴をかざるようになった。この三日間を通して、原爆についてくわしく知り、原爆資料館に行き、被爆したとききていた本物の洋服などを実際に見ることができた。三日間とてもつかれたけれども、楽しかったです。

・ぼくは原爆の事だけではなく、新聞作りなので他の県の人たちと交流ができたり、夕ごはんには、同じ県の人たちとおいしいごはんを食べた楽しいこともたくさんありました。広島大会では、原爆のことをたくさん勉強できたり広島を観光できたのでたくさんのことを知ることができました。3日間ありがとうございました。

・ 初めて、広島に行き、原爆の、おそろしさを知って、もう二度と原爆をどこにもおとしてほしくないと思った。世界の核兵器が一日でも早くなくなってほしいと思った。

・ 広島にげんしばくだんが落とされたのは79年も前だけど、今も79年前の苦しみが続いているんだと改めて、知りました。

 

原爆死没者慰霊碑を通して平和の灯が見える

保護者・大人参加者の声

・被爆国の日本人として、子供と共に、外国の情勢や海外の戦争のことにも目を向け、知識を得て、自分の判断をしていきたいと思った3日間でした。
今ある平和をあたりまえと思わず、平和なれした人にならない為に。外国の人の方が、多い式典で、日本人として胸を張って、反戦を語りたい。

・原爆投下から79年目に、原水爆禁止世界大会の広島に参加させていただき、娘2人とともにとても貴重な経験ができ、とても感謝しております。3日間ともとても暑く、汗だくでしたが、長野にいるだけではわからない本当にも実りある3日間でした。この経験を微力ではありますが、いろんな人に伝えていきたいと感じました。

・最近ではウクライナ、イラン、イスラエルガザ、台湾、中国の争いが起こっていますが、79年前のことが再び起こりかねない状況を危惧しています。今の争いも、79年前の戦争から影響があり、要因の一つであると私は考えます。将来の和平、持続可能な社会を構築するためには、79年前の事実を世界の人々が知り、向き合うことが、今もなお必要であると考えます。欧米、ロシア、中国、自国都合、利己主義になるのではなく、互いを理解して共に生きることで、原水爆のない社会、争いのない社会ができるものだと信じています。

ガイドの方のお話を真剣にきく子どもたち

・心の中で、「いつか行ってみたい」と思いながら40年が経ってしまいました。自分の子どもには早い段階で経験させて、戦争、原爆について考えてほしかったので、親子参加ができること、本当に感謝です。ロシアのウクライナ侵攻、ガザ地区の問題など世界の情勢はとても不安定で、核兵器の脅威も感じています。私自身教員として生徒にその怖さ、悲しさを伝えてきたつもりですが、「広島」から学ぶことは本当に大きかったです。広島に到着した時には、多くのビルが建ち、多くの人が行き交う姿を見て、「戦争」よりは「平和」を感じましたが、平和公園に入り、原爆ドームも目にする中で、常に戦争と向き合ってきた場所なんだと実感しました。資料館では目を背けることのできない大きな事実、被爆者の方からの生の声、体験の中で多くのことを学びました。やはり自分の子どもと同じくらいの年齢の子が多く命を落としていることに心がとても痛みました。高校生、大学生のワークショップでは、若い人達がこんなにもアクションを起こしていることに感動と元気をもらいました。今回の大会参加では同じ長野の方、日本全国から集まった方との交流ができ、多くの学びがありました。長野県に戻ってもこの経験を広げていけたらと思います。3日間ありがとうございました。

・こういった機会でないと原爆が落とされた場所に赴いて黙祷に参加し、地元の方と同時に思いを馳せることはできなかったと思います。想像以上に外国籍の方が多かったことも印象的でした。彼らがどういった気持ちで広島という地を訪れ、原爆についての資料をみていたかは知る由もないですが、どんな思いであったにせよ、唯一の戦争被爆国の国民として原爆の悲惨さというものを世界に訴えていく姿勢を取り続けることが我々の役割なのだと思いました。俯瞰的な視点で見れば、核を抑止力としてその存在を消極的にですが、肯定することもできます。ただ、戦争被爆国として反対という意見をリアルな声で上げていくことが日本の取るべき立場なのではないかと思います。やはり実際にことが起きた場所へ足を運ぶのは、歴史という学問のなかで教科書で学ぶこととは異なり、そこでしか考えられないことがあると思います。広島という魅力的な街を数日間歩くことでさらに原爆の悲惨さ理不尽さを実際にそこで起きた出来事として他人事ではないと捉えることができると思います。こうした機会がなければ、この体験はできないので、是非参加していただければと思います。

