放射能汚染が今も住民を苦しめている現実を見据えよう
2011年3月11日14時46分、東日本一帯を襲った巨大地震。地震と津波によって、犠牲者は約1万8千人、行方不明者は約2千8百人にのぼりました。
東京電力福島第一原子力発電所は、電源喪失によって冷却機能を失い、核燃料が原子炉を突き破って溶け落ちる「メルトダウン」を引き起こしました。
東日本全域に放射能が飛散し、福島原発の近隣では、いまだに高濃度の放射能汚染によって住民が帰還できない地域が広がっています。
たった一度の原発事故で、多くの市民が平穏な生活を奪われ、健康被害におびえることになってしまいました。
原発事故の被害にあった市民の苦難は、これから何十年も続きます。
私たちはこの現実を忘れてはならないし、二度と繰り返さないために脱原発社会をめざす決意を12回目の3・11に改めて誓い合いました。
長野駅前で約40人がスタンディング - 14時46分に黙とう
市民団体や県原水禁などでつくる脱原発長野行動実行委員会は3月11日、長野駅前に約40人が集まり、福島原発事故を忘れず、脱原発社会への進路の転換を訴えるスタンディングを行い、地震が発生した14時46分には、参加者が黙とうをささげました。また、ハンドスピーカーを使って道行く市民にアピールしました。
「当たり前の日常が奪われた現実を忘れない」
松澤佳子さん(県労組会議議長)のスピーチ
11年前の3月11日の1か月後、ボランティアで福島に入った。自分のお母さんくらいの女性に「本当によく来てくれた」と手を握られた。原発事故にあった福島の人々ががいかに孤立させられていたかを感じた。福島のお母さんたちは子どもにマスクをつけさせるか、つけさせないか、避難をするか、しないかと、仲の良かった家族や友人たちが分断され、対立させられていました。帰還困難地域はいまだに存在し、除染をしても森林、山は全く手がついていない。新しい役場はできても暮らせるインフラはない。当たり前の日常が奪われて11年、この現実を忘れてはならない。
「『住民なき自治体』での復興事業への疑問」
兒玉聖史さん(自治労県本部青年部長)のスピーチ
福島原発事故は、原発の技術というものは、ひとたび事故が起きれば、その地域に立ち入ることができない、容易に戻ることはできない、大きな負荷を私たちに与えるのだと教訓として教えてくれている。まさしく故郷を失うというとても大きな損失をもたらすことを私たちは学んだ。だからこそ、どのようにこの技術と向き合うのか、このままこの技術を推進していって大丈夫なのだろうかと問われている。地域の復興に携わっている自治労の仲間と意見交換をしたことがある。復興事業をしながら悩んでいる仲間がいた。自治とは何なのか?人と人が集まって、つながって集団となり町になる、地域になるというなかで、「誰もいない空っぽの町の外側をきれいに飾っている、そんな変な感じがする。救うべき人がわからない、目に見えない」と言っていた。霧をつかむような感覚、住民なき自治体に疑問を感じている仲間。いま彼はどういう思いでやっているのか?、復興が進み、彼らの思い、やりがいはどこにあるのだろう。思い出すたびにモヤモヤする思いだ。原子力発電所の事故は人と人とのつながりを引き裂くとても恐ろしいのものだと感じた。
「『原発いいよ、仕方ねえべよ』とは言えない」
草野麻理子さん(いわき市からの自主避難者)のスピーチ
私は、2011年の福島原発事故の影響で、福島県いわき市から長野市に自主避難した。毎年この日のこの時間になると、胸がザワザワして、苦しくなる。あのときの大津波で大勢の人が亡くなった。あのときを経験した自分にも、振り返れば大きな変化があった。家族や地元を離れ長野市での生活が始まった。3.11前は社会の動きに殆ど関心がなく、原発のことなど何も知らなかったこと。事故が起きて初めて原発の恐ろしさを知った。ロシアが攻撃した欧州最大のザポリージャ原発は世界で3番目の規模。そこで、1番はどこなんだろう?と思っていたら、なんと、柏崎刈羽原発だった。ここから、直線距離で93.5キロの原発が、世界で1番大きな原発だなんて。原発が戦争の道具・おどしに使われている今、決して安全とは言えないことを証明しているようなものだ。私たち長野県民にとっても、今のウクライナの状況を対岸の火事とはせず、備えないといけないといけないと考えるべきだ。今年に入って、福島県沖で水揚げされたクロソイという魚から基準値100ベクレルを超える1400ベクレルの放射性セシウムが検出された。昨年12月に出荷制限が解除されたばかり。これに加えて汚染水の海洋放出をしたら、どうなってしまうのか。私が小さな子どもの母親だったら、福島県そして近隣の海で獲れた魚は食べない、食べさせたくないというのが正直なところだ。事故から11年…私は、これまでの福島第一原発の状況をみていながら、これ以上原発に頼ってエネルギーづくり、そして、子どもや孫たちにその管理を、行く末を押し付けていくなんて、「うんいいよ、仕方ねえべよ」とはどうしても、いえない。原発事故を経験した者としてのせめてもの責任と感じている。