21世紀のキーワード―平和・人権・環境

長野県平和・人権・環境労働組合会議

さよなら志賀原発全国集会in金沢に1100人が参加

能登半島地震は最後の警告、今すぐ廃炉に
長野県からもバス2台で34人が参加
 

北陸電力志賀原発(石川県志賀町)の廃炉を訴える「さよなら!志賀原発 全国集会in金沢」が6月30日、金沢市のいしかわ四高記念公園で開かれました。午後1時からのオープニングイベント(オサムノグチバンド、9条おんがくたい、和田廣治)に続き、午後2時から全体集会が始まりました。当日は朝から雨風でしたが、全国から1,100人が集まり、会場は熱気に包まれました。

最初に発言したのは志賀原発訴訟弁護団長の岩淵正明さん。岩淵さんは今回の能登半島地震で、東京電力福島第一原発事故のような大惨事を懸念。道路が寸断され集落が孤立したことなどに触れ、「避難計画など絵に描いた餅であり、住民の避難は不可能だ」と鋭く指摘しました。
続いてルポライターの鎌田 慧さん。鎌田さんは原発はカネとウソと買収でやってきたと述べ、「政治を変えないとこのバカげた原発政策は変わらない」と訴えました。
次はこの全国集会を共催した「さようなら原発1000万人アクション」の藤本泰成さん。藤本さんは「安倍~岸田政権が防衛費に43兆円もの税金を注ぎ込みながら、地震で人々が危機に瀕したら雀の涙しかカネを払わない。福島原発の被害を私たち自身が証明し、裁判に訴えないと何もしてくれなかった。一人一人の命の尊厳を一顧だにしない、原発の過酷事故を起しても誰も責任を取らない、そのような無責任な体制がまた、原発回帰を生んでいるのではないですか」と指摘しました。そして珠洲原発を作らせなかった、自らの命を自ら守った珠洲の人たちに心からの感謝の言葉を伝え、会場は大きな拍手に包まれました。
続いて福島から駆けつけた武藤類子さんが、女川から来た日野正美さんが、柏崎から来た星野幸彦さんが、そして東海第二原発原告団の大石光伸さん、島根原発訴訟の後藤譲さん、関西の「老朽原発を動かすな実行委員会」の仲間が連帯のあいさつと決意を述べました。
その後、能登から志田弘子さんが「のとじょ」の仲間とともに壇上に上がり、「あがらえぬ自然の力に小さな半島は歪み、引き裂かれ、息を呑む光景に成り果てました」、「能登は素朴な暮らしを紡ぎ、海山の豊かな恵みを分かち合い、感謝の手を合わせ続けた命の半島です」、「重い荷を背負わせた子どもたちに、わびる思いで私たちが渡せるものは命の未来につなげる希望なのだ、それをなんとか探したいと本日ここに来ました!」と力強く訴えました。
最後に登壇した全国集会実行委員会共同代表の北野 進さんは「今日の集会の熱気を受けて、全国の仲間と一緒に原発のない未来に向けて一生懸命取り組み、まずは全国に先駆けて志賀原発を止めていく」決意を表明しました。また全国の仲間に対して、「次の機会にはぜひ能登にも足を運んで、私たちの想像をはるかに超えた地球の大きな力、そしてそんなところに原発を作った(作ろうとした)人間の愚かさを実感してほしい」と呼びかけました。

その後参加者は原発のない社会の実現を訴えながら、金沢市内をパレードしました。

※記事は志賀原発を廃炉に!訴訟原告団ホームページから引用

集会は雨の中開かれた。

全国から1100人の参加者が

金沢市内をパレードして志賀原発廃炉をアピール

パレードでは多くの市民が手を振ってくれた

パレードの終了後に主催者が出迎え

長野県からの参加者で記念撮影

長野朝鮮初中級学校の公開授業に地域の方や保護者が参観

松本市にある長野朝鮮初中級学校では6月15日、オープンスクール(公開授業)が行われました。地域の方々や保護者など多くの人が学校を訪れ、児童・生徒が学習する様子を参観しました。

日本で朝鮮・韓国人として生まれた子どもたちが、大人になっても在日コリアンとしてのアイデンティティーを保持していくために、自国の言葉、歴史、文化を学んでいく場として朝鮮学校は必要不可欠です。

長野朝鮮初中級学校には、初級部(小学校)、中級部(中学校)、そして幼稚園があり、約40人の児童、生徒、園児が学んでいます。日本社会の少子化の流れが在日朝鮮・韓国人社会にも押し寄せ、1学年の人数が2人から5人という少人数で運営されています。

子どもたちがまじめに明るく学んでいる姿が印象的でした。また、先生たちも情熱をもって、工夫されて授業をすすめている点もすばらしいと感じました。

授業参観が終わった後、体育館で子どもたちが歌や踊りを発表するミニ公演も行われました。

日本語の授業

日本語以外の授業はすべて朝鮮語で

幼稚園児の体操

朗読の発表も

黒板には大きくハングル文字

理科の授業

理科室で顕微鏡を使って

2人のクラスでは向かい合って児童が相談

幼稚園児の折り紙工作でスイカづくり

日本語授業で熱中症について調べたことをプレゼン

幼稚園児の歌の発表

初級部低学年の歌の発表

初級部高学年の児童

中級部舞踊部が民族衣装を着て発表

中級部の生徒は松代大本営象山地下壕で現地学習も

6月1日、長野朝鮮初中級学校中級部(中学校)の生徒が長野市の松代大本営象山地下壕を訪問して現地学習をしました。

生徒14人はまず、「もうひとつの歴史館・松代」の展示場で大本営工事が行われた理由や朝鮮人労働者の生活や労働実態について説明を受けました。

その後、松代大本営追悼碑を守る会のスタッフから、朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑の前での説明を聞きました。追悼碑を建設した目的は「侵略戦争、朝鮮植民地支配の侵略・加害の歴史を忘却することなく継承していくためのモニュメント」というスタッフの話に生徒たちはうなずいていました。

象山地下壕の内部では、工事に使用した削岩機のロット(先端部分)やランタンのススで書かれた落書き(写真)などを見学しました。

地下壕を出た後には追悼碑の前で、生徒たちが事前学習した内容を模造紙に書いて発表しました。

象山地下壕の中で説明を聞く生徒たち

事前学習の成果を発表する生徒たち

6月22日に松本市でアスベスト面談・電話相談会を開設します

10時~16時 無料・秘密厳守 誰でもお気軽にご相談ください

電話 0263-39-0021 もしくは0263-33-9513

2018年11月に開いた松本市での相談会

2005年のクボタショック以降、アスベスト(石綿)問題が、労働現場でのアスベスト使用や解体に伴うばく露、中皮腫・肺がん発症など労働災害問題にとどまらず、一般市民にも健康被害を及ぼす危険性が明らかになり、重大な社会問題として認識されるようになりました。

アスベストによる健康被害は、30年から40年と言われる長期間にわたる潜伏期間ののちに中皮腫、肺がんなどが発症するため、アスベスト大量使用時代に現役であった労働者や関連工場の周辺住民の健康被害が現代の問題として浮上しています。また、アスベストの吹付、建材に使用された建築物の解体時期を迎える問題も地域社会にとっては重要な課題です。高度経済成長時代の効率のみを追い求める社会風潮が生み出したアスベスト問題は、経済優先の「負の遺産」です。これからの時代は、何よりも人の命や健康を優先させる社会が求められています。

長野県内でもアスベストを扱う事業所での労働者のばく露問題や建築物に使用されるアスベストの解体・補修時の飛散問題など、大きな社会問題となっています。JR東日本では現役の社員がアスベストばく露により悪性胸膜中皮腫を発症、闘病のすえ死亡するという労働災害も注目を集めました。

また、建設アスベスト訴訟で最終的に国の責任が最高裁によって認定され、政府は2022年1月からアスベスト被害にあった建設労働者へ「給付金」を支給する制度をスタートしました。

「長野県アスベスト対策センター」は2018年4月に結成しましたが、「NPO法人じん肺・アスベスト被災者救済基金」(神奈川県横須賀市)の協力により、長野県内の県民・労働者、関係事業者などを対象に面談相談会・電話相談会を開設する計画を立てました。

アスベスト被害の補償・救済については、労災補償制度(主管:厚生労働省等)と労災以外の救済制度(主管:環境省・環境再生保全機構)によって実施されていますが、制度に対する周知や関係者の認識不足などによって、補償・救済を受けられないで苦労されている患者と家族がおられます。また、中皮腫はじめアスベスト関連疾患の治療について相談先を求めておられる場合も少なくありません。

また、アスベスト被害にあった建設労働者へ国が「給付金」を支給する制度についてもまだまだ周知されているとは言えません。

長野県アスベスト対策センターではそうした実情に対応し、過去10回、長野市・松本市で電話相談や相談会を実施し、補償・救済の促進、情報の提供を行ってきました。実際に労災申請へつながる相談も数件ありました。

今回の相談会を通じて、アスベスト被害の実態を掘り起こすとともに、少しでも悩みや疑問がある人からの相談への対応や、健康被害で苦しんでいる人への救済制度の説明など、身近な相談センターとして親身に相談にのります。

アスベスト(石綿)被害 面談相談会・ホットライン

1.日  時  6月22日(土) 10:00~16:00

2.相談場所  面談相談 松本市中央4-7-22 松本市勤労会館 1階

ユニオンサポートセンター(松本地区労働組合会議内)

        電話相談 0263-39-0021もしくは0263-33-9513

        ※相談料は無料/秘密厳守

        ※面談相談を希望される方は事前に連絡を。

3.主  催  長野県アスベスト対策センター

        協力:NPO法人じん肺・アスベスト被災者救済基金(横須賀市)

長野県アスベスト対策センター第7回総会・講演会を開催

長野県アスベスト対策センターは、5月18日に県労働会館(長野市)で、第7回総会を開催しました。アスベストによる肺がんで夫を亡くされた県内在住のご遺族が、建材メーカーへ損害賠償を請求する集団訴訟に参加するための支援など、昨年度の取組みについての報告がされ、今年度の活動方針に沿って、引きつづき長野県民の命と健康を守る活動を推進していくことが確認されました。

国労家族会から県アスベスト対策センターに寄付金贈呈

国労家族会から県アスベスト対策センターに寄付金が贈呈されました。家族会メンバーでアスベスト被害者遺族でもある小林さんから連帯のご挨拶をいただきました。また「JR東日本大井工場アスベスト黒沼裁判」について、「じん肺・アスベスト被災者救済基金」の池田理恵氏から報告をいただきました。