・ 今回初めて、広島を訪れましたが、原爆ドームや平和記念資料館に展示された遺品を目にし、教科書の知識だけでは、決して知り得なかった生の声を聞く機会をいただいた中で、原爆投下の惨状を想像し、言葉に出来ないものでした。子どもたちも、同年代の友だちも出来、「被爆電車」に乗ったり、貴重な、経験が、出来たと喜んでいました。ちょっとした、広島観光や、懇親会など、楽しい思い出も含め、とても、充実したものとなりました。戦争の悲惨さ、恐ろしさを風化させることなく、伝えていかなければと、強く思いました。ありがとうございました。

・私が高校の修学旅行の際、広島平和記念資料館を訪れたが、その時以来約40年ぶりに訪れたことになる。高校生の時も感じたが、原爆被害の悲惨さを感じ、こんなことが二度とあってはならないと再び思った。各講演で被爆者の実体験の話を聞いたが、いずれの方々も高齢であった。現実的問題として、あと何十年も経つと被爆者がいなくなるという問題があり、結果として核廃絶の動きが縮小する懸念がある。今回お子さんの参加もあり、彼・彼女達なりに色々感じるところがあったのではないかと思う。核廃絶を含めた平和運動を次世代にもつなげていくためには、今回のような子供への教育的体験が重要なのではないかと思う。

・実際に見て触れて感じることで、戦争の悲惨さを深く考えることができた。それと同時に今の私たちがどのような気持ちを持って過ごすべきなのかを学ぶことができた。自分の目で見ないとわからないことはたくさんあります。ぜひ参加してください。広島を感じることのできる素敵なプログラムでした。ありがとうございました。

・「原爆の日」を迎えた平和公園周辺は物々しい雰囲気で、入場するにも荷物検査をしなくてはならず、テレビで見る平和式典とは違った感じを受けました。8:15には全員で黙祷を捧げましたが、こどもたちはdie-in(ダイイン)を行いました。私も子供の時、こんな経験ができたらよかったのに、とふと思いました。

・「高校生平和大使」を調べてみると初代長崎の高校生2人が核兵器廃絶を求め署名をニューヨーク国連本部に持参し、平和活動がスタートしたようです。各地で、核兵器廃絶と平和な世界の実現を訴え、国内外に向け発進しているそうです。大学生から、私たちが、この経験を通して、家族・友達等に原爆の恐ろしさを伝えることだけでも平和活動と教えていただき、帰省後に家族へ原爆の恐ろしさなどを伝えることができました。原子爆弾は、日本へ2度も落とさなくてはならなかったのだろうか…。今も世界中で起こっている核開発や戦争は必要なのだろうか…。今ある生活が、とても幸せであること。また、この経験により終戦記念日などメディアでも多く取り上げられ、今まで関心がなかった息子が関心を示していることにも感謝しています。ありがとうございました。

 

与野党伯仲の国会で労働者・国民の願いを反映する政治をつくろう

県労組会議が定期総会開き護憲・脱原発などの運動方針を確認

県労組会議事務局次長に草野麻理子さん、間宮正博さんを選任

長野県平和・人権・環境労働組合会議(県労組会議)は10月18日、代議員・傍聴者など約60人を集め、長野市内で第29回定期総会を開きました。おりしも10月初めに発足した石破茂政権が、自らの権力基盤を強めるためだけの目的で衆議院を解散し総選挙が行われている真っ最中の総会でした。

主催者あいさつで、宇佐美正信議長は、岸田政権が退陣し石破政権が発足した点について触れ「国民生活や平和を壊し続ける自民党政治に変わりはない。総選挙で与党の過半数割れをめざそう」などと強調しました。

来賓として、連合長野の根橋美津人会長、立憲民主党県連の杉尾秀哉代表(参議院議員)、社会民主党県連合の中村雅代副代表(小布施町議会議員)、部落解放同盟県連の小山慎彦執行委員長、朝鮮総聯県本部の洪高志組織部長、県労働金庫の小池政和理事長、こくみん共済coop長野推進本部の村山智彦本部長、県住宅生協の徳武淳理事長にごあいさつをいただきました。

