東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた男女7人が東京電力に損害賠償を求めている「311子ども甲状腺がん裁判」の第5回口頭弁論が3月15日、東京地裁で開かれました。
今回の裁判をもって、原告全員が陳述をしたことになります。この日は、原告1番、20代後半の男性と原告3番の原告団長の意見陳述でした。
原告1番の男性は、事故当時高校1年生で、いつでも避難できるようにと準備しつつも地元での生活が続きました。大学1年の時に一斉検査を受け、再検査で甲状腺乳頭がんと診断されました。お母さんが医師と話している診察室の外で、スマートフォンで必死で【乳頭がん 死亡率】と検索したそうです。どんなにか彼の頭の中はパニックだったことでしょう。不安な中で手術を決断し、無事に手術を終えたその日の夜中、麻酔が切れた途端に激痛に襲われました。すぐに追加の鎮痛剤を投与してもらい、退院後の1週間は鎮痛剤なしには食事ができなかったそうです。裁判に参加した理由は、大学卒業後、就職で上京した際に、原発事故後に甲状腺がんになった人達の集まりに参加し、甲状腺がんで苦しんでいる人たちの手助けができればと思ったからです。今回の裁判で彼は、原告が納得できる判決をと強く望んでいます。
原告3番の女性の意見陳述は、こう始まりました。「今日は3月15日。12年前のこの日、午後3時を過ぎたちょうど今頃の時間。私の住む町に、高濃度の放射性プルームが襲ってきました。」皮肉にも、もっとも高濃度の汚染があった日でした。事故当時中学3年生だった彼女が、12年後、まさかこのような裁判の原告団長となっているとは、想像もできなかったでしょう。地元のテレビ局が「放射能は花粉みたいなもの」と放送していたり、枝野官房長官が「直ちに健康に影響はありません」と記者会見で話していたことに対して家族はそんなはずはないと言っていたこと、県内の子どもに配られるのではと聞いていたヨウ素剤が、実際は福島県立医大のお医者さんとその家族のみに配られたこと・・・彼女の中で少しずつ不信感が募っていきました。また、放射能の話をすると気にしすぎという態度を取られるので徐々にしなくなったなどと語られました。憧れの東京の大学生になってから、体調が少しずつ悪くなっていき、検査でがんと診断され、3年の時に手術を受けます。その後も体調を崩しやすく、広告代理店に就職が叶ったにもかかわらず、一年半で退職せざるを得ませんでした。
彼女に裁判を決意させたのは、告知後すぐに「このがんは、福島原発事故との因果関係はありません」と釘を刺された時です。この時の強い不信感が、彼女を裁判に駆り立てたそうです。
当時まだ子どもだった何の責任もない彼らたちに、このようなつらい経験をさせなくてはならない現実に、ひとりの大人として申し訳ない気持ちと、そうさせている張本人、国と東京電力に強い憤りを感じます。少しでも多くの方にこの裁判について知ってもらうために運動し、今後もこの裁判に注目していきたいと思います。
裁判が始まる前の地裁前のアピール行動で、原告のお礼の音声が流されました。
第8準備書面(只野靖弁護士)
第9準備書面(井戸謙一弁護士)
第10準備書面(田辺保雄弁護士)