中皮腫・じん肺・アスベストセンターの永倉氏が講演

総会終了後には、県アスベスト対策センターの連携団体である「NPO法人中皮腫・じん肺・アスベストセンター」の永倉冬史氏から「能登半島地震での災害ごみ処理とアスベスト対策/阪神・淡路大震災30年プロジェクト報告」というテーマで講演いただきました。あわせて長野市環境部生活環境課の梨本正彦氏から「能登半島地震災害における災害廃棄物処理事業の現状と課題」というテーマで報告いただきました。オンライン参加者を含めて50人が参加しました。石川県内の自治体議員(2人)の方も参加され飛び入りで報告もいただけ有意義な会となりました。

能登半島地震被災地の状況・アスベスト対策

石川県珠洲市へ支援に入った長野市担当者からの報告

石川県の能登半島地震の被災地では、多くの建造物やインフラに被害が発生しました。現地調査を行った永倉氏から、がれきの中にアスベスト含有建材の破片や鉄骨に吹き付け罪があることが紹介され、災害ごみの処理、アスベスト対策の現状と課題について共有いただきました。また珠洲市の支援に入った長野市役所の梨本氏から、現地の被災状況、支援にかかわる中で見えてきた災害廃棄物処理事業の課題、アスベスト対策について台風19号災害の経験と教訓をふまえながら報告をいただく貴重な機会となりました。梨本氏への質疑応答では、「台風19号災害の経験から、今回の支援に役だった点、活かされた点は?」という質問があり、「次になにが来るかがわかったこと。この時期には仮置場を開設しなくてはいけない、この時期には公費解体の相談が増えてくる、マスコミ対応など、先回りして助言ができることが一番大きかった」と返答され台風19号の経験が今回の支援活動に活かされていることも共有されました。

「阪神・淡路大震災30年プロジェクト」

アスベスト疾患発症増加への懸念

1995年に発生した阪神・淡路大震災から来年で30年を迎え、被災地で飛散したアスベスト(石綿)による健康被害が懸念されています。全国から集まったボランティア活動が注目されましたが、震源被災地でのアスベスト粉塵問題が注目された初めての災害でもありました。大震災から30年が経過し、潜伏期間が30~40年とされるアスベスト疾患の発症が、今後増加していくことが予想されています。

「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」では、大震災から30年となる2025年1月までの期間において、災害とアスベストに関する調査・研究を進め、今後の災害に活かすため、記録に残す活動に取り組んでいます。永倉氏からは「阪神・淡路大震災30年プロジェクト」の取り組みについても報告をいただき、発災直後の防護だけではなく、長期にわたってその影響をモニタリングしていく必要があり、市民の健康を守るためにもアスベストについての情報を周知していく活動の重要性が参加者に共有されました。

Ⅰ 講演概要 永倉冬史氏(中皮腫・じん肺・アスベストセンター)

能登半島地震での災害ごみ処理とアスベスト対策/阪神・淡路大震災30年プロジェクト報告

➀阪神・淡路大震災30年プロジェクト報告

オンラインで報告する永倉氏

■阪神・淡路大震災30年プロジェクト

・2025年は、阪神・淡路大震災から30年の節目の年。30年となる2025年1月までの期間において、災害とアスベストに関する調査・研究をすすめ、今後の災害に活かすために記録を残す活動を開始する。

・今年の防災の日(9月1日)、来年の1月にシンポジウムを開始する。

・災害被災地でのボランティア活動が注目される契機となり「ボランティア元年」と呼ばれるようになった。また震災被災地でのアスベスト粉塵問題がとりあげられた初めての災害でもあった。震災発災直後の倒壊した建造物から発生したアスベスト粉塵は、被災地全域に飛散したと考えられる。アスベスト疾患の発症までの潜伏期間は30~40年と言われ、今後増加していくことが懸念される。

・発災当時、被災地でボランティア活動など粉塵のなかで活動した心当たりのある方に、アスベスト情報を提供することを目的とした活動を実施する。

■阪神・淡路大震災30年PJ事業計画

飛散検証チーム
環境省を中心に一般環境の濃度測定値を発表しているが、その濃度測定地に疑義がある。当時のアスベスト粉塵濃度は、白石綿(クリソタイル)しか測定していない。それ以外のアスベスト繊維の濃度が測定されないままに一般環境の濃度が発表され、それほど危険はないという判断に繋がってしまったことは問題ではないか。当時の記録を集めて分析している。

災害とボランティアチーム
30年ばかり前のことであり難航している。当時ボランティアとして関わったひとたちの記録も残っておらず、高齢化も進行している。

アスベスト曝露チーム
連続公開講座の企画。当時のボランティアへの聞き取りを神戸大学の学生を中心にして取り組んでもらう。若い世代にもアスベスト問題を知ってもらうこともひとつの目的。

防災対策チーム
阪神・淡路大震災から始まった災害被災地でのアスベスト曝露の問題について、能登半島地震被災地の行政等への提言を具体的に練っていく活動。

記録チーム
アスベスト問題への取り組みの活動記録は重要。今後に活用していくためにも。被災地の神戸新聞、東日本大震災の被災地の新聞・河北新報などの記者に専門にアスベスト問題を追った記者たちがいる。彼らに災害被災地での報道の記録の作成をお願いしていく。

■連続公開講座を神戸大学で実施

「震災の経験を記録する——阪神・淡路大震災とアスベスト被害を聞き取り、語り継ぐために」

当時のニュース映像などを交えながら、アスベスト問題がどのように捉えられたか、これからどのようなことが必要かを考える。当時、さまざまなボランティア活動に関わった方にヒアリングに協力していただくことを目指している。

(上記のWEBサイトから転載)

連続公開講座「震災の経験を記録する——阪神・淡路大震災とアスベスト被害を聞き取り、語り継ぐために」

2025年1月に、阪神・淡路大震災から30年の節目をむかえます。1995年の震災やその復興の過程のなかで、たくさんの人々がアスベスト(石綿)の曝露にさらされました。しかし、膨大に広がったものと考えられるアスベスト被害の全貌はいまだに把握されず、しかも30年後の現在はまさに被害が発症するタイミングです。アスベスト被害は決して過去の出来事ではなく、いまも続いているのです。そのような問題意識のもと私たちは、連続公開講座を開催することにしました。第二回となる今回の講座では、アスベスト被害を経験した当事者の方々にお越しいただき、生の声に耳を傾けます。そして、震災によるアスベスト被害の現実を学び、当事者の声を記録し、私たち自身の声で社会へと発信していくことをめざします。

■「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」

阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター(WEBサイト)

https://www.dri.ne.jp/

■具体的な今後の取り組み

全国的なアンケートを実施していく。すでに石川県の被災地に防塵マスクを届ける活動を開始しているが、さたに備蓄用のマスクを送る活動のための寄付金も集めていく。連続講座「震災の経験を記録する」では、若い世代に震災アスベスト問題の本質を理解してもらえるような講座にしていきたい。

②能登半島地震での災害ごみ処理とアスベスト対策

■能登半島地震被災地の現地調査

5月6~8日に「ひょうご安全センター」3人、「東京労働安全衛生センター・リスクコミュニケーションプロジェクト」4人、計7人のメンバーで現地調査に入った。

 

■現地の状況

■防塵マスクを社協・ボランティアセンターに寄贈

輪島市の社協のボランティアセンターを訪問した。マスクを寄付し、「市民のためのアスベスト対策ガイド」やアスベストについて知るための漫画を届けた。漫画は東日本大震災の際に制作したもの。

◇市民のためのアスベストガイド(東京労働安全衛生センターサイトより)

アスベストのばく露を防止するためには被害を受けるおそれのある人々が対策に参加することが重要です。これは職場では「リスクアセスメント」と呼ばれており、世界中で行われていますが、日本の中小の解体の現場では未だ普及していません。アスベストの被害は職場を超えて周辺住民と建物を利用する人々に及びます。住民、建物利用者、建物所有者、工事業者、行政などの関係者が情報を共有し、対策に関与することをリスクコミュニケーションと呼びます。アスベストの対策では、このリスクコミュニケーションが効果的であり、重要とされています。私たちは全国各地で解体工事などでのアスベストをめぐるリスクコミュニケーションに関わってきました。このガイドは、アスベストとは何か、その用途と危険性について解説します。そしてその危険を避けるために働く人や建物利用者と住民が何をすればいいのかを示すために作成しました。皆さんの問題解決のために役立てば幸いです。

市民のためのアスベストガイド(PDFダウンロード)
https://tokyo-oshc.org/wp/wp-content/uploads/2021/08/asbestosguide_compressed.pdf

■被災地のアスベストの状況

大きく報道された倒壊したビル。二つの四角い煙突にアスベスト保温材が使われいる恐れがある。解体には注意が必要になってくる。

焼け野原になった朝市通り。いたるところに花が手向けられていた。

アスベスト吹き付け材が焼け跡に見受けられる。

アスベストが含有される西洋屋根瓦が粉々になって散乱していた。

アスベストを意味する「a」マークが見つかる。

アスベストの吹き付け材が疑われる焼け残った建物の鉄骨。

アスベスト含有の可能性が疑われるロックウール。焼け残った建物の多くに同様の箇所が見つかった。分析していく必要がある。

煙突の耐火材も確認する必要がある。対策が取られない状況で放置されている可能性がある。

ぽつぽつと穴が空いている板が見つかる。押出成形版は最期までアスベストが使用された建材。おそらくアスベストが含有されている。押出成形版がかなり広範囲に散乱していた。アスベスト対策が必要な状況。

橋には段差が発生し車がスムーズに出入りできない状況。同行した神戸のメンバーは「阪神淡路大震災の際に大規模な火災が発生した長田区を彷彿とさせる」と発言していた。

■石川県庁に調査で得られた情報を報告

この視察で得られた情報を翌日金沢市内の石川県庁を訪れ担当部署に報告したが、危険な現状がなかなか伝わっておらず、現状についての情報がよく理解されていないという印象を受けた。

環境省が建物のアスベストの分析依頼を出した。石川県が保有するアスベスト台帳(国交省が主導して災害前から準備するように自治体に働きかけ)をもとに、64棟の被災建物にアスベストの露出状況の調査を行った。そのうちの12棟で吹き付けアスベストの露出が確認され、今後の公費解体の際にアスベスト対策が必要とされる。しかし石川県全域で12棟という数字は、現在の状況が反映されているとは言えない。

全体的に石川県全体でアスベストに対する認識が立ち遅れている現状がある。今後、NPO、NGOなどからの提言が非常に重要になってくる。私たちも今後も被災地を訪れ、調査結果から提言を行いたい。また公費解体にかかわる事業者向けにアスベスト対策のレクチャー・講習も行っていく。

石膏ボードなどの分別を示す看板が設置されていた。まだ運び込まれる前だったのでがらんとしていた。特徴的だったのは、がれき置場の出入口のスタッフに「中を見せて下さい」と声をかけると簡単に入ることができた。他の被災地ではあまりなかったこと。それがいいのかわるいのかはいろいろあるが、行政の監視管理状況も十分には機能していないと感じられた。

今後もわれわれのできることをつづけていく。長野県アスベスト対策センターとも連携して取り組んでいきたい。

【質疑応答】

質問:生協関連で輪島市に派遣されていた方から、団体同士の連携がうまくいっていないという声をきいた。団体同士の繋がりが弱いという印象は持たれたか?