討論では「県の人事委員会勧告が出て市町村段階での確定闘争に取り組んでいる。『労使自治の原則』で労使交渉を積み重ねて要求を実現したい」(自治労)、「初めて総会に参加した。いざというときに相談に乗ってくれる労組会議を頼りにしている」(印刷フォーラムながの)、「朝鮮学校を支援するキムチ購入に取り組んでいるが、食品の内容表示を徹底してほしい」(松本地区労組会議)などの報告、意見がありました。

特別決議として「平和と民主主義、国民生活を守り抜くため、総選挙に勝利し政権交代を実現する決議」が採択されました。最後に「組織されていない労働者・国民にも共感が広がる労働運動、平和運動が必要」であり、「私たちの日々の運動の積み重ねが、必ず平和で幸せな社会、労働者・国民のための社会をつくると確信」しようとする「総会宣言」を採択しました。

役員改選では一部役員が交代しましたが、県労組会議三役は全員が留任、新たに事務局次長として草野麻理子さん、間宮正博さんが選任されました。役員体制(四役)は以下の通りです。

◆議長=宇佐美正信(国労長野)、◆副議長=伊藤浩二(自治労)、若林茂(私鉄県連)、大橋孝宏(森林労連)、◆事務局長=喜多英之(自治労)、◆事務局次長=草野麻理子(県労組会議・自治労)、間宮正博(県労組会議・自治労)

総会には代議員・傍聴、役員など約60人が出席

あいさつする宇佐美正信議長

【来賓】根橋美津人・連合長野会長

【来賓】杉尾秀哉・立憲民主党県連代表(参議院議員)

【来賓】中村雅代・社民党県連合副代表(小布施町議会議員)

【来賓】小山慎彦・部落解放同盟県連執行委員長

【来賓】洪高志・朝鮮総聯県本部組織部長

【来賓】小池政和・県労働金庫理事長

【来賓】村山智彦・こくみん共済coop長野推進本部本部長

【来賓】徳武淳・県住宅生協理事長

発言する小川晃代議員(自治労)

発言する丸山信子代議員(印刷フォーラムながの)

発言する高山佳朗代議員(松本地区労組会議)

総会の最後には全員で団結ガンバロー

311 子ども甲状腺がん裁判第11回口頭弁論を傍聴して

東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた男女7人が東京電力に損害賠償を求めている「311子ども甲状腺がん裁判」の第11回口頭弁論が9月11日、東京地裁で開かれた。

この日は、大法廷の一般傍聴席が85席に対し、207人が傍聴券の抽選に並んだ。傍聴希望者が200人を超えたのは、第5回期日ぶりとのこと。裁判は、進むにつれて傍聴者が減るのが一般的だが、この裁判においては少しずつ傍聴希望者が増えているそう。その後の報告集会もほぼ満席。原告はもちろん、弁護団や支援者たちのたゆまぬ努力の賜物なのだろう。

         

今回は傍聴抽選に当たり、法廷内に入ることができたのだが、珍しく協議が長引き、10分ほど開廷が遅れた。資料も揃わず裁判所側がモタモタしている様子だった。ようやく原告意見陳述が始まったころは14:30頃で、原告は「自分の住む町が福島第一原発から西に100キロの場所にあり、まさか被ばくする環境とは知らず、30~40分かけて自転車で通学や買い物に出かけた。自宅の目の前の道路を自動車が通るたび、地面から粉じんが巻き上げられていた。手術後は、再発、転移のことを考えないようにして自分の精神状態を保った」などと緊張しながらもしっかりとした口調で話した。

裁判所から、全ての主張を出し尽くすよう求められていた原告は全部で15本の準備書面を提出した。一方、東京電力は2本の反論書面を提出した。

UNSCEAR報告書の過小評価の原因特定か

原告の主張のうちの1つは、被告の主張する「過剰診断」論を否定するもの。福島県の甲状腺がんの手術症例などに基づき、福島県で見つかっている甲状腺がんは、被告の指摘するような「潜在がん」とは言えないと主張した。また、原告一人ひとりについても、病気の推移を詳細に示し、短期間で腫瘍が増大している実情や、多数のリンパ節転移が見つかっていることを指摘した。

              

大気中浮遊物測定局内で「霧箱」効果?