回答:短期間の調査のため全体像は見えていない。しかし神戸からボランティアに来ていた方にきいた話では「連携がわるい」、「情報が全然伝わってこない」という声があった。そのような状況は、他の被災地でもあったが、情報がなぜ均等に行き渡らないのかという問題がある。東日本大震災の際も、当初は行政が機能せず、ある病院の医師が宮城県庁に乗り込んで「これでは誰も助けられないぞ」と発破をかけて、その医師が中心になって連絡体制を構築したという話があった。全体像を理解して体制が組めるような人がいなかったのではないかという印象を持っている。環境省のホームぺージなどを見ると、どういう支援が行われた詳細に分析しているものがあがっている。分析している間に他のことができるのではというくらい分析している。能力のあるひとが現地に入っているだろうが、適材適所になっていたのか。

他県から被災した建物調査に入っているが、それらの情報が石川県にあがっていない、活かされていない、連携がとれていないという感じがあった。長野県の場合は、さまざまな情報を環境政策課、環境課などが取りまとめる能力があった。それを現場で反映して活用できるように情報処理することもできていた。ただ長野県の場合は石川県と異なり狭い範囲で被災地が完結していたが、石川県は被災エリアが広範囲に及び分散する自治体をまとめることができなかった。むしろボランティアの方が連携ができていた。自治体はうまくカップリングできず遅れてしまった印象を受ける。

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Ⅱ 報告概要 梨本正彦氏(長野市環境部生活環境課)

台風19号災害の経験と教訓を踏まえた、能登半島地震災害における災害廃棄物処理事業の現状と課題

【趣旨】令和6年能登半島地震災害において災害廃棄物処理支援員登録制度(人材バンク)として石川県珠洲市で活動した内容を報告するもの。アスベスト対策も含めて報告する。

・2023年5月5日にも石川県能登地方でマグニチュード6.5の地震が発生して、石川県の珠洲市で最大震度6強を観測した。倒壊などの被害を受けた建物があったが、元日の地震がさらに追い打ちをかけた。

・発災直後の現地入りの際は、市役所の別棟に雑魚寝できる部屋があり環境省の職員らと共に寝袋でやすんだ。歯磨きなどはミネラルウォーターを持って行って、朝口をゆすぐという状況だった。
・水道管や下水道管に被害が出て、市民の方も市役所に用を足しに来るが詰まって使えなくなった。その後、仮設トイレを市役所の外に設置した。しかしバキュームカーも道が悪くなかなか回収に来れない状況だった。午前中になると満杯になっている状況だった。
・食事も制限して、できるだけトイレの利用をしないように気を使った。当然風呂にも入れない。
・1月末~2月はじめの二度目の現地入りの頃には、トイレの設置もすすみ、避難所各所に設置されるようになり、活動しやすくなった。
・支援者も増えてきたので宿泊場所が少ない状況になっていたので、長野市の車のなかで休んだ。トイレは利用できたが水道が出ない状況がつづいていた。
・3月の現地入りの際の宿泊はキャンピングカー(北九州ナンバー)だった。30~40台ならんでいた。衛生環境が整ってきた。

・し尿の処理(バキュームカーでの回収・運搬等)に多大な経費
・支援に入った福井県は回収したゴミを福井県内まで運んで処理していた
・一度に施設が被災するとどうにもならないなと感じた。私たちが経験した台風19号災害とは比べ物にならないほどの大きな被害だと実感。

・珠洲市はアスベストが使用される以前の古い建物が多く残る街並み。
・今回の地震では、台風19号災害とおなじく特定非常災害に指定されたので、全壊家屋も半壊家屋も公費解体となり国の補助対象になった。
・写真は元旦の地震で崩れた寺院。かなり大きく立派な建物だったが崩れた。手を付けられずそのままになっていた。

・穴水町が非常に細い道がボトルネック。
・発災直後は、救急車が通行するたびに交通が止まった。
・長野市役所から珠洲市まで12時間かかった。石川県庁から珠洲市役所まで7時間かかった。
・困ったのは携帯の電波が使えず、ナビが使えなかったこと。能登里山街道が走れず、脇道を勘で走るしかなかった。

・1月末の仮置場の開設・運営方法についての会議 アスベスト含有しているとみなして対応することが決定

■被災地の被害の状況

・配管がズタズタになっていた。急ピッチで復旧作業をしている状況。

・能登の復興には、東日本大震災や台風19号災害よりも息の長い支援が必要と感じた。


・いちばんの繁華街のエリア。被災直後の頃は、一日一往復が給油車の限界だったので午前中にはガソリンスタンドは売切れの状態。

・いちばん大きな避難所になっていた。福井県庁が支援に入っており比較的衛生状態がよかったが、仮説トイレも当初は8基しかなかった。また夜間は真っ暗になるため、用を足すのは明るいうちに限られた。

・もっとも津波の被害が大きいエリア。マンホールの隆起が目立った。全部やり替えになる。粉塵が舞っていた。散水もできないのでマスクで防ぐしかなかった。

・焼却場は突貫工事で復旧できた。山を削った場所に建てたので問題なかったが、管理棟は盛り土の上に建てたので被害が大きかった。

【質疑応答】

質問:台風19号の経験は今回の支援に役だった点、活かされた点など教えてください。

回答:次になにが来るかがわかること。この時期には仮置場を開設しなくてはいけないとか、この時期には公費解体の相談が来るとか、マスコミ対応など、先回りして助言ができることが一番大きかった。仮置場の開設の話が1月末に出ている。市内全域が被災した状況のなかでは素早い対応だった。

【県アスベスト対策センター今後の予定】

6月22日(土)第11回アスベスト被害面談・電話相談会を開催

6月22日(土)に第11回アスベスト被害面談・電話相談会を開催します。過去の相談会で寄せられた相談から労災申請にも繋がっています。アスベストの健康被害を抱える方や不安を感じている方、アスベスト加工を業務とする事業者などからの相談をひろく受け付けます。

※相談料は無料/秘密厳守 ※面談相談を希望される方は事前にご連絡ください。

日時 2024年6月22日(土) 10:00~16:00

面談相談 松本市中央4ー7ー22 松本市勤労会館 1階 ユニオンサポートセンター(松本地区労組会議内)

電話相談 0263-39-0021 もしくは

0263-33-9513

市民の憲法講座「現在の『改憲/壊憲』動向を読み解く」愛敬浩二氏講演会を開催

早稲田大学教授(憲法学)の愛敬浩二氏が講演

守ろう平和憲法 信州ネットワーク(信州護憲ネット)は第25回総会と第34回市民の憲法講座を5月3日・憲法記念日に、長野市内の県労働会館で開催しました。オンラインを含め70人が集いました。

今年の「市民の憲法講座」は、信州護憲ネット代表委員でもある早稲田大学法学学術院教授(憲法学)の愛敬浩二氏に「現在の『改憲/壊憲』動向を読み解く」というテーマで講演いただきました。

岸田政権によって急速にすすむ敵基地攻撃能力保有、防衛費大増税などの軍拡路線の危うさ、緊急事態条項にこだわる改憲派の思惑や、政局に利用される憲法審査会の問題、「改憲/壊憲」の動きに対抗するために私たちになにができるかなど詳しく伺うことができました。

市民の憲法講座で講演する愛敬浩二氏

現在の「改憲/壊憲」問題について説明する愛敬氏

平和国家・日本を改変する「改憲/壊憲」

愛敬氏からは冒頭に、戦後日本の平和国家としての気質(武器輸出3原則、非核3原則、防衛費GNP1%枠など)が、改憲を経ずに「壊憲」によって改変されようとしている現状が示されました。

そして、自民党や改憲派野党がこだわる緊急事態条項の新設が、「平和憲法」と呼ばれる日本国憲法の体質の変更に繋がると指摘しました。

愛敬氏の講演スライド

米国主導の下での「戦争できる国」へ

愛敬氏は、自民党・岸田政権がめざす改憲の本質は「壊憲」であり、平和国家という戦後日本の体質・気質を改変させ、軍事大国化が進むことで、東アジア地域の不安定化に繋がると批判しました。

また、改憲についての姿勢に違いがある野党の分断に利用していると、政局的な狙いも指摘。党利党略に利用する改憲論議の不誠実さを非難しました。

日本がアメリカ、中国に次いで世界第3位の軍事大国になることを伝える「ニューヨークタイムズ」、「ガーディアン」の記事

地方自治体を国の意の下に置こうとする動き

緊急事態条項の新設については、国家権力を拡大する一方、統制についての規定がないことを問題とするとともに、緊急事態への対応は、各法律の整備で十分であり、改憲は不要と説明しました。

緊急事態を理由とした国の権限拡大について、現在、国会で審議中の地方自治法改正案(指示権)についても触れ、沖縄で強行する新基地建設を例にあげ、「地方自治体を国の意の下に置く意図がある」と警鐘を鳴らしました。

国は自治体は「対等」という地方分権に逆行する法改正への懸念

戦後憲法政治における「自衛隊違憲論」の意義として、憲法学者の樋口氏の言葉が紹介され、市民の側の運動の重要性が指摘されました。

「戦後憲法学は、『非現実的』という非難に耐えながら、その解釈論を維持してきた。……その際、過少に見てならないのは、そういう『非現実的』な解釈論があり、また、それと同じ見地に立つ政治的・社会的勢力……があったからこそ、その抑止力の効果を含めて、現在かくあるような『現実』が形成されてきたのだ、という事実である」 ― 憲法学者 樋口 陽一

国民に銃を向けていない日本の自衛隊

また中国の天安門事件、韓国の光州事件での市民と軍隊の衝突、現在のミャンマーの情勢にも触れ、アジア各国の軍隊と異なり、日本の自衛隊が国民に銃を向けていないことも指摘しました。