また、UNSCEARの報告書の被ばく線量評価については、黒川眞一高エネルギー加速器研究機構名誉教授の5通目となる意見書を提出した。UNSCEAR報告書はデータ解析の際、大気汚染を監視するために設置されているSPM局で採取された放射性セシウムの値を利用しているが、意見書では、その値が、大幅に少なくなっている原因を特定。最も高濃度の放射性プルームが福島県内を覆っていた3月15日から16日にかけて、福島市内では気温が低く、かつ湿度の高い飽和状態に近い気象条件にあったとした上で、SPM局の中に取り込まれた大気が、高濃度の放射性物質の影響でイオン化し、液滴となる「霧箱」のような状態に陥っていた可能性があると指摘した。原発事故と甲状腺がんとの関係を証明する意見書を東京地裁に提出した黒川眞一・高エネルギー加速器研究機構名誉教授に対し、東京電力が「放射線の専門家ではない」と主張していることについて、只野弁護士は「黒川名誉教授は高度の学識を持っており、専門家である。東京電力側の主張は黒川さんに対する侮辱であり、今後、このような侮辱は金輪際、やめていただきたい」と語気を強めて抗議する場面もあった。

さらに、当時の福島市内で計測された大気中浮遊物(SPM)のデータが、放射性プルームの到来時間に、数値がゼロになっている事実を提示。この時間に、SPM局内では霧箱状態となり、SPMや放射性セシウムは、粒径が大きくなって排除され、濾紙に付着する量が極端に少なくなっていた可能性が高いと主張した。

「誰ひとり泣き寝入りさせない」〜原賠法の立法時

このほか、原子力損害賠償法の立法当時に遡り、立法趣旨を解説する書面も提出。法廷のプレゼンでは、原賠法立法当時、原子力事故が起きたい際に、被害者が重い立証責任を負うことは想定されていなかったことを解説した上で、国会でも「誰一人泣き寝入りさせない」という答弁が繰り返されていたことを裁判所に訴えた。

         

第12回口頭弁論期日は12月11日(水)に予定されている。

次回期日には、地区労組会議を介して購入いただいているレーメンの販売利益分を3団体(3・11甲状腺がん子ども基金、311甲状腺がん子ども支援ネットワーク、日本チェルノブイリ連帯基金)にそれぞれ寄付する予定。組合員のみなさまの善意がここにも届いている。

次回以降は証人尋問が始まり、裁判も新たなフェーズを迎える。今後もより一層の支援をしていきたい。

 

脱原発・核兵器廃絶を求める活動を報告します(6月~10月)

◆各地域で被爆79周年非核平和行進を実施

日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、改めて被爆者の存在と被爆体験を伝える活動、核兵器廃絶に向けた課題がクローズアップされています。

県原水禁、各地区原水禁・地区労組会議は今年6月7日から17日まで県内各地で核兵器の廃絶と脱原発を訴える「被爆79周年非核平和行進」を実施しました。6月7日に飯山市での集会、デモ行進をスタートに、17日の大北地区での自治体申し入れ活動まで県内各地で地域の平和世論を盛り上げようと取り組みが行われました。

7月1日、2日には、原水協系の国民平和大行進実行委員会の集会と行進にも参加しエール交換を行いました。

長野地区での非核平和行進

国民平和大行進の集会であいさつする大橋孝宏・県労組会議副議長

 

◆柏崎刈羽原発の再稼働は許さない-集会・デモが柏崎市で開かれる

7月15日、新潟県柏崎市の産業文化会館において、原発からいのちとふるさとを守る県民の会主催で「中越沖地震17年 福島を忘れない! 原発ハイロ全国集会」が280人が参加し開催されました。

これまで県民集会として開催されることが多かった柏崎での集会でしたが、政府によって原発回帰路線への転換がなされている今、東京電力柏崎刈羽原子力発電所の再稼働反対の声を広く集めるため、全国集会という形で開催されました。

集会では、環境経済研究所代表・元新潟県原子力災害時の避難方法に関する検証委員の上岡直美さんが講演し、「新潟県の花角知事は40数回開いた委員会の総括もないままに消滅させてしまった。原子力業界は、旧日本軍のようだ。福島の被害を低く見積もり、原子力政策を続けようとしている」と指摘しました。また、福島原発事故当時の気象条件などを当てはめて、放射性物質の放出・拡散がどのようになされるか、具体的なシミュレーションを示すなど、専門家ならではの視点でわかりやすく解説しました。

集会後には、柏崎駅周辺をパレードし、柏崎刈羽原発再稼働反対の声を上げました。パレードコースは、柏崎市の中心街とはいえあまり通行人が多くありませんでしたが、店先から手を振って、「脱原発」の思いに共感してくれる姿も見られました。

長野県原水禁からは3人が参加しました。

集会には280人が参加

柏崎市内をデモ行進して原発再稼働反対をアピール

 

 

◆反核平和の火リレーに青年女性528人が参加

県内の77市町村・県に平和行政推進の要請を行う第37回反核平和の火リレーが、7月9日から8月6日まで取り組まれ、ランナー総数528人が参加しました。各自治体の要請行動には多くの理事者や応援者が出席し、77自治体中64自治体で市町村長(もしくは副市町村長)が参加いただき、「戦争を知らない人世代が増えている中、若い皆さんが取り組みを続けていくことに意義がある」、「平和の思いを地域につなぎ、次世代へとつないでほしい」など激励を受けました。

5月25日に開いた事前学習会では、新潟県平和運動センターの有田純也事務局長から「柏崎刈羽原発の再稼働が意味すること」と題し講演をいただき、地震や災害による危険性や事故のリスク、コスト高や世界で広がる再生可能エネルギーへの転換などあらゆる視点で原発に反対する理由を学びました。参加者からは「今回のような学習会にもっと参加して学ぶ機会が大事だ」という頼もしい意見も出され、反核・平和運動を押し付けられてやらされる運動にせず、なぜ取り組まれてきたのか、どうして反核が必要なのかということを考え機会をさらに増やしていこうと確認しました。

リレーは7月9日に飯田市役所を出発

ゴールの県庁に向けて走る青年組合員

 

◆広島への原発投下の時刻に黙とう-県原水禁大会

8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された時刻に合わせ、広島市平和祈念式典をTV中継でつなぎながら被爆79周年原水爆禁止県大会で参加者は黙とうをささげました。オンラインを含め約50人の仲間が参加しました。

県大会では「核と人類は共存できな」という思いを胸に被爆79周年活動方針を確認し、被爆直後の広島・長崎の実写フィルムを編集したDVD「にんげんををかえせ」を上映しました。県原爆被害者の会の前座明司副会長(被爆2世)、5歳の時に広島市内で被爆した今井和子さん(83歳)の被爆体験の語りを傾聴しました。

今井和子さんは、「すごい閃光でした。地の底から突き上げるようなドンっという振動、そして、体がふわっと浮いた感じがしました。(原爆が投下され)真っ暗になって、(その後)明るくなって見えたものは歪んだ家。隣の家は火を噴いて燃えていて向かいの家はぺちゃんこでした」と体験を語り、「政府は速やかに核兵器禁止条約に参加し世界の先頭に立ってもらいたい」と訴えました。

原爆投下の8時15分に合わせて参加者が黙とう

広島での被爆体験を語る今井和子さん

 

◆東京のど真ん中で脱原発をアピール 全国集会に5千人

「命をつなぐ地球環境を」をテーマに、さようなら原発全国集会が9月16日、東京・代々木公園で開かれ、脱原発や気候危機の問題に関心を寄せる労働組合や生活協同組合、市民ら約5千人が集まりました。雷雨の予報をよそに集会中は天気にも恵まれ、脱原発や気候問題などをテーマにした模擬店や各地の産直物産、キッチンカーなども出店し賑わいを見せていました。

ステージでは、各地の原発の再稼働の動きや核燃料サイクルの問題、地元漁民らの意向をないがしろにして海洋放出を続けるALPSS処理水(放射能汚染水)の課題などの報告や訴えがあり、また地球温暖化の解決策を原発に求めようとする動きに対して警鐘を鳴らす若者の発言に集会参加者は熱心に耳を傾けました。

集会後、渋谷コースと原宿コースの二手に分かれてデモ行進に移り、賑わう街並みにさようなら原発、原発は気候危機の解決にならないと訴えかけました。

長野県からは8人が参加しました。

集会の最後にみんなでプラカードパフォーマンス

手作りのプラカードを掲げてパレード

 