歯止めとなってきた憲法9条の存在

戦後日本は、平和憲法第9条があったため、自衛隊はベトナム戦争などにも参戦せず、他国の人を直接殺すことがなかった事実を広く知らしめていくことで「改憲/壊憲」を食い止めることができると指摘して、憲法を守り活かす運動の広がりをつくることが重要だと訴えました。

ベトナム戦争で多くの死者が出た韓国

信州護憲ネット総会・長野駅前スタンディング

総会では、改憲よりも国民の暮らしを向上し、平和を維持する憲法理念に則った政治への転換を求めていくことを確認しました。

長野駅前では県護憲連合の取り組みとして、スタンディング行動が実施されました。右翼団体からのヤジと妨害もありましたが、市民の方に、平和憲法を守り、暮らしや政治に活かし広げる大切さをアピールしました。

右翼団体の妨害によって騒然とする長野駅前でスタンディング

今を変えよう 私たちの声で ― くらし、平和、政治 

松本駅前での集会・市民アクションin信州に700人が参加

立憲民主党・日本共産党・社会民主党の3野党からの訴えも

市民運動家の菱山南帆子さんが「政治をchangeしよう」とアピール

43人の呼びかけ人と信州市民連合、中信市民連合などでつくる実行委員会は、「Change Now by Our Voice(今を変えよう 私たちの声で)―くらし、平和、政治 6・2市民アクションin信州」を6月2日、松本駅前に約700人の市民を集めて集会と市街地のパレードを行いました。当日は、雷雨も予報されていましたが、幸いに集会中は太陽も顔をのぞかせ、パレードの際にも小雨にとどまり、予定通り実施することができました。

集会では、呼びかけ人の又坂常人さん(信州大学名誉教授)が主催者として「岸田政権は末期症状だ。政権交代を実現してよりましな政治をつくろう」などとあいさつしました。そのあと、立憲民主党から杉尾秀哉さん(県連代表/参議院議員)、日本共産党から武田良介さん(前参議院議員)、社会民主党から大椿裕子さん(副党首/参議院議員)の3人から裏金問題が発覚し、大軍拡・防衛増税をすすめ、国民が苦しむ物価高による生活苦を放置している自民党政治を変えようという訴えがありました。地元(長野2区)の衆議院議員、下条みつさん(立憲民主党)も駆けつけてあいさつしました。

特別ゲストの市民運動家の菱山南帆子さんは、「まさに今、市民の声をあげて政治をchangeしていこう」とアピールしました。

集会では「今こそきちんと怒らなければなりません。仲間を増やし、史上最悪の岸田政権を退陣、政権交代を実現させましょう」というアピール文を採択しました。

集会後には、松本市街地をパレードし「政治をchangeしよう」と市民にアピールしました。

なお、集会の運営費をねん出するため参加者にカンパをお願いしたところ177,664円もの現金が集まりました。あたたかいご協力に感謝申し上げます。

3野党代表と又坂さん、菱山さんが並んで

小雨の中の集会に多くの市民が

アピールする菱山南帆子さん

松本駅前に菱山さんのアピールが響く

参加者がプラカードを掲げてアピール

呼びかけ人が壇上で3野党代表などと一緒にプラカードパフォーマンス

松本市街地をパレードして市民にアピール

集会を報じる信濃毎日新聞(2024年6月3日)

「環境保全型農業による直接支払交付金の拡充を」

食とみどり、水を守る県民会議総会で安藤光義氏(東京大学教授)が講演

国会で成立した「食料・農業・農村基本法」の課題を指摘

食とみどり、水を守る長野県民会議は4月19日、第13回定期総会を長野市で開催しました。構成員や講演会参加者を合わせて約50人が参加しました。

主催者を代表して、中川博司会長(県議会議員)は「食とみどり、水は国際情勢と密接な関係がある。持続可能な社会をどう作るのかがキーワード。組合員と市民に感心を持ってもらうことが重要であり、運動を広げたい」と挨拶しました。

議事では、経過報告として、アジア・アフリカ支援米発送式(約2.8トンの支援米発送)、食とみどり、水を考える集い(南木曽支署管内)、全国活動者会議報告(東京都)及び活動方針が満場一途で承認され、総会を終了しました。

総会終了後は、特別講演として「食料・農業・農村基本法の批判的検討」と題し、安藤光義氏(東京大学大学院農業生命科学研究科教授)より講演を受けました。

講演では、今年4月18日に可決された改正農村基本法の理念と問題点について、これまでの基本法の歩みと日本農業の問題、そしてこれからについて説明がありました。ロシア・ウクライナ戦争が食料輸入に与える影響について、小麦の国際取引量の急増の背景は、ロシア・ウクライナの2国の小麦輸出量が世界の3分の1を占めているためと解説がありました。将来的な方向として、環境保全型農業による直接支払交付金の拡大拡充や、水田農業の維持に対する支援を求めるとし、国費負担による水利施設の更新と維持管理は利害に関わることであり予算的に可能だという認識が示されました。特別講演は公開講座として開催をし、県議会議員の方々を含む20名近くの聴講者があり、食と農業に対する関心の高さを感じることができました。

3・20さようなら原発全国集会に参加して

雨がどんどん強くなる中、集会は始まりました。

さようなら原発全国集会が、東京・代々木公園で開かれ、「フクシマを忘れない!原発再稼働を許さない!汚染水を流すな!」をスローガンに脱原発を訴え、集会後は原宿と渋谷をデモ行進した。

松元ヒロさんのオープニングライブでは、テレビで会えない芸人と言われるだけあって、政治に物申す内容が満載で、雨でびしょびしょになりながらも会場は大いに盛り上がった。

テレビで会えない芸人・松元ヒロさん

主催者あいさつで、呼びかけ人の作家・落合恵子さんは「3.11事故から13年。私たちは忘れてはいけないが、忘れさせていくシステムが山ほどある。ひとりひとりが忘れない、許さないという思いを持ち続けなければいけない」「地震大国に原発はいらない。原発と私たちの命と自然は共存できない」と語った。

呼びかけ人の作家・落合恵子さん

たとえ立場が違っても、原発ゼロを訴える澤地久枝さん

フクシマ連帯キャラバンの皆さんは、3/16に福島市で開催された福島県民大集会からスタートし、ここ東京でのさようなら原発集会をゴールに5泊6日にわたって行動し、その報告をした。団長の渡辺さんは、フィールドワークでの請戸小震災遺構を見学し、「原発がなければ救えた命がある」と強く訴えた。

フクシマ連帯キャラバン、団長より報告

志賀原発を廃炉に!訴訟原告団団長の北野進さんは、「もしかつて計画のあった珠洲原発が建設されていたらと思うと今頃は重大事故で放射能が奥能登や北陸に降り注いでいたかもしれない。寺家は、救急車を呼んでも来てもらえない。避難計画の破綻は明らか。高屋は、2mの隆起、海岸は崖崩れ、住宅の倒壊。珠洲原発があったら、奥能登が被ばくし、孤立していた。3電力の共同開発。地元の反対運動、全国から応援もらった。2003年撤退させた。あらためて全国の皆さんに御礼、元旦の地震の応援に来てもらってる。」活断層学の限界と避難計画の破綻について話し、志賀原発の廃炉に向けての運動が遅れてるので、全国集会をやりたい、その際にはぜひ多くの皆さんに参加してほしいと訴えた。

珠洲原発計画をとめ、志賀原発を廃炉に!訴訟原告団団長でもある北野進さん

主催者発表によると、雨の中この集会には6,000人が参加し、集会の終わりには、全員でプラカードアクションも行われた。

表参道をデモ行進する様子

その後は、天候も回復し、15:00から原宿と渋谷をデモ行進して、脱原発を強く訴えた。

全国から結集した

~集会の流れ~

13:00 オープニングライブ:松元ヒロさん(元ザ・ニュースペーパー)

13:30 集会開始:司会・畠山澄子さん(ピースボート)

主催者あいさつ:落合恵子さん(作家・呼びかけ人)

澤地久枝さん(作家・呼びかけ人)

フクシマ関連 片岡輝美さん(これ以上海を汚すな!市民会議)

フクシマ連帯キャラバンから

能登半島地震と原発 北野進さん(志賀原発を廃炉に!訴訟原告団団長)

原発再稼働関連 多々良哲さん(3・23女川原発の全国集会)

東海第二原発 阿部功志さん(東海村村会議員)

閉会あいさつ 鎌田實さん(ルポライター・呼びかけ人)

15:00 デモ行進

 

 

 

   

 

信州安保法制違憲訴訟での上告を最高裁が棄却

「門前払い」で憲法判断を回避する不当な決定

原告団・弁護団が抗議の声明を発表

集団的自衛権等を認めた新安保法制が、憲法前文、憲法9条などに違反すると司法判断を求める信州安保法制違憲訴訟は、長野地裁、東京高裁で原告の訴えを不当にも退ける判決が出され、原告団は最高裁に対し上告していましたが、4月25日、最高裁は上告棄却、不受理決定をしました。

いわゆる三行半の定型文での棄却であり、許し難い不当決定です。

原告団・弁護団は直ちに抗議の声明を発表しました。

最高裁の棄却決定に抗議する声明

 

東京高裁の不当判決に裁判所前で抗議する原告・弁護団(2023年5月25日)

東京高裁判決報告集会(2023年6月4日)

能登半島現地からの報告-地震・被災・原発(北野進氏講演全文・講演録画)

県原水禁・県労組会議は、2月22日、長野市内で「能登半島現地からの報告-地震・被災・原発」というテーマで、石川県珠洲市在住の北野進氏による報告会を開催しました。北野進氏は現地からオンラインで参加しました。当日の北野氏による報告と質疑応答の全文文字起こしと講演録画のYouTubeリンクをご紹介します。ご活用ください。

珠洲原発反対運動をたたかってきた北野進氏

司会(喜多):みなさん、こんにちは。平日の雪降る中にもかかわらず本当に多くの皆さんにお集まりいただいてありがとうございます。ただいまから報告会「能登半島現地からの報告-地震・被災・原発」と題して、能登、珠洲に在住されていて「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長でもある北野進さんの報告会を始めさせていただきます。今日の報告会、1時間程度Zoomで北野さんに報告をしていただき、そのあと30分程度質疑応答の時間をとっておりますので、質問、意見等があれば自由に出してもらっていいかと思います。今日の主催は県原水禁と県労組会議ですが、広く公開して報告会をやろうということで、脱原発共同学習会の皆さんや、あったかねこの会の皆さんなど大勢の方にも参加していただいています。どうもありがとうございます。

それでは早速報告会を始めていきたいと思いますが、北野さんは、珠洲原発反対運動から始まり、県会議員、市会議員をやって、今は「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長をやられています。私自身も、実は十数年前に石川県平和運動センターにいらしたときに一緒に活動をした仲間でもあります。今日は北野さん自身も被災はされておられますが、能登半島全体を駆け巡って、原発問題について調査もされているようでありますので、そういう話も含めてお聞きしたいと思います。北野さん、報告をよろしくお願いします。

■講演録画(Zoom)もご視聴いただけます

【YouTube限定公開】20240222北野進氏講演会

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北野:皆さんこんにちは。珠洲市の北野と申します。今日は貴重な機会をいただきましてどうもありがとうございます。

元日に起こりました能登半島地震で、皆さんご承知の通り本当に大変な被害があり、特に珠洲市、輪島市は地域壊滅といった状況になっています。こうした中で全国の皆さんから本当に人的物的な大変なご支援をいただいております。先日は労組会議のほうから、宇佐美議長、喜多事務局長がわざわざ能登、石川、金沢のほうまでお見えいただいて義援金のほう、頂戴しております。本当にありがとうございます。

それでは早速ですが画面共有させていただきます。

能登半島現地からの報告として話をさせていただきたいと思います。今日は大体こんな形で、限られた時間ですがお話させて頂きたいと思っています。まず珠洲に原発がなくてよかったということ、珠洲の原発の反対運動についてもこの機会ですので少しお話させていただきたいと思いますし、その中でまた地震の問題、地震との関係についてもお話させていただきます。そして今まさに志賀原発の問題があります。この志賀原発の問題についても活断層の問題、また避難計画の問題の観点からお話させていただき、最後、今の規制委員会の問題点についても触れていきたいと思っています。

まず、奥能登の地震に至る前、3年前から珠洲のほう、群発地震に悩まされてきました。そうした中で、ここがかつての珠洲原発予定地、高屋になります。(図中央右)そしてここが寺家、高屋が関西電力の予定地、寺家が中部電力の予定地ということになりますが、まさに珠洲原発予定地地形の高屋は群発地震のその中にあるということです。そんな中で今回の能登半島地震ということになりましたが、一気に広がって珠洲も輪島も見えなくなるほど。

実は今回の能登半島地震の最初に動き始めた震央は高屋のすぐ裏の山のあたり、ここから動き始めて百五十キロの大きな断層が動いた。

寺家と高屋が今どうなっているのか。地震が起きる前の寺家の予定地。きれいな海が広がっていて、入り江の奥が炉心の予定地。

地震後、炉心予定地のあたりが隆起して海のほうに陸域が広がっている。左側の沖のほうへ出ていく岩場も陸地へつながってきている。

原発予定地のなか、珠洲で有名なランプの宿の写真。地震後、宿の前の岩場が大きく広がっている。予定地に隣接する南側の寺家漁港。防波堤を見るとわかるが、一メートルほど確実に隆起している。陸域も広がっている。もし寺家に原発があったら一メートルの隆起には耐えられない。

高屋について。調査予定地の写真。写真の向きは逆だが左の写真奥のテトラポットの前を写したものが右の写真。岩場が大きく広がっている。かつて原発計画があった当時はよく高屋に足を運んでいたが、高屋の風景が大きく変わってしまっていることに本当に驚いている。

予定地の中にある漁港の防波堤の写真。自分の身長より高く二メートルは隆起している。

左上は高屋の漁港。大きく地割れ、陥没がある。左下は高屋の反対方向の道路。直径四メートルあるような岩がいくつも落ちてきて道路を塞いでいる。右上の白い建物は関西電力が撤退するときに地元に手切れ金という形で寄付した、秋祭りの切子をしまう収納庫。その裏山も大きく崩れて、建物の前の道路も亀裂が走っている。

このようなところにかつて、たくさんの電力会社が原発を計画していた。

海域のほうへ陸地が広がっているものを紹介したが当然陸の部分も併せて隆起しており、そんなところへ原発を立てたらとんでもないことになっていたというのは言うまでもない。原発の設計基準をはるかに上回る隆起がここにあった。

珠洲原発は三電力共同開発という全国でも異例のもの。関西電力は高屋を、中部電力は寺家を、北陸電力は志賀があるため地元の電力会社として様々な調整役という役割分担になっていた。当面は百万キロワット級二基を建設すると国の企画に盛り込まれていたが、一基ずつ作って終わりというわけではなく将来的には一千キロワット構想なども語られていた。

そこに至るまでに様々な動きがあったが、計画が公になったのは1975年。市議会のほうに原発が出来るかどうか調査してくれという申し出があったことが発端。地元から誘致、本来は電力会社が地元に立地させてくださいと来るわけだが、珠洲の場合は地元で是非作ってくださいと誘致していく、当時は珠洲方式と呼ばれていた。

電力会社にとっては地元の合意形成を図る一番難しいところが省かれるようなこと。誰が考えたのかは不明。

当時は、皆さんもご存知かと思うのですが、関西電力は、若狭に加えて和歌山県の方で日高日置川という予定地がありました。中部電力が浜岡に加えて芦浜がありました。ということで遠いこの能登半島の珠洲については、優先順位としては後回し、地元から誘致しているんだから、いざとなればいつでも作れるだろうと、そんな捉え方、位置づけもあったのだろうかなぁと思います。

そんななかで電力会社が地元からのラブコールに応えて始めたのが1989年。関西電力が高屋で実地可能性調査を行いたいとようやく動き始めた。89年の4月に市長選挙があり、調査の是非を巡っての選挙だった。自分も反対派で立候補し、ほかにも直前にもう一人原発反対を掲げた立候補者が出ました。それに対し原子力推進の市長が居た。

票を開けてみたら自分ともう一人の反対票を合わせたら現職の市長の原発推進票440票を上回る結果になった。

当時珠洲の中では原発反対の声をほとんど市民の皆さん上げられない雰囲気があり、市長も原発反対をいうものは市民ではないと豪語するようなそんな雰囲気があった。票をあけてみたら反原発票が過半数を上回る結果だった。各方面にインパクトがあったが、特に反対している人にとって、自分は原発に反対だけれど周りの人がきっと推進だろうと思っていたが、それが半分の人が自分と同じように反対の思いを持っていたと、そういうことが分かっただけでも非常に大きな選挙だったと思っている。

このような結果が出たため関西電力は調査にあたって慎重になるのかと思ったが、市長選の結果が出てから一か月もしないうちに、当初の予定通り高屋での調査をすると出てきた。これに対し反対運動が一気に広がっていった。

その後も市長選や県議選、市議選等、選挙で常に原発の反対賛成を巡り大きな選挙になっていくわけだが、我々も常に反対の民意を示してきた。併せて共有地運動なども展開して寺家、高屋、それぞれで事実上、用地買収は出来ないような状況に追い込んでいる。

そのような流れの中で2003年、電力会社は凍結という言葉を使っていたが、事実上、計画の白紙撤回ということになった。

ポイントになるところなのですが、関西電力が高屋で立地可能性調査を行う計画の図面。高屋の港の背後にある。ボーリングを掘ったりして強固な地盤、岩盤があることを確認するための調査なんだということで始めた取り組み。

ちなみに、今日お集まりの皆さん、ホントに何十年も原発に反対されてきた方が多いかと思います。

この珠洲の原発でこのような動きがあった当時、電力会社は原発を作る土地についてどういう条件が必要なのか、三つの条件を言っていた。当時は強固な地盤、広大な敷地、豊富な冷却水があるところが原発を作るのにいい土地と。特に、強固な岩盤があるか確認すればどこにでも作れると。周囲の、いま問題になっている活断層の話は一言もしたことがない。

これに対し私たちは市長選挙のあと高屋の現地に毎日駆けつけ、三十日間の阻止行動を行った。しかし皆仕事がありそれを放りだすわけにもいかないため一週間の阻止行動で高屋に駆け付けたが、これはいつまで続くかわからないと思ったため、市長に対し、こういう調査を辞めさせろと関電に言えと抗議するため市役所に市長に面会を求めて行った。だがその時に自分たちの目の前にいた市長が途中で逃げ出してしまった。関西電力にもう一度話をしてみると逃げていったため、私たちは四十日間、市役所で座り込みをした。午前中は高屋で阻止行動、昼からは夜を含めて市役所で寝泊まりするという状況になった。

当然、市役所(三階の市長室がある廊下一本挟んだ向かいの会議室)に座り込み(占拠)していたわけで、常識的に言えば市役所の庁舎管理規程違反であり機動隊がいつ入って排除されてもおかしくない状況だった。結果的には四十日間排除されずにやり通すことが出来た。そこで一つ大きなポイントとなったのは地元を含めて、県内では連日、珠洲の原発について報道されていたこともあり、いわゆる県民世論的には私たちの取り組みに対して支持の声がたくさんあった。市長が逃げ出すのもけしからんし、関西電力が民意を無視して調査をしようというのもけしからんと。そういう雰囲気がかなりあった。

結果的にこの三十日間の阻止行動、四十日間の座り込みというなかで、関西電力は調査を中断せざるを得なくなった。

以後この調査がいつ再開されるのか、私たちは阻止をして計画を白紙撤回に持ち込めるのかというところが大きな焦点になっていく。

この阻止行動のあと、その二年後には統一自治体選挙があり私は県議会議員になり、そして市会議員の選挙も当時反対の議員が一人だったが四人に増やし、といったこともでき、そのような中で1993年(四年後)の市長選挙があり、私たちにとってはなんとしても今度こそ市長をとって計画を白紙撤回させようと。対する原子力推進側のほうはなんとしても圧勝して高屋での調査を再開するぞと。このような珠洲の原発の行方を左右する市長選挙をむかえた。私たちの反対側の候補者の出馬表明を93年二月一日に行った。直後、二月七日に能登半島沖地震が発生した。今の群発地震より若干、沖合の北のほうになるが、マグニチュード6.6で被害は珠洲に集中した。

震度は輪島で震度5、金沢で震度4で、当時は能登の震度計は輪島に一つしかなかったため珠洲市は不明。だが被害は珠洲市の集中している。今でいう震度6弱~6強の揺れだったと思われる。