◆原発は民主主義と相いれない-市民集会・脱原発2024㏌信州

柏崎刈羽原発7号機(新潟県柏崎市)は、原子炉への核燃料の装塡に伴う検査が6月に全て終了し、技術的には再稼働できる準備が整ったとして、東京電力が再稼働について地元同意を求めています。しかし、福島第一原発の大事故を引き起こした東京電力に、原発を運転する資格はありません。

長野県境の栄村、野沢温泉村から柏崎刈羽原発まで50kmもありません。万が一、大事故が起きた時、長野県の北信地方が放射能被害を受けてしまうことは、福島原発事故の被害状況からみても、現実のものとなってしまいます。

市民集会・脱原発2024in信州が10月20日、長野市・県労働会館で開かれ、会場とオンライン合わせて約60人が参加しました。新潟県の柏崎刈羽原発に関する検証委員会の委員を務めた佐々木寛さん(新潟国際情報大学教授)が「原発と民主主義~柏崎刈羽原子力発電所の再稼働問題を考える」と題して講演しました。佐々木さんは「原発建設が民主主義や地方自治、人権を侵害し続けている」と強調。新潟県で県民の意思に反してすすむ柏崎刈羽原発の再稼働の準備について厳しく批判しました。また、新潟県平和運動センターの有田純也さんも集会に参加し発言。11月から柏崎刈羽原発の再稼働問題について県民投票の実施を求める直接請求署名を始めると報告しました。

集会には約60人の市民が参加

講師の佐々木寛さん

 

総選挙 与党が過半数割れ - 政権交代へ道筋つける

県労組会議の推薦候補4氏が当選果たす

国民・労働者の生活向上、平和を守る政治へ大転換を

10月27日に投開票された総選挙は、自民・公明の与党が過半数を大きく割り込み、立憲民主党などの野党が躍進する結果となりました。「一強多弱」の政治状況が一変し、与野党伯仲状態が生まれました。裏金や旧統一教会問題、絶対多数を背景にした強権的な国会運営など、自民党政治のおごりに国民の怒りが吹き上がりました。

県労組会議は1区、2区、3区、5区の4人の候補者を推薦しましたが、全員が当選を果たすことができました。みなさまのご支援に心から感謝申し上げます。

当選した衆議院議員

長野1区 篠原 孝

長野2区 下条みつ

長野3区 神津 健

長野5区 福田淳太

裏金・統一教会に頼り、国民生活と平和を壊す自公政権は退場を

立憲野党の躍進で国民・労働者のための政治、政権交代を実現しよう

総選挙投票日は10月27日(日) 期日前投票の活用も

石破政権が発足しましたが、国会で十分な議論も行わず、10月9日解散、15日公示、27日投開票の総選挙を強行しました。

石破首相は自民党総裁選の中で掲げた「裏金議員の選挙での厳しい処遇」「日米地位協定の改定」「選択的夫婦別姓制の導入」などは、首相就任後に態度を一変させ、発言を修正したり封印したり、発言と行動が一致しないブレた対応に終始しています。また、衆議院の解散についても総裁選では、国会で十分に議論してからなどと発言したにもかかわらず、早期解散を強行するなど、すでに国民からの信頼感を失いつつあります。

投票日は10月27日(日)。国民生活と平和、民主主義の将来のために何としても自公政権の過半数割れ、政権交代への道すじをつけましょう。

県労組会議総選挙推薦候補

長野1区 しのはら孝  長野2区 下条みつ

長野3区 神津たけし   長野5区 福田じゅんた

県労組会議が4候補に「政策要望書」を提出

県労組会議は各選挙区の推薦候補者あてに「政策要望書」を提出し、その内容を尊重して国政にのぞむように求めました。

公示日の15日、16日に4人の候補者事務所を訪問して要望しました。政策要望書の内容は下記の通りです。

政 策 要 望 書

 第50回衆議院総選挙に向け、長野県平和・人権・労働組合会議、各地区労組会議は、下記の通りの政策要望を提出します。貴殿におかれては、私たちの政策要望を尊重していただき、当選後の国会活動に反映していただけるように要請いたします。

1.立憲主義に基づき、憲法9条の改悪に反対し、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権を掲げる日本国憲法の原則を徹底して守ります。