私も選挙の準備で走り回ったのち夜、家に帰ってきた直後に大きな揺れにあい、自分の家もつぶれるかなあと思うほどの揺れだった。

こうした中で当然市長選挙は、大きな地震の起こる珠洲市に原発なんてとんでもないと私たちは主張しますし、それに対して電力会社側、あるいは国、県は何をしたか。地震が起こったんだから一度活断層があるのかどうなのか、どういう状況なのか調査してみましょう、なんていうことを言うわけはない。

国のパンフレットには地震がきたって大丈夫と書いてあり、配布された折込チラシなどには原発は万全の地震対策がとられています。津波対策は万全です、などと書いてある。これらは普段から週一で回ってくるが、選挙中は毎日一枚、多い時には毎日二、三枚。原発推進の今では到底配布できないような内容のチラシやパンフレットが山のように入っていた。

ろくに調査もせずに安全だと安全キャンペーンをはること自体けしからんと。安全軽視の電力会社の体質の現れだなどと批判をすることは簡単なことであり当然その通りだが、能登半島地震の起こった1993年の七月に、志賀原発の一号機が営業を開始している。これは設置許可申請書に添付されていたもの。当時、北電含めて国、地震学者も含めて、能登半島の周辺、断層についてこの程度しか把握していなかった。珠洲の沖合には活断層はない。志賀原発周辺は短く少なく、これが当時の知見だった。まさに関西電力、中部電力にしても大きな地震は来ないのだと頭から思い込んでいた。これらは珠洲だけでなく若狭も福島も含めて原発が出来ていたが、当時はこの程度の知見で日本中の原発は作られていた。

珠洲の選挙の話に戻るが、地震が大きな争点になるなかで結果的に、私たちが支持した反対派の樫田準一郎さんは958票差で負けてしまったのだが、投票者数が17,501票に対し推進派の林幹人市長は9,199票、樫田準一郎さんは8,241票、無効票は88票で計17,517票なのだが、それらを合わせたところ総数が16票多いことが分かり、私たちは開票所に駆け付け、不正選挙だと抗議をした。その他にも票が次から次へと変わる状況があり、私たちは県の??に選挙のことを訴えて、さらに最高裁、不正選挙の究明の戦いになっていく。

高裁の時点で私たちは選挙無効を勝ち取った。判決の理由としては私たちは不正選挙だと、偽造投票用紙の混入や正規投票の抜き取りなど、不正行為がたくさんあったんだと主張した。

これに対して高裁は選挙事務がお粗末であるとし、選挙を無効にした。これは私たちにとっては事務のお粗末さだけでは説明しきれない、明らかに悪意がある。不正の意図がないとこんなことはありあえないと何点も指摘した。最高裁は引き続き高裁と同様に選挙無効の判決を出したが、最高裁の判決の中では選挙の事務全般にわたり疑いを抱かざるを得ない。不正があったと匂わせる判決まで踏み込んだ。原発立地をかけた選挙では、民主主義の根幹である選挙がここまで歪められるんだと改めて確認させていただきたい。

珠洲だけこんな異常なことがあったのかというと、決してそうではないと思っている。最近の原発を巡る様々な議論は上品な感じがするが、あの当時は法律に照らしてもありえないだろうということが珠洲に限らず(福井のほうでも高浜の森山助役の話があったり)、当たり前のように原発立地の地域では展開されてきたと思っています。不正なり反対派に対する誹謗中傷のレベルに留まらず、私自身も夜道を一人で歩くのは気を付けなければならないと県会議員をやっている当時は注意しながらやってきていた。そういった状況の中、今の原発は出来ている。

珠洲の反対運動に戻るが、やり直し選挙ということになったが、残念ながら私たちは負けてしまった。やり直し選挙でも当時の助役が選挙違反で逮捕され、開票翌日には市役所が家宅捜索されるという、珠洲市にとっては恥の上塗りになるようなことがあった。結果的には負けてしまったが、その後も私たちは選挙のたびに原発反対の民意を示していくという反原発選挙を闘い続けてきました。

そんな中で2003年、12月5日電力三社は撤退を表明。電力側は撤退の理由として電力市場の自由が進み始めたことも一つあり、三電力の共同開発としてスタートしたが、自由化の中で三電力それぞれがライバル会社になり、電力会社が手をつないで仲良くやる時代は終わったといことが一つの象徴であった。電力需要が低迷しているなど言っているが、一番は地元事情、反対運動が厳しくて立地の目途が立たなくなったことが一番大きいと思っている。

私たちから見ての勝因、阻止できた、28年あまりに及ぶこの期間の中で大きなポイントになったのが1994年の知事選挙がある。当時国政のほうで細川政権の頃で、いわゆる、国政の非自民の政権、壇上の中で石川もその構図の中での知事選挙が行われ、私たちも珠洲の反対派、反対の市民グループも非自民側の谷本知事の応援をしました。この谷本知事が選挙で公約を珠洲市における原子力発電所立地については現状では困難と認識し、今後については住民合意を最大限尊重すると掲げた。結果的に1994年から2003年電力撤退までこの公約は一字一句変わらなかった。

現状では困難というのが一つポイントとしてある。89年に立地可能調査を中断に追い込んだが、いつ調査が再開されるかわからないという状況がずっと続いてきた。5年ほどそのような状態がずっと続き、私たちは明日にでも不意打ちをするように電力がまた出てくるのではないだろうかと毎日毎晩警戒をしていたが、現状では困難ということはこの調査がいきなり行われることはもうないということです。ようやくここで安心して夜眠れるようになった。

もう一つ大きなポイントとなるのはこの住民合意を最大限尊重するということ。中々役所的には住民合意という言葉は使わず、住民の皆様をご理解を得てという言い方を使う。一方的に説明をして、住民の皆様のご理解を得ましたということをよく言う。そこを踏み込み、住民合意ということで公約に盛り込ませたわけである。

当然そうなると、合意の判断基準とはなにか、ということで当選後の最初の県議会の中で関係漁協の同意、あるいは用地買収の状況、選挙の結果など、これらについてを総合的に判断する。

私たちにとって現状では困難というなかで、合意の判断基準を後退されなければいいということで選挙も毎回しっかりと取り組み、市会議員の数も四人から五人、六人と増やす取り組みもしてきましたし、共有地運動も展開し、用地買収も事実上無理という状況に追い込んできた。

私たちとしては市長をとって計画の白紙撤回をするんだ、ということを一番のポイントとして戦ってきた。そのために県議選や知事選など含めて選挙を戦い、さらに議員を誕生させ、様々な市民団体、労働組合の運動も連携を取りながら運動を展開してきた。しかし相手のゴールに攻め込むだけではなく、自分のほうの守りも大事であり、漁業権や共有地で海と土地を守るということで地権者と漁業者もしっかりと守りを固める。こういう構図の中でいま運動を展開できたと思っています。最後に忘れてはならないのは地元の運動を支えていただく全国の多くの皆さんの応援がありました。長野のほうからも駆けつけていただいた方もおられますし、全国の皆さんの応援があって、珠洲の原発を阻止できたということで、改めて感謝申し上げます。

地下の話に入っていきたいのですが、まずは珠洲の群発地震から触れていきます。三年前からこの群発地震が続いたと話させていただきましたが、私たちにとっては群発地震と言われてもなんなのかということで、最初の頃、震度1や2の揺れが毎日のように続くのですが大きな揺れは来ない。だがいつまで揺れが続くのだろうという風に不安な日々を過ごしてきた。そんな中で専門家の間からこれは地下の流体が原因で地震を引き起こしているという話が出てきた。

流体が原因での群発地震というのはあまり知見がないが松代群発地震というものがあり1965年から5年半ほど続いた。そのことがあり、5年ほど我慢しなくてはならないのかという思いもあった。

だが松代群発地震の場合は流体がかなり上のほう、地表近くで、珠洲の場合はもっと深いので、同じになるとは限らないという議論が一方であった。

地震が小さく続いていたためエネルギーが日々発散されるような状態で、大きな揺れは来ないのではないかという話もあった。

ところが一昨年の6月に震度5強の揺れが起こり、専門家からもこのような大きな揺れが起こるとは思わなかったという発言があった。その後また揺れは収まっていく。

去年の2月には地下の流体がもっと深いところから、太平洋プレートから海水を地下に引き込み、それが能登半島の上のほうへ上がってきたというモデルが示されていた。流体が上昇してくる量が増えていないことが確認できたのでもう収束に向かうのではないかという話出てきた。もちろん市民のみなさんはそういう話は大歓迎なのですが、その直後5月5日に震度6強の地震がありました。市民にとっては誰を信用したらいいものやら、といった感覚があった。群発地震で市民は翻弄される。

専門家の皆さんのいろんな話を聞きつつも、一方で本当に市内でこういう被害が起こると・・。去年の5月5日の地震を含めて、多くの家屋の損壊があり、亡くなった方もおられました。その後家を直すべきかどうか、直すとしていつ直せばいいのか。直してもまた大きな揺れが来るのではないのか。など心配しながら、それでも正月の前には都会に出ている子供が帰ってくることもあり、それまでには直したいということで去年の秋から年末にかけてあちこちで家を直す修理が続いていました。

そんな中で今年の元日の揺れになってくるわけだが、実はさらに強い揺れに警戒をと言われていた。(資料14上)北陸電力が二号機の再稼働に向けた新規制基準適合性審査の中で示している資料。能登半島の沖合に長さ96キロメートル、推定マグニチュード8.1の能登半島北部沿岸域断層帯というものがあると資料で示されている。私も去年、県内のほうで話をする機会があれば必ずこの図を紹介して奥能登の住民の一人としては絶対にこの活断層は動いてほしくない。動いたらもう能登は壊滅状態になるだろう。ただ、こんなリスクがあるのならば、志賀原発の再稼働は絶対に許してはならないし、廃炉にしなければならない、と話をさせていただきました。

また珠洲の原発計画では長さ云々ではなく(活断層は)存在自体が確認されていない、認められていなかった。

1月1日の地震で150kmの断層が動いたといわれている。この間の群発地震、そしてさらにこの一連の動きをみると珠洲の市民からの率直な声として、地震学はその程度なのかと。群発地震の終息、あるいは続くのかといったことが全く分からないわけだし、そしてさらに強い揺れに警戒と言いつつも、これは私の印象だが、本当に危機感を持って地震学者が喋っていたのかというとそんな風には聞こえなかったなと思っている。一言そう言っておかないと万が一起こった時になんと責められるかわからないという防衛的な意味で、守りの意味で警戒をと言っていたぐらいにしか聞こえず、結果的に石川県や自治体のほうも地震の備えに動かすところまでいかなかったわけです。地震学の限界、地層学の知見がこの程度だということを珠洲市民として身をもって体感してしまった。

断層が150km動いたというわけで、北陸電力の想定よりも、東西大きく動いた。志賀原発側、西側はこのように(左側の矢印)動いた。今の規制委員会の審査の中でもこのあたりの断層の連動はないのかと議論されてきた。北陸電力はそれは否定し、規制委員会もそれを容認する形で議論は進んでいった。それから佐渡のほう(右の矢印)に大きくぐっと伸びたが、実は佐渡側のほうにもNT2、NT3という活断層があることが確認されている。ただ規制委員会の議論の中では連動の可能性は全く議論されていなかった。規制委員会も可能性がないのかという検討の指示すらなかった。つまり全くノーマークの断層が動いていた。もう一ついま注目されているのが、志賀原発に近いところ、北側9kmほどのところに富来川南岸断層というものがあり、今回の断層の揺れに合わせて動いたということが確認されている。

富来川南岸断層と今回動いた150kmの断層とは20kmほど離れているにもかかわらず動いたというものはこの間の地震学の知見のなかではありません。もしこういうことがあるのならば志賀原発の審査はもちろんだが全国の原発立地地域の断層の審査にも影響が出てくるものだと思います。地震の直後から私が心配しているのは、今回の能登半島地震、マグニチュード7.6の地震で三年前から続いてきた、一連の地震活動がこれで終わりになるのか?ということ。次の大地震は来ないのか。次の大地震に向けてカウントダウンが始まっているのではないかと心配しています。

などというと素人が不安を煽っていると思われてしまうため、専門家の見解も紹介します。東北大の遠田晋二教授は能登半島地震後、佐渡沖、そして志賀原発沖合や南側の断層に地震を起こしやすくする力が働いているという解析結果を発表している。また、同様な解析結果を金沢大学の平松教授も発表している。佐渡の沖合ということは柏崎の原発に直に関係してくるが、もう一つ志賀原発沖合について報告したいと思う。

北陸電力が作成した資料にわかりやすく数字を入れたもの。かつて志賀原発の周りは大きな活断層はないとされてきたが今北陸電力が出している資料で見ても、周りにマグニチュード7クラスの活断層がたくさんある。ズタズタ状態、これが実は能登半島の現状、実態です。さらにこれらの活断層が連動すればマグニチュード8クラスの地震も起こる可能性がある。ただこの連動はしないというのが北陸電力の現在の評価です。これらが今後の議論でどうなっていくかわかりませんが、こういう活断層に囲まれた志賀原発というところで改めて、今回の地震で終わりではなく志賀原発は今後のこうした地震に耐えうるのか注目していかなければならない、心配しなればならないという状況です。

もう一つ加えて、志賀原発の本当のすぐ近く、志賀原発の東の山側、1kmほどのところに福浦断層というものがある。また海のほうには兜岩沖断層というものが4kmほど沖合にあり、その上には碁盤島沖断層があり、先ほど申した北側9kmほどのところには富来川南岸断層があります。これらいずれも志賀原発一号機、二号機作るときには活断層ではないとされてきたもの。今は活断層に囲まれた原発ということです。

特に注目していただきたいのは福浦断層と兜岩沖断層は並行して走っている。5kmくらいの感覚。これは規制委員会の議論の中でも連動する可能性はないのかと並行して走っている関係でそのような指摘もあった。これに対し北陸電力が作った地図。断層の傾斜方向を福浦断層が西側に傾き、兜岩沖断層は東側と、違う向きに傾いているから連動はしないと、話している。

改めて図の正三角形を見てもらうと、この正三角形をひっくり返したその上に志賀原発がある。どちらの断層が動いても、志賀原発の乗っているところがずり上がるという位置関係にある。

こんなところに原発を作ること自体、そもそもありなのか?というところも専門家の皆さんには議論を深めてもらいたい、私たちにとってはとんでもないという風に思っています。

このような地震の問題に加えて、次の地震があった時に志賀原発は大丈夫なのか、避難計画含めて大丈夫なのかというところを話ししていきたい。今回北陸電力は志賀原発の中を施設のトラブルや様々な破損情報を明らかにした。毎度のように情報が小出しで、私たちにとってまだ隠している情報があるのではないか、隠しているトラブルがあるのではないかと心配、警戒をしている。

志賀原発は実は2007年に臨海事故隠しというものを起こしている。隠ぺい体質は今でもまだ直っていないと私たちは思っている。加えて、このように一度発表した情報の訂正が繰り返されている。今発表している情報も正しいのかどうかということも含めて、心配になってくる。

先月末に社民党本部のほうが北陸電力に対して質問状を出しており、そのなかでこの元日とか人員の関係で人手不足だったのではないだろうかと聞いているわけだが、必要な体制は整っているんだと回答。整っていてこの程度ということです。

改めてこの十三年間、止まっていてよかった。動いていたら原子炉の緊急停止、冷却といった作業は求められてくるわけで、北陸電力にはそういった作業を、とてもこなせるとは私たちは思いません。

もう一つ加えて今回(1月1日)、原発の立地している志賀町で震度7、大津波警報も発令された。また1月6日にも震度6弱の地震があった。これは今の原子力災害対策指針、石川県防災計画で見ても、防災計画上警戒事態になっている。国のほうでも規制庁と内閣府が合同の警戒本部を立ち上げ、現地のオフサイトセンターでも対策本部を立ち上げた。計画でいうと、職員の最初の参集など様々なことをしなければならないが、ほとんどできていなかった。私たちはこの間、原発が重大な事故を起こして、全面緊急事態に至った場合、対応できるのかと心配し、様々な指摘をしてきたがこういった大地震が来たら初動で破綻することが確認できた。

 

また避難計画についてはすでに多くの方が指摘され、報道関係でも出ているが、道路での避難は出来ない、海からも空からも避難は無理だということが明らかになった。さらに今の避難計画では5km圏は重大事故、全面緊急事態で即時避難。5kmから30km圏は屋内退避ということになっているが、屋内退避すべき家は倒壊している、あるいは半壊しており余震が続く中で家にも入れない。仮に入ったとしても放射線の防護機能はすでになくなっている、ということがあり、屋内退避というのも破綻している。

モニタリングポストも116カ所あるが18か所情報が送れなくなった。このような今の防災計画の前提としていることが破綻していた。

さらに今回の地震の実際の対応で、地震が起きて自宅が倒壊したり孤立集落ができる、さらには津波が来たり、火災が起こるということで地元の自治体の職員、または消防団の皆さん、そういった方々が対応していたが、手は全く足りていなかった。地域の壊滅は地域の実働部隊だけでは全く足りていない。

そんな中では原子力防災を担える人がいるのか、原発事故が起きて複合災害に、原発震災になった時に対応できるのか。ヨウ素剤の散布やスクリーニングやるための避難退避場所を設けますなど言っているが全て破綻する、誰もやる人はいないということが明らかになった。

原子力規制委員会は原子力災害対策指針の基本的な考え方は変えないという方針を明らかにしている。屋内退避の運用について、家屋の倒壊がこれだけあり、避難路も使えないが、屋内退避の運用に限って議論していきましょうと。

能登半島地震の教訓を自然災害の問題に限定することが狙いで、原発の災害とは切り離して考えようという方針が見え見えである。確かに今回の能登半島地震による地域の孤立集落の問題、道路の寸断状況というのは能登固有、半島固有の要因だったということは間違いないが、原子力災害がここに加わり地域が孤立していくという問題、これは能登には限らず全原発立地地域に共通するリスクとなっている。

しかし複合災害について原子力規制委員会は自然災害への対応を優先し、人命の安全確保を最優先させるといっている。もっともだと思われる方もいると思うが、要するに自然災害が起きたり津波が来るとなったときに、原子力防災の放射線防護の対応は後回しにする、そこは放棄して、高台に逃げる、家の中に居れないので避難所へ走るなどを優先する。事実上いまの防災計画の破綻だと思っているが、原子力規制委員会はそれを破綻だとは認めない。

山中委員長は家屋倒壊が多数の場合、地震に対する避難行動が最優先とさらっというが、今回の能登半島地震でいうと全く違う。家屋倒壊が多数の場合、下敷きになる人が多数いるわけで、その方々の救出が最優先になるはずだ。原発事故が起きて、できるのか?全国から消防や自衛隊、災害救助の方々も含めてたくさん入っていただいたが、原発事故があったら倒壊家屋での人命救助ですらできなくなる。

写真のようにたくさんの人に来ていただいているが、上記のことがあればこのような方々が来れなくなってしまう。

山中委員長の防護措置の考え方は、避難と屋内退避の組み合わせてやっていくという考えは変えない。今回、避難もできない、屋内退避もできないということが明らかになっているものの引き続きこの組み合わせでやっていくということを言っている。

どのようなことを言っているかというと、避難所や避難道路は原発事故に関係なく、地域防災計画の中で自治体、内閣府がそれを支援する形になるが、基本的には自治体がしっかりやってくださいね、という話。原子力規制委員会はそういったことには責任を持ちませんよ、まずそれは自治体の責任でしっかりとやっておいてくださいよ、という話。これはほとんど、通行止めで避難が出来なくなったら自治体の責任で、地震でも壊れない道路を作れといっているようなもの。これは長野の皆さんから見てもありえない話であると思います。

地震国日本で、田舎の小さな道だから壊れるという話ではなく、この写真は能登里山街道という高規格道路で、このようにズタズタになる。経験的にお話しすると、壊れやすい道路というと盛り土のところ、橋の前後も大きな段差ができる。そのようなところで、壊れない道路を作るのは無理だろうと思う。特にこのように道路の復旧はまず被災地の対応で求められてくるが、これも市街の方からの応援がなければ復旧すらできない。そこも規制委員会(規制委員長)はわかっているのか、わかっていて見ないふりをしているのかわからないが、無視をしているという状況。

屋内退避の運用を検討するというのは、石川県庁、あるいは石川県内の周辺自治体の職員とも話が通じない部分があるが、原子力規制委員会は防災計画や災害対策指針で、周辺住民の被爆をゼロにするとは一言も言っておらず、被爆を低減するといっている。さらに、このような事故が起きた場合の被ばくの目安は福島の百分の一程度の放出量で、100mSvを目安にしていくと堂々と言っている。

公衆の被ばくの限度は1mSvで、その百倍、事故が起きたらそこは我慢してくださいね、というのが規制委員会の方針。そんななかで屋内退避の運用を検討するということは、被ばくが前提、逃がさない避難計画づくりへとこれから進んでいくものだと私は心配しています。