2.核兵器禁止条約を批准し、脱原発と再生可能エネルギーへの転換を積極的に進めます。

3.沖縄県の米軍辺野古基地建設に反対し、日米地位協定の改定を求めます。

4.勤労者の生活を直撃している物価高に対し、家計への直接的補助の拡充、中小零細事業者の雇用と事業を守るための支援策を拡充します。

5.労働基本権を擁護し、労働者全体の賃金引き上げと解雇規制の自由化に反対するなど労働者保護ルールの堅持、官民の非正規雇用の待遇改善を図り、正規雇用化をめざします。

6.男女の賃金格差、雇用格差をなくし、女性が安心して働き続けられる権利確立に取り組みます。また、LGBTsなどすべての差別の解消に取り組みます。

7.真の地方自治を実現するための財政を確立し、人員確保を進めます。病院、保健所、保育所、水道など市民の健康と生命にかかわる公共部門の充実をはかります。

8.中小零細企業、地場企業への支援を拡充し、下請け企業の価格転嫁や適正価格での雇用保障、労働条件の維持・向上に取り組みます。

9.公共交通の人手不足への対策を徹底し、ライドシェアなどタクシーの規制自由化に反対し、地域公共交通の維持、活性化対策を強化します。

10.国有林は「国民の共有財産」であり、地球温暖化防止の観点からも十分な予算を投入します。

11.食料自給率の向上や食の安全を確保し、地域における農林水産業を再建します。

柏崎刈羽原発の再稼働を許さない0925

毎月一回第4水曜日長野駅前で、脱原発共同学習会に参加しているメンバーがスタンディングを行っています。

皆さん、こんばんは。私たちは新潟県にあります東京電力柏崎刈羽原発の再稼働を止めようと立ち上がった市民有志です。

9月24日、東京電力柏崎刈羽原発の再稼働を新潟県に求めている経済産業省資源エネルギー庁の村瀬佳史(よしふみ)長官が新潟県議会で自民党県議団と面談し、村瀬長官は政府が9月6日に原子力関係閣僚会議で示した避難道路などの整備方針を説明し、再稼働への理解を求めたという報道がありました。

 

また、自民党新潟県連が政府に避難道路の整備などに加え、事故リスクを負う新潟県が経済的メリットを感じられる取り組みなどを求めているそうです。メリットさえあれば県民が同意すると考えているところがなんだか国民をバカにしているような気がします。岸田首相が、退陣前に柏崎刈羽原発の避難道路整備を関係閣僚会議で指示したり、ここにきて原発をどうしても再稼働させたい思惑が伝わってきます。

柏崎刈羽原発は、ここ長野市から93.4キロの場所にあり、長野県民にとってもひとごとではありません。 

私は、2011年の福島原発事故の時に長野市に自主避難してきました。当時、子どもたちの健康が心配で思い切って故郷を離れました。その経験から、自分なりに伝えたいことがあります。

今、福島の原発事故から、13年が経ち、福島県の子どもたちに甲状腺がんが急増しています。

2011年当時の福島県内の子ども38万人のうち、今年の2月現在370人が小児甲状腺がんと診断されています。通常、小児甲状腺がんの発生率は100万人に1人から2人ということですから、単純計算すると100万人に973人、通常と比べると、480倍から970倍の発生率ということになります。

私の子どもたちも、福島県が行う県民健康調査で数年に一度、検査を行っているので、この現実はひとごとではありません。自分たちが不安に思った状況や、実際に健康影響を受けている子どもがいる、そのことを知ってもらいたいのです。

今、世界では、原発はリスクが高く、また決して安価なエネルギーではないため、再生可能エネルギーにシフトしていっています。日本がどうしてこんなにも原発に固執するのか、一部の人の強大な利益のために国民が利用されているのではないか、そんな視点でひとりひとりが考えてみること、小さくてもみんなでつながれば、大きな力になるのでは・・・そんな風にお話させていただきました。

台風、河川の氾濫、地震、土砂災害などなど、災害が後を絶たない昨今、今一度、ご家族や身の回りの方たちとこれからの日本を担う、子どもや孫世代のために、エネルギーの未来について話してみるのはいかがでしょうか。

次回のスタンディングは、10月30日(水)17:30~長野駅前(東急レイホテル前)です。どなたでもご参加大歓迎です。一緒にスタンディングで再稼働反対を訴えましょう!

市民集会・脱原発2024in信州のお知らせ