家屋倒壊で避難になり、放射線防護施設があるのでそこに避難してくださいよという話だが、今回の地震で志賀原発周辺の放射線防護施設もたくさん傷んでいた。六ケ所傷んでおり、さらに二カ所は運用停止になった。またその中の一つは放射線防護機能自体失っていた。規制委員会の言っていることが次から次へと破綻していっている。

改めて山中委員長に対しては地域が壊滅していくというこんな中での原子力防災はどうなのかということを直視してほしい、しっかりと学んでほしいと思います。地域の住民は助け合い、珠洲の場合でも輪島市でも同じですが、自治体職員もほぼ全員が被災者であるが、帰る家もなくなるなかで連日連夜、被災地対応や防災対応にあたる。そうしていっても圧倒的なマンパワー不足である。

そんな中で全国からのみなさんに支えられてこの間やってきている。これを困難にするのが原子力災害ということになります。

全国から皆さんの支援がなかったら住民は家に閉じ込められる、あるいは地域に取り残され、被ばくにさらされ、救援もなく汚染地域の孤立は長期化する。まさにこれが原発震災ということになります。

最後にこの地震で全国の皆さんから珠洲に原発がなくてよかったと声をいただきます。また志賀は止まっていてよかった、本当に運がよかったと話があります。それはもちろんその通りだが、地震学、活断層審査の限界を全く自覚しない原子力規制委員会があり、加えて原子力災害対策指針の破綻、防災避難計画の破綻を全く認めようとしない原子力規制委員会がある。この背後には原発回帰路線を進んできた岸田政権があるが、こうした中で私たちはなんとしても志賀に限らず、この能登半島地震を最後の最後の警告として、というのは中越沖地震が起きても福島の事故があってそれでもまだやめないという中で今回の能登半島沖地震です。これを最後の最後の警告として、脱原発社会へ向かっていかなければならないということをお話させていただいて私からの報告を終了したいとおもいます。ありがとうございます。

質疑応答

Q1:不正選挙が行われたのは何年の何月か?

北野:1993年の4月。

Q2:あと志賀原発は最初能登原発と言っていたと思うが、それが稼働する直前に志賀原発と名前が変更されているが、どのような経緯があったのか?

北野:能登原発とかつて言っていたが、計画が公になったのは1967年だが、その時からずっと能登原発と言ってきていた。名前が変わったのは1988年の12月1日。これは志賀原発一号機の着工の日でその日に能登原発から志賀原発へと名前を変えた。なぜ変えたのかというと、能登原発と言っていると能登全体に影響があるような感じなので、そこを狭めた。志賀町に限定した。原発のマイナスイメージを能登全体に及ばないようにするために名前を変更したのではないかと思われる。例えば志賀町の隣には七尾市、和倉温泉などの観光地があり、能登の原発になるとそのような観光への影響を懸念していたのではないかと。

Q3:珠洲市は全国で一番人口の少ない市、1万二、三千。(正確にいうと本州で一番人口の少ない市)限界都市と言われているがそのなかに限界集落がたくさんあり、今回の地震の被害を受けて、復興をどうするのか、ということが悩ましい。10戸ほどしかない集落に道を通し公的資金を投入するのかという意見が一方である。地元の皆さんは今後、限界集落にお住みの方も含めて珠洲市の市民はどのような方向で復興を果たしていこうというのか、どのような気持ちになっているのか?

北野:大事な問題を指摘していただきました。珠洲市は典型的な過疎地(急激に過疎が進んでいる地域)で、そんな中今回の地震でどれだけの人が市外に避難しているのか地元に残っているのかということ自体、正確に把握もできていない。これから復興に向けて議論を進めなければならない。この間珠洲市はどのような方向で来たかというと、市の中心部だけではなく地域全体(沿岸部や孤立地域になっているようなところ含め)に、市内全域に人が住んでいてこそ珠洲市なんだと、そこで様々な生業をやっている人がいて、自然も守れる、自然との共生の中で地域が作られていくという考え方で、拠点を分散してやっていくという方向できている。ただ今回の地震でそのような方向を続けられるのか?孤立するような地域に公共インフラを通して、税金を投資していいのか。お金の問題も絡んできている。街づくりの方向性もどうするのかというのも含めて本当に悩ましいことだとは思っています。

集落の問題もあれば、下水道の区域自体ももっと狭めるべきなのではないかと。これからの復旧に向けて公共下水道のエリアを狭めて、当然空地も増えるため中心の市街地のほうも合併浄化槽に切り替えていったほうがいいのではないかという議論も出てくるかもしれません。山あいの集落の中でも水道管を引っ張るより井戸に切り替えてくれという話も出るかもしれないし、そのようなことを含めて議論はこれからです。市内全域に住んでいける地域を作るのか、きれいな言葉でいうとコンパクトシティ(市の中心に人を集めていくのか)ということになっていくかもしれない。そこは非常に悩ましいことだと思っています。

私としては自然の中で暮らしていきたい人たちがその地域で住み続けたいというのなら、できればそれを支えていく方向で進んでくれればいいなあ、と思っています。

Q4:珠洲の反対運動と賛成派の激烈な対立があり、計画が白紙になり20年以上経つが、その賛成派と反対派が激しく対立して分断された。感情的な対立もあったという話を聞くが、20年経ってその感情、しこりはどうなったか?

北野:2003年の12月5日に電力会社は撤退を表明したがその時点でいえば私も含め、マスコミの皆さんもこういう対立は孫子の代まで続くだろうといわれてきましたし、私も心配していました。ただこの二十年間を振り返り、その対立の溝というのは思いの外早く解消していきました。全くゼロとは言わない(腹の中に持っている人がいるのは間違いない)がかなり解消されている。ポイントが二つあり、一つは電力撤退が明らかになった段階で私たち反対派のほうが絶対に、勝ったとは言わないでおこうということを確認した。電力撤退した後の課題になるのは地域の融和ですから、そこは地域の中で勝ち組と負け組を作るようなことは自分たちのほうから絶対仕掛けていってはいけないと、取り組んできた。実際多くの反対してきている人たちもそういう方向で(きている)。中には腹の中にいろんな思いはあったとは思いますが抑えて、地域の中でそういった人間関係を取り戻すという努力をされたということが一つあります。

もう一つ大きなポイントとなったのはやはり2011年の福島の事故だと思います。それまで推進していた人たちは電力が撤退していったけれども、原発に対する未練を持ち続けている。原発さえできればこのように過疎が進むことはなかったのになと思いを持ち続けていたわけだが、その福島の事故、津波に襲われ爆発する福島の原発を見て、やっぱり珠洲に原発がなくてよかったと。これは多くの推進していた人たちが感じたことであり、私も直接そのような話を聞いています。そんな中で原発からようやく卒業できたのかなと思いがあります。

Q5:今の話の続き)北海道の神恵内や寿都ではお金が欲しいから処分地計画を作る受け入れをしているが、それと同じように福島で災害があり、原発がなくて良かったと思っている方いると思うが、今の中でお金がないという状況の中で、これはやはり(原発は)必要じゃないかという意見もあったんじゃないかと思うがどうか、今これから災害から復興しようというなかで、先ほどの賛成派と反対派の軋轢は残っているのかどうか。珠洲市の産業は農業と漁業だけなのか、北前船は関係なかったのか?

北野:最終処分場の関係、中間貯蔵の議論も含めて、珠洲の原発の計画があった当時から当面原発の話は出ているけれど最終的に電力会社の狙いは最終処分場、中間貯蔵施設ではないのかと噂が絶えませんでした。三電力共同開発という異例の形。加えて半島の先端ということで海上輸送で持ち込みやすいということもあるのではないか。私たちはずっと原発の問題と共に処分場の心配もしてきました。お金の問題は言われるとおりだが、長年に渡る地域の対立があって、原発の問題がなくなり、反対派だけではなく推進してきた人たちも含めて、毎日しんどい。家族の中や地域などで推進・反対と色眼鏡で見られるそんな暮らしということで、そのような状況をもう一度作りたくないというのは皆さんの共通した思いがあるのではないかと思っている。加えて今回の地震ということでお金はもちろん必要になるが、ここに処分場があったらどうなるのかと考えたときにあり得ないんじゃないかというふうに思います。

それから今後の復興に向けてにあたってかつての推進・反対ということですけども、そういうなかでも地域での対立はほとんどなくなっているのでそういった関係で議論になるとは思えないが、地域全体の人が住めるのにしていくのか、中心部に人を集約していくのかという問題はかつての原発推進・反対に関係なく今後のそれぞれの生き方にもかかわっていくし地域づくりのイメージにもかかわってくるし価値観にもかかわってくる問題で、原発推進・反対とは違った意味の枠で難しい対立といっていいのか、議論にはなっていくと思います。

北前船、地域の産業ですが、かつては鉄道なり陸上交通の時代の前は珠洲含めて能登は北前船で栄えてきた。北海道から九州のほうまで海を通じて繋がってきたという歴史がある。戦後の高度経済成長期になって陸路からの鉄道、高速道路、飛行機や新幹線などになっていく中で取り残されてきたというのがある。地域の産業だが農業、漁業とあるが最近は厳しくなってきているが能登杜氏という酒造り(冬場の出稼ぎ)というものが大きな産業としてあった。酒造りの産業を担ってきたというなかでいわゆる外貨を稼いで、春から秋にかけては地域で農業なり漁業をしながら、お金を使わない地域の自然の中で生活していくというところもあったとは思うのですが、だんだんと難しくなってきているところがある。

Q6:経歴のところで大学を出た後ジャスコに務めたその4年後に無農薬の農業をやっていたことを聞きたい。

北野:4年間サラリーマン生活をしたあとで、実は大学時代からの夢でもあった、珠洲のほうに帰りたい。行きたい。という思いがあった。(生まれたのは珠洲の隣、今は合併して能登町になっている)昔から珠洲の原発の計画があった、原発誘致の理由として地域に産業がない、働き口がないということが常に言われる。だからこそ原発だといわれてきたのだが、原発がなくても地域に帰れるじゃないか、暮らしていけるじゃないかと自分なりに示していきたいという思いがあった。その中で無農薬の農業というのを自分なりの選択肢としてあり、ただその経験がなかったため鳥越村、今は合併して白山市になっていますが、そこで無農薬の農業を大きな規模でやっている方がいて、そこに押しかけて2年間やらしてもらい、教わって、珠洲に行ったという経緯があります。そういった思いで珠洲に行きましたが、行ったその次の年に市長選挙があり、私の描いてきた方向性とはだいぶずれてきたというのはあるかなと思